7/8 魔法の力を引き出した歌
見つめ合う二人の視界の隅で、一粒、また一粒と、雪がちらつき始めた。
「誰かに涙を見せるほど弱くなかったのに、キミの前だと何故か、心が震えてた…」
地声があまり高い方ではない豊島が歌うケイナの歌は、彼女の他の曲を歌う時と同様に、かすれがちな裏声混じりで丁寧に歌い上げられた。
歌う豊島も、静かに聴き入る菜々も、質量を増していく雪の冷たさとは裏腹に、心に仄かな温かみが差していくのを感じていた。
「いつからだろう、こんなにも愛おしいと感じたの。普通の友達だったのに、失いたくないって……思、う……よ……っ…」
自分なりに気持ちを込めて、歌詞の一つ一つに想いを込めて歌っていた豊島は、不意に声を詰まらせた。
この歌なら、自分の気持ちを確かめられるのではないかと思った。そんな魔法のような力がこの歌にあるのではないかと、彼は信じていた。
――失いたくない。
その歌詞を口にしながら見つめていた菜々の姿が、じわじわと滲んでいく。
「…どうか……っ……どう、かっ……」
サビを歌おうとした喉が、言い表せないほど膨大に湧き上がってくる想いに締め付けられる。
思わず菜々の手を握る左手に力がこもり、豊島はその目から一筋の想いを溢れさせた。
「……豊島さん……」
見かねて口を開いた菜々は、もう片方の手を豊島の左手に添えた。
「焦らなくていいから、聴かせてください。豊島さんのキミつた」
「…っ……菜々ちゃん……」
「あたしはもう、勝手にいなくなったりしませんから」
強い想いを込めて言いながら笑いかける菜々の笑顔は、豊島がこれまでに見てきた彼女のそれとは違っていた。
上げた口角を引きつらせ、しきりに唇を震わせ、かすかに目元をひくつかせた、ぎこちない笑顔。
まるで今にも泣き出しそうな痛々しさを見せる彼女の姿に、豊島の胸が余計に締め付けられる。
泣きたくても、泣けない。そんな苦しみを抱える彼女の、力になりたい。
そのために想いを確かめようとした自分が、泣いてどうする。自身にそう言い聞かせながら、豊島は涙を溜めた目を手の甲で無造作に拭い、深呼吸を一つ置いた。
「……どうか……キミが、笑顔でいられますように。許されるなら、これからも私と」
サビを歌い上げる豊島に聴き入っているうちに、菜々の表情は自然と穏やかに変わっていった。
「この想いは確かに、キミへと繋がっている」
拭ったはずの涙が再び滲み始め、豊島は軽く鼻をすすってそれを堪え、サビの最後を鮮明に歌い上げる。
「……伝えても、いいかな……ありのままに」
豊島が歌い終える頃には、菜々はすっかりいつもの満面の笑みに変わっていた。
心からの笑顔を向けられた豊島は、昂ぶった想いに委ねて彼女の体を目一杯に抱き締める。
「ごめん……今まで、本当に、ごめんっ…」
「どうして、謝るんですか…?」
「謝るつもりではいたんだ。謝らなくちゃならないことがたくさんあったのに、何一つ伝えられないでいた。それどころか、何もしてやれなかった」
「…落ち着いてくださいよ。あたしに謝るか、泣くか、どっちかにしてください」
静かに菜々に制され、豊島は彼女をかき抱いた両腕に力を込めて、堪らずむせび泣いた。
嗚咽に震える背中に回された菜々の手が、あやすようにぽんぽんと優しく撫でてくる。
腕の中の彼女の温もりと、その小さな手に込められた優しさに、豊島はこれまでに感じたことのない満たされた想いに包まれていくのを感じた。
「…………やっと、わかったよ」
涙声で切り出す豊島の言葉に静かに耳を傾けようと、菜々はあやす手を止めた。
「――俺は、菜々ちゃんのことが好きだ。菜々ちゃんには、これからも心から笑って生きていってほしい。そのために、俺はどんなささやかなことでも菜々ちゃんの力になれるよう、頑張りたい」
まっすぐに、純粋に、豊島は確かめた想いを菜々に打ち明ける。
ひたむきな想いを受け止めた菜々は、豊島の腕の中ですっと目を細めた。
「……嬉しいです。豊島さんにそんなこと言ってもらえるなんて、夢にも思ってませんでした」
「…馬鹿にしてただろ。魔法使いの俺がこんなこと言えるわけない、って」
「心の声を読んじゃう魔法は、使えるみたいですね」
「図星かよ」
告白の最中であることすら忘れてツッコむ豊島に、抱き合ったまま二人は笑い声を上げた。
こうして二人で軽口を交わしながら、いつまでも笑って過ごしていたい。
心の底からそんな想いを抱いたのは豊島だけではなく、菜々も同じだった。
「…………あれっ」
不意に戸惑いの声を上げる菜々を不思議がり、豊島は菜々の体に回した腕を解いた。
そしておもむろにその顔を覗き込んでしまった彼は、思わず息を呑む。
「嘘……なんで?なんで……涙が……」
菜々の目には、涙が浮かんでいた。
咄嗟に菜々は、それをコートの袖口で拭った。涙を拭き取られた目から、またすぐに涙が浮かぶ。
「変だなあ。泣きたいなんて全然思ってないのに。ろくに感情制御できないとか、ほんと厄介…」
無理に明るく言いながら困ったように笑ってみせ、菜々は繰り返し涙を拭った。
口をつぐんでそれを見下ろしていた豊島は、静かに口を開いた。
「…………『泣いたって、いいんだよ』」
「えっ…」
拭いきれなかった涙を目に溜めたまま、菜々は豊島の顔を見上げる。
至近距離で見上げた豊島は、泣いた跡を残したまま、一点の曇りもない穏やかな微笑みを浮かべていた。
その言葉をどこかで聞いたような気がして、菜々は懸命に記憶を探った。
「無理して笑顔のままでいなくたっていい。泣きたい時に泣けばいい。俺に弱いとこ見せたくないからって、強がる必要はないよ」
「そんな…そんな弱くないですよ、あたし………は…」
「弱いよ菜々ちゃんは」
咄嗟に否定を返す途中で、菜々は思い出していた。
自分がかつて、豊島に対してまったく同じ言い回しで、否定を返していたことを。
それに続く豊島の言葉も、その時とまったく同じであることを。
ふっと息を漏らしながら、豊島は再び菜々の体に腕を回した。
「じゃあ、こうしててやるからさ。好きなだけ泣いていいよ」
「豊島さん……もしかして……」
確かめようとする言葉を躊躇う菜々の耳元で、豊島は静かに忍び笑った。
「……再現させんじゃねーよ。あの時の俺、すげー必死だったから、照れくさいことも平気で喋ってたし」
あの時、と口にしてみせた豊島に、菜々はもう確かめる必要がなくなったことを知った。
何もかもなかったことにしたはずのあの海での出来事を、豊島も覚えていたのだ。
そして聞き覚えがあると感じたさっきの一言は、菜々の記憶から抜け落ちていた言葉だ。
同じように抜け落ちていた記憶がもう一つあったはずだと思考を巡らせているうちに、豊島は言葉を続ける。
「強がらなくていいよ。菜々ちゃんの弱いとこ、俺は『何も見てないから』」
記憶の空白を埋めて告げられた豊島の言葉を合図に、懸命に留めていた菜々の想いが目から伝い落ちる。
豊島の優しさが込められていた、空白だった二つの言葉が、まるで菜々の涙を封じ込めていた扉の鍵だったかのように、次から次へと菜々は涙をこぼした。
しがみつくように豊島の背に腕を回し、肩口に顔を埋めてきた菜々の頭に、そっと優しく手が添えられる。
しっかりと身を支え、心から支えようという想いを示した豊島に、強がる菜々の心は溢れてくる涙によって掻き消されていった。
「…うあああああっ!!あああああぁ!!」
感情に導かれるまま、菜々は泣いた。
あの日のように、目一杯に喉を振り絞って、泣き叫んだ。
だが今は、図らずもあの日の再現になっているようで、まったく違う。
泣きむせぶ菜々は、独りじゃない。
強い想いを込めて抱き合いながら、互いの存在を確かめ合いながら、自分の傍にいてくれる喜びを噛み締めて心を許し合えている。
そのことを実感した菜々は、呆気ないほど急速に声量を落としていき、軽く鼻を鳴らす程度のすすり泣きにあっさり落ち着いた。
「……もう、落ち着いちゃった?」
「……言ったじゃないですか。そこまで弱くないって」
醜態を晒したことを恥じて照れ隠しをする涙声の菜々に、思わず豊島は息を漏らした。
豊島がぽんぽんと軽く頭を撫でてから、二人はそっと体を離して向かい合う。
「今度こそ、本当に助けたよ。これでもう文句のつけようないだろ?」
「…そうですね。おかげさまで、普通に泣かせていただきました」
「なんか、泣かせたって言うと逆に悪いことしたみたいで、助けた感じしないけどな」
「いいえ、ちゃんと助けてもらいました。なかったことにしたのも合わせると、何回助けられたんだろあたし、豊島さんに」
「さて、何のことかな。なかったことって」
わざとらしくとぼけてみせる豊島に、菜々は思わず吹き出す。
この際、ごまかす必要なんてないだろう。そう思いながら何の気なしに口を開きかけて、はたと菜々は気付いた。
なかったことにしていた出来事の一つに、どうしても解けない疑問があったことを思い出したのだ。
確信はないが、この屋上でのやりとりのどこかで、その答えとなる鍵があったような気がしたのだ。
「…………なんか、わかった気がします」
「……何が?」
「泣けなかった理由と、急に泣けるようになった理由。たぶんそれは、豊島さんが大きく関わってて、あ、でも豊島さんのせいってわけじゃなくて、むしろ豊島さんのおかげでこうして…」
「待て待て落ち着け。焦らなくていいから、ゆっくり考えまとめなって」
慌てて豊島に制され、菜々は視線を落として懸命に熟考し始めた。
答えはもう出ているはずなのに、うまく言葉にすることができない。もどかしさのあまり、菜々は再び目に涙を滲ませた。
明らかに焦りを見せる菜々を見て、豊島はふっと息を漏らす。
「……気持ちの整理がつかないなら、歌ってみな」
「歌…?」
「菜々ちゃんのキミつた、聴かせてよ。俺も歌ったし」
突然の提案に面食らって、菜々は返答することも歌うこともままならず、涙目のまま言葉を失った。
そんな彼女の心情を察した豊島は、言い回しを変えて彼女に告げる。
「一緒に歌うか」
それは、誰かに歌を聴かせる自信のなかった菜々を、勇気づけた言葉。
誰かに歌を聴いてもらえる喜びを知る、きっかけとなった言葉。
その言葉の懐かしさに、歌いたいという強い想いと、熱いものが同時にこみ上げる。
あの時のように満面の笑顔で力強く頷いた菜々の目から、温かい涙が頬を伝った。




