7/8 特別な人達に歌った歌
* * *
「すっげー!マジで完コピレベルにうまい!」
その場にいる誰よりも感嘆して声を上げたのは、初めて菜々の歌声を聴いた野田だった。
新歓の三次会で披露した歌を今度はソロで歌い終えた彼女は、恐縮しきりの様子でそれに答える。
「そんな、完コピは言い過ぎですよ。あたしの声、ケイナみたいにかっこよくないですし」
「そんなことないって。歌い方そっくりだし、ビブラートまでケイナっぽいから、感動したわ」
褒めちぎる野田に賛同を示すように、彼の向かいの席で茂松がうんうんと頷く。
「あの時はマジでケイナ様が降りてきたって感激したもんだけど、やっぱなっちゃん一人で歌うとケイナ様度が増すな」
「そりゃそうだ…」
茂松自身の発言にそのつもりはないのだろうが、あの日彼女と一緒に歌っていた自分への皮肉と勝手に捉えた豊島が、横でぼそっと呟く。
ケイナについて語り合うようになった四人は、やはり語るだけでは飽き足らないという結論に至り、こうしてカラオケに来てケイナの歌を歌おうと計画した。
唯一ケイナと同じ女子で歌もうまいからという理由で、豊島と茂松は菜々に最初に歌ってもらうよう懇願した。あの日のように恥ずかしがって遠慮することも二人は想定していたが、彼らの意に反して菜々はあっさり一番手に歌うことを承諾したのだった。
同じ歌手を好む集まりで好きな歌を歌えることが、よほど楽しいのだろう。初めて彼女の歌を聴いた時よりも堂々と、気分よく歌い上げる先ほどの菜々の歌を聴きながら、茂松と豊島はそう感じていた。
「よしっ。じゃあまずは、菜々様に歌ってもらいたい曲のリクエスト大会から始めるとしようか」
菜々を自身が崇めるケイナの呼称になぞらえて、茂松は三人に提案を持ちかけた。
異議のない豊島と野田は喜んでそれに賛同したが、いきなり大役を背負わされた菜々はさすがに慌てた。
「あたしばっかり歌っちゃっていいんですか?」
「いーのいーの。こないだなっちゃんの歌もっと聞きたいって言ったのに、結局歌えなかったろ」
「あ、そうでしたっけ…」
「んじゃ決まりな。野田は何かある?」
真っ先に茂松からの振りを向けられ、何も用意してなかった野田は悩みながらも、ノリ気で一つの曲を挙げる。歌えますよ、と返す菜々の言葉で、彼はさらに喜んでみせた。
二番目のリクエストを豊島が決めるよう茂松が促したが、同じく何も用意のない豊島は考える猶予をもらうため、リクエスト権を先に茂松に譲ろうとした。だが茂松は「何でもいいから」の一点張りで、豊島の要求をかわす。
仕方なく豊島は、適当にケイナの代表曲と呼ばれる一曲を挙げた。もちろん菜々は歌えると返し、三人の期待はさらに高まる。
最後のリクエストを決める茂松は、曲名を挙げるより先に、いつの間にか手元に寄せていた送信機を操作し始め、不思議そうな目でその行動を見ている他の三人に向けて言う。
「俺さ、どうしてもなっちゃんに歌ってもらいたいケイナ様のバラード曲があるんだよ」
「バラード、ですか?」
意外そうな声で尋ねる菜々の心境と、傍から彼らの会話を聞く二人の心境は、まったく同じだった。
ケイナの曲の特徴として挙げられるのは、曲の疾走感、力強くも澄んだ高音、何よりも聴衆の心を掴む歌唱力と表現力だ。これらが他のどのアニソン歌手よりも優れていること、とまで断言する者もいる。
アニソン界の歌姫と称されるケイナの曲に、バラードがまったくないわけではない。だが「ケイナと言えば」というつもりで選曲した豊島と野田、ひいてはそういう歌を歌わされるものと思い込んでいた菜々にとって、茂松の考えは意外だった。
「だってほら、いかにもケイナ様系の激しい曲続きじゃ、なっちゃん疲れちゃうっしょ?バラードで少し喉休ませた方がいいかなーと思ってさ」
「あー。なるほど」
「でもアルバム収録の曲だからさ、もしかしたらカラオケ入ってないかも。なかったら別の曲にするけど」
「アルバム収録の曲…タイトルは何ですか?」
「キミつた。知ってる?」
「えっ」
「おっ、あったラッキー!これこれ、歌える?」
目当ての曲を探し当てた茂松の声と、菜々の戸惑いを表した声が重なった。送信機を菜々に差し出す茂松の選曲を気にしていた野田は、そのことよりも曲名ばかり気になって送信機を覗き込む。
だが豊島だけは、菜々の反応を訝しんだ。
「あ……知ってます。たぶん、歌えると思います」
「マジで?やっぱなっちゃんすげーなー。アルバムの歌も範囲内かあ」
「ほんとすごいっすよね。菜々ちゃん、バラードもうまいんだろうなあ」
他の二人のリクエストに自信満々に「歌える」と答えていた彼女の言葉が、茂松の時だけは複雑な感情を含んでいた。それにすら気づかず、茂松と野田は呑気に菜々を褒めあいだす。
キミつた、と茂松が菜々に答えた曲名はおそらく略称だ。それだけで反応を返した菜々は、送信機に表示された正式名称をわざわざ確認するまでもなく、知っている曲だと即座に把握したのだろう。
余計な詮索であることを豊島は自覚していたが、それでも彼女が戸惑いを見せた理由が、どうしても気になった。
(歌いたくない…って可能性は、ないだろうけど…)
菜々の好みの曲ではないとか。その曲に嫌な思い出があるとか。菜々ほどの実力を持ってしても歌える自信がないほど難しい曲なのか。ただ単純にバラードを歌うことを苦手としているだけとか。
色んな可能性を導き出したが、菜々本人に聞かないと真相を明らかにできないことだけは、確かだ。
茂松がリクエストした「キミつた」の正式名称が何なのか。それを歌うことが、菜々にとって何を意味しているのか。
豊島の気がかりは、彼女がそれを歌い上げた後まで晴れなかった。
* * *
「……菜々ちゃん?寝ちゃわないでね?」
不安げに顔を覗き込む豊島の問いかけに、菜々は黙って頷き返す。
目線は送信機の一点を見つめたまま、微動だにしていない。その状態が数分ほど続いたため、さすがの彼女もアルコールが眠気に響いてきたのだろうか、と豊島は心配していた。
最初の居酒屋でビールを中ジョッキで4杯と、日本酒が3合ばかり。次に訪れたカラオケでカルピスサワーを2杯と、カシスオレンジを1杯。
途方もない彼女の酒豪ぶりに豊島の想像は追いつかなくなっていたが、むしろその量を飲んでまだ眠くならないと返す彼女に恐れ入るしかなかった。
「……変なこと聞いてもいいですか?」
おもむろに菜々が口を開いて出た言葉に対し、豊島はいつもの軽口の始まりと判断して返した。
「いいよ。俺の嫁談義ならいくらでも」
「豊島さんの嫁が永遠に画面の中なのは知ってますし、変態でロリコン趣味で法的に結婚が不可能なキャラを嫁と呼んでいることも知ってます」
「やめて…俺のHPがだいぶマイナスなんだけど…」
「真面目に聞いてほしいんですけど」
「…すみません」
変なことを聞きたいらしいが、真面目に聞いてもらいたいらしい。
茶化した自分の発言を反省しながらも、豊島はどこか矛盾した彼女の言葉を少しだけ気にして、菜々の次の言葉を待った。
「…あたしが歌うケイナの歌、どうでした?」
どんな質問がくるかと軽く身構えていた豊島は、思いの外端的なその問いかけにきょとんとする。
「え、どうって……やっぱうまいなーって。てか、前よりもうまくなったって正直思った」
「そうですか…」
今度は本心で答えてみせる豊島に対し、彼女らしくない素っ気ない態度で返す菜々。
質問の意図も彼女の反応も、何もかもが想定外のことで焦りを感じる豊島。
おそらく彼女は違う答えを期待したのだろう。そう思った彼の脳裏に、聞き馴染みのある男の声が浮かんだ。
『やっぱ俺、なっちゃんの歌うケイナ、すげー好きだわ』
茂松のその言葉を聞いたのは確か、初めて四人でカラオケに行った日だ。
菜々があの「キミつた」を歌い終えて、茂松の期待のさらにその上をいったらしい彼女の歌を讃えて出た言葉。
それを聞いた彼女は、それまでと同様に戸惑いつつも、最上級の笑顔を見せていた。
(あんな感じで言えば、喜ぶのかな…)
茂松が彼女に掛けた言葉をなぞらえるのは、豊島にとって少し抵抗があった。
菜々の感情に触れてしまうかもしれない。
慎重に判断するべきだったが、その時の豊島はそこまで気にすることはないか、と軽い気持ちで口を開いた。
「俺、好きだよ。菜々ちゃんのケイナ」
ほんの少しだけ言葉を変えて茂松と同じことを伝えたが、それは嘘偽りなく豊島の本心だった。
その想いを受けた菜々の目が、手元の送信機から豊島の顔にゆっくりと移動する。
「…本当ですか?」
特に否定する理由などない豊島が素直に頷いてみせる。茂松の時のように笑顔を見せることはなかったものの、大きく目を見開いてこちらを見据えてくる菜々を確かめて、彼女が望んでいた答えに近い言葉を返せたと豊島は思った。
やがて菜々はふっと頬を緩め、さっきまで黙って見つめていただけの送信機を操作し始める。
「じゃあ最後に、歌ってあげます。豊島さんのために」
そう言って送信アイコンを押し、微塵も酔いを感じさせない動作ですっと立ち上がる菜々。
豊島が見上げる先の彼女の横顔は、今までの彼女が見せたことのない、とても凛々しい顔つきをしている。
目の前にいる菜々は、5年前までともに趣味に興じ語らい合っていた頃の彼女と比べると、もうすっかり大人びていた。
その姿に少しだけ感慨深く思いながら、豊島は彼女が自分のためにと言ってくれた歌を真面目に聞かなければと、菜々からモニタへ目を移す。
(え…?)
そこに表示された曲名には見覚えがあった。
四人でカラオケに行った時に、必ず一度はかけられていた歌だ。
あの男がしつこく、菜々にリクエストし続けた歌。
(この歌、って…)
『 キミに伝えたいコト 』