第十六話
第十六話
「――去年度のことなんだけどね」
少し長くなるからと、舞歌に促され座ったベンチ。先程まで真希が座っていたそこは、舞歌の言葉通り日当たりがよく、この時期にしては暖かく、また、確かに狭いスペースではあるのだが、多少のゆとりがあり、穴場というのも頷けた。
そのベンチに座り、少しずつ増していく喧騒をバックコーラスに舞歌はゆっくりと口を開く。
「私さ、学校休んじゃったんだ。一年間近く」
正面を見ながらそう語る舞歌は、穏やかな、諦めたような、その合反する二つの感情が混ざった複雑な表情を浮かべていて。
「それで留年しちゃってさ…。だから真希は私の元クラスメートで同い年。紡は私の一つ下になるんだよ」
「…それでか」
舞歌の口から語られた、想像すらしていかなった事実。
『舞歌にはタメ語で話してるんでしょ?』
真希の言葉の意味が、今ようやく理解出来た。
「…ごめんね、紡。言おう、と何度か思ったんだけど、言えなかったんだ…。紡と一緒にいる時間が楽しくて、心地よくて。今の関係が壊れるかもって思うと言えなかった…」
「舞歌…」
「……ごめんね…」
悲しげに俯く舞歌。俺は、そんな舞歌の頭を、いつの間にか撫でていた。
「もう謝るな」
「紡…」
俺を見上げる舞歌の瞳。その瞳には不安と罪悪感が浮かんでいて。
初めて見る子供のような瞳を見返しながら、俺は、出来るだけ優しく微笑んだ。
「一緒にいる時間が楽しかったのはお前だけじゃない。俺もお前と過ごす時間が楽しくて心地よかった。俺がお前の立場でも言えてなかったと思う」
この言葉に嘘はない。もしも逆の立場だったら、俺は間違いなく留年したこと伝えられなかっただろう。
…人と人との関係が壊れることの辛さを身をもって知っているから…
「だから、気にするな。舞歌」
「紡…。ありがとう…」
安心したのか、めずらしく、本当にめずらしく、瞳を潤ませながら微笑む舞歌。
初めて見るその笑顔は、一言で言うなら“凶器”だった。
普段の笑顔とも、悪戯な笑顔とも。ましてやあの大人びいた笑顔とも違うその笑顔に、俺の鼓動は瞬く間に速くなる。
「ま、まあ、それはいいとしてだ」
頭を撫でている手から俺の鼓動が伝わらないように祈りながら、俺は明後日の方向に視線を向け話題を変える。
「一年もなんで休んだんだ?なんかあったのか?」
「……ちょっと、ね…」
口ごもる舞歌。そんな彼女らしくない行動に、俺は彼女の頭を撫でるのをやめ、視線を彼女に戻す。
「いろいろあってさ…」
「…舞歌?」
俯き、そう言う舞歌。その表情は先程までとは一変し、悲しそうな辛そうな、何かを悟った者にしか出来ない複雑な表情で。
何かを隠している。そのことはすぐにわかった。
けど、俺はそれ以上聞くことが出来なかった。
聞いたところで舞歌は答えてくれなかっただろうし、先程の真希の台詞ではないが、俺は舞歌の全てを知るための資格も、覚悟も、まだなかったから…。
それに――
「…さて。時間も無くなっちゃうから、ご飯食べようか」
「……ああ。そう、だな…」
――それに、聞けなかったんだ。舞歌が俺に、留年していることを言えなかったように、俺も、舞歌と今の関係が壊れるのが怖くて、それ以上聞けなかった…。
「さーて、紡の今日のおかずはなーにーかーなー?」
「お前な…。いい加減俺の飯狙うのやめないか?」
「い・や。それにいいじゃん。そうすればまた間接チュー出来るし」
「誰がするか!!」
今までのやり取りが嘘のように、いつも通りに笑う舞歌。俺もそれに流され、いつも通りの返事を返し。
…けど俺は、気付いてしまった。
舞歌がこの笑顔の裏に、何か深い傷を隠していることを。
そして、その傷を今の俺では癒すどころか、知ることさえ出来ないことも…。
舞歌の傷の断片を知りながらも何も出来ない俺。
俺が感付いたことを知りながらも何も言わない舞歌。
そんな俺達が演じる、白々しい“いつも通りの”やり取り。
最近少しだけ変わった俺達の関係。
これ以上変わるには、長い月日がかかると思っていた。
だけど、そんな俺の予想に反して、俺達の関係は緩やかながらも確実に変わっていくだろう。
……楔はもう、打ち込まれたのだから…