第九話
第九話
周りの視線というものは不思議なものだ。悪いことをしている訳ではないのに、ちょっとしたことで過剰な程気になってしまう。
こちらに向けられている視線が、話し声が、全て自分に向けられているように思えてしまう。
今の俺はまさしくそうだった。
舞歌と手を繋いで歩き出してから、周りの視線が気になって仕方なかった。
俺達の方に向けられている視線が、話し声が、全て俺達に向けられていると感じてしまい、ちっとも落ち着けなかった。
もっとも、舞歌は全く気にしていないようで、鼻歌まで歌っていたのだけど。
そうやって、俺一人がぎこちなくしているうちに、目的の物は着実に買い物カゴに加わっていった。
そして――
「紡君。歯ブラシ置場に到着だよ」
「…ああ。そうだな…」
――次の目的地にたどり着いたんだ。
舞歌に案内されたのは、色とりどり、様々な種類の歯ブラシ達が棚一面に整列している、あるコーナー。
東京でも、これほど並んだ歯ブラシは見たことがない。
良く言えば種類が豊富。
悪く言えばスペースの無駄遣い。
おそらくこの店において言えば後者なのだろう。だけど、これだけ広大なスペースがあれば、こうでもしないと隙間ばかりになり、逆にみっともないのかもしれない。
今店全体に流れているのは、今流行りのJ-POP。クリスマスまでまだ一ヶ月半以上あるというのに、早めのクリスマスソングとして人気を集めている曲だ。俺はあまり興味がないのだけれど。
「紡君はどれ使ってるの?」
「…なあ、舞歌」
「ん?なあに?」
そんな風景を、音楽を背景にしながら、舞歌はとても上機嫌だった。
理由は…俺の自惚れでなければ…
「いつまで手を繋いだままでいるんだ?」
…こういうことだと思う。
あれから30分が経った。
自分で許可したくせに、恥ずかしくて、気まずくて、途中何度か手を離させようとした。だけど、舞歌が、ぎゅっ、と俺の手を強く握っていてそうすることが出来なかったんだ。
それに、舞歌の嬉しそうな笑顔を見ていると、どうしても強く言えなかった。
…だけど流石に、もう30分も経つ。俺達はこういうことを自然とする関係ではない。だから切り出したんだ。この不自然な行為をいつまで続けるのか、と。
「紡君こうしているの、嫌?」
「嫌じゃないけどさ…」
それは本当の気持ち。確かに周りの視線とか、俺達の関係とかを考えるとどうかとは思うのだが、舞歌と手を繋ぐ、という行為自体は嫌ではなかった。
「ならいいじゃん。こうしとけば、はぐれる心配ないし」
「いや…。そういう問題じゃなくて…」
「もー、何が不満?私も紡君も嫌じゃないんだから、別にいいじゃん。こうしてると楽しいし」
「だから……え?」
『俺達こういうことする仲じゃないだろ』
その言葉が咽を通る直前で、違う、マヌケな声へと変わる。
俺は、舞歌とこうしていることは、別に嫌じゃない。それは俺の本当の気持ちだし、先程舞歌にも伝えた。だから、それが舞歌の口から発せられても問題はない。
問題なのは、その前に付けられた一言。そして、その後の言葉。
舞歌は言った。『“私も”紡君も嫌じゃないんだから、別にいいじゃん。こうしてると楽しいし』と。
正直、半信半疑だった。舞歌の機嫌が良い理由が。
自惚れだと、正直思っていた。舞歌は自由人だから、別の理由があってもおかしくはなかったから。
けど、舞歌の今の言葉は、俺の半信半疑の想像が、事実だと証明していた。舞歌は、俺と手を繋いでいる今の状況を楽しんでいるのだ、と。
「―っ!」
それがわかった途端、俺は、俺の顔の表面温度が上がるのが明確にわかった。
今の俺は、柄にもなく真っ赤になっているだろう。
「ん?どうしたの紡君?顔赤いけど?」
「な、何でもない!!」
事実、舞歌に気付かれるくらい赤いらしい。
「そ、それより、こうしてると、取りたいものが取れないから、手を離したいんだけど…」
明確に意識してしまった途端、俺はそれ以上手を繋いでいることが出来なくなり、舞歌にそう言っていた。
別に、異性と手を繋ぐことは初めてじゃない。事実、元カノとは平気で手を繋いでいたし、身体を重ね合うことだってした。
だから、今更手を繋ぐくらいのことでこんなにも照れるのはおかしいのだけれど、何故か、平常心を保つことが出来なかった。
「あ、そか。ごめんね」
想像していた以上に舞歌は簡単にそう言った。正直、もっとごねると思っていただけに、拍子抜けしてしまう。
「じゃあ、はい。カゴ持つから貸して」
…どうやら世の中そう簡単にはいかないらしい。
にこやかに、俺が右手で持っているカゴを受け取ろうと手を出す舞歌に、俺は気付かれないように小さくため息をつくのだった…
・・・・・・・・・・・・
「ありがとうございましたー」
レジの店員の決まり文句を聞き流し、俺は会計を済ませた品をカゴごと取り、袋詰めする為に設けられたスペースに置く。
「ほい。おかえり」
「…ただいま」
そこで待っていた舞歌とアホなやり取りを交わす。隣で商品を袋詰めした主婦が訝しげな視線を向けてきたが、舞歌は満足そうに頷いていた。
あれから数分後。
目的の物を全て集めた俺達は、レジへと向かった。
レジまで手を繋いだままだったらどうしようかと本気で不安になったのだが、レジの数メートル手前で、こっちが驚くくらいあっさりと舞歌は手を離してくれた。
あんなに手を離してほしかったのに、いざ離されると寂しさを感じてしまうのだから、人間は本当に自分勝手だと思う。
「それで、これってどこに入れればいいのかな?」
そんな風に自嘲じみた考えをしている時に、話し掛けてくる舞歌。鋭い彼女のことだから、俺の気持ちも考えも、全て見透かされているのかもしれないが、俺はあえて、そのことをそれ以上考えないようにした。
そんな風に考えて、自然体で舞歌と接せなくなることが嫌だったから。
「ああ、じゃあ、このリュックに入れてくれ」
舞歌に持参していたリュックを渡し、その中に買った商品を一緒に入れていく。
割れ物や貴重品などはなかったので、かなり適当に突っ込んでいった。
「それじゃあ舞歌。頼んだ」
「…は?何を?」
詰め終わったリュックのファスナーを閉め舞歌に渡そうとすると、舞歌はとても不思議そうな顔をした。
「何を、って…。これ」
持っていたリュックに向かって顎で合図をすると、舞歌は訝しげな表情を浮かべる。その表情を見て、俺も訝しい表情を浮かべた。
「私が、持つの?」
「そう言わなかった?俺?」
「聞いてないよ?私」
「……あれ?」
舞歌は冗談は言う。が、嘘を言ったことはなかった。
つまり、俺が言い忘れているか舞歌が忘れているかのどちらかになる。
舞歌との、今朝からの会話を思い出す。
出会った時。
着いた時。
買い物を始めた時。
会計をする前。
どこを思い出しても、舞歌に伝えた覚えはなかった。…つまり、忘れていたのは俺だったんだ。
「…悪かった舞歌。言い忘れてた」
「別に持つ、って言うか、背負うのが嫌な訳じゃないけど、一応、私に渡す理由、聞いてもいい?」
当然の質問だと思った。
お互いが使う物を買ったのならまだしも、このリュックの中に入っているのは、完全に俺の物。
それを、なぜ自分が背負わなくてはいけないのか?
俺が舞歌の立場でも聞いていただろう。
だから、俺は改めてきちんと説明することにしたんだ。
「バイクに乗る時さ、俺が背負うと舞歌が乗る時邪魔になるんだよ。乗り慣れてるならまだしも、舞歌は今日俺の後ろに乗ったばっかだろ?だから危ないって思ったんだ。それに、リュックを前向きに背負うと、これだけかさ張っていると運転の邪魔になるんだ。一人だったらいいけど、舞歌を乗せている状況で、無理は出来ないし、したくない。だから、お願いしたいんだ」
「なるほど。そういう理由なら了解」
「悪いな」
「うんん。私の為を思ってそうしてくれたんだから、逆に嬉しいよ」
「…そっか」
舞歌は、俺の考えを理解し、同意して、そして笑ってくれた。
そんな舞歌に俺はかなりの好印象を覚えたんだ。
「うん。あ、だけど、了承はしたけど、背負うのには条件があるんだけど」
…ほんの数秒だけだけど。