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涙の魔法 -彼女の終わりと恋の歌-  作者: 燐紅
ラストシーン ―アンコール―
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6/8 誰かのために自分が出来ること

 菜々の指先から落ちた煙草は先端を赤く光らせたまま屋上の床面を転がり、冷え切った風に流されて暗闇の彼方へ飛ばされていった。


 前屈みになって胸元を押さえつけ、苦しげに呼吸を繰り返す菜々の傍らで、豊島はただ狼狽えた。


 やはり、背中をさすってやるべきなのか。いや、それが正しい対処じゃない、なんてことはないだろうか。それで余計に彼女を苦しめてしまわないか。しきりに肩を上下させて喘ぐ菜々を前に、彼はその身に触れることすら躊躇い続けた。



(怖じ気づいてんじゃねーよ俺。早くなんとかしてやらないと、また気を失うまでこの子は…!)



 どれだけ自身を叱咤しても、菜々に触れることができない。


 やむを得ず、豊島は苦々しく問いかける。



「……どうしたらいいんだ、菜々ちゃん。背中さすっても平気か?落ち着ける方法、何かないか?こんな時いつもどうしてる?」



 ただでさえ呼吸の制御が利かない相手に言葉を返させるなど、明らかに誤った行為であることは承知していた。


 どうすることもできない。彼女の身を支えることはおろか、震える肩に手を添えることすら、怖くて仕方ない。


 たった一人で苦しみに耐える小さな彼女を救おうとして、それでさらに苦しめてしまうことを恐れるあまり、何もしてやれない。



「……だ……大丈…っ……大丈夫、ですか……らっ……」


「大丈夫なわけあるか!意地張ってないで、なんとかして呼吸落ち着けないと…!」


「じゃ、そのっ………ちょと、だけ……協力……要請………しま…」



 途切れ途切れに発した言葉に、ようやく強がりを取り払う気になった菜々の意思を汲み取り、豊島は次に発せられるはずの彼女の頼みを聞き漏らすまいと神経を研ぎ澄ませる。


 だが菜々は、体ごとこちらを向いて膝立ちになっていた豊島の方へにじり寄り、縋り付くようにその胸元へ顔を埋めた。



「っ!菜々、ちゃっ…!」



 思わず声を詰まらせ、密着してきた菜々を動揺しきりの目で見下ろす豊島。


 咄嗟にその両肩に手を置こうとして、懸命に揺れ動く肩を見つめているうちにその指先は震え、力無くそのまま降ろして拳を固く握った。



(……なんで、俺はこうも情けねーんだ。何が『自分に自信を持って欲しい』だよ。偉そうに菜々ちゃんに言えた立場かよ)



 ただ、待つしかできない。彼女が呼吸を静めるやり方の一つとして自分を利用したのなら、黙ってそれに委ねているしかない。


 全身に伝わってくる荒い息遣いを嫌というほど受け入れる豊島に、できることは何一つなかった。


 苦しむ彼女を見守り、次第に呼吸が落ち着いてくれることを祈って、待っているしかなかった。



(あの時……野田は菜々ちゃんの過呼吸をなんとかしようとして、それで取っ組み合いになってたのか…)



 茂松とともに駐輪場に駆けつけた時、野田は菜々の腕を掴んで自身へ引き寄せようとしていた。その時はただ抵抗する彼女を手籠めにしようとしているようにしか見えなかったが、過呼吸を起こしていた彼女と彼の心情を併せ考えると、そう解釈するのが自然だった。



(この際、野田だろうと誰だろうと構わないから、この子を……菜々ちゃんを……助ける方法を…………誰かっ……!)


「…………豊島、さん」



 思わず自身の息を止め、豊島は不意に呼びかけてきた菜々に目を見張らせる。


 厚手のパーカーを着込んだ豊島の胸板に両手を置き、菜々はそこへ押しつけていた顔をほんの少し離した。


 大いに焦りの色を浮かべた豊島の不安に反して、気が付くと菜々の呼吸は呆気なく落ち着きを見せ始めていた。



「だいぶ、楽になりました……協力、感謝です」


「…本当にもう、平気なのか?」


「平気です。いつもならこれくらいで収まっちゃうくらい、大袈裟な症状じゃないんですよ」



 明るい声で返してみせ、菜々は顔を俯けたまま時間を掛けて繰り返し深く呼吸する。


 やがてふっと勢いよく息を吐き出して、ぱっと顔を上げた。



「ほら。もう全然平気です」



 満面の笑みで見上げてくる菜々を、豊島は悲しい目をしながら見つめる。


 左頬の痕のことなど、彼女はもうすっかり忘れているのだろう。彼女の強がりを余計に強調するその部分ばかりが気になって、豊島は目を背けたくなる衝動を必死に堪えた。



「……よくあること、なのか?」


「三人で付き合うようになってからは、滅多になかったですよ」


「それよりも、前は?」


「…割と頻繁に。離婚したばかりの頃なんか、ほぼ毎晩だったかも」


「そんなに…」



 眉尻を下げて困ったように笑ってみせる菜々を前に、もはや豊島は溢れんばかりの同情を募らせるあまり、彼女の前で涙するのを抑えるのに必死だった。


 誰よりも辛い思いに耐えてきた彼女でさえ、人前で泣いて簡単に済ませたりなどしていないのだ。自分が泣くわけにはいかない。



「…やっぱり、強いんだな菜々ちゃんは」


「全然強くないですよ、あたしなんか」


「いや、充分強いと思うよ。簡単に弱音吐いたりしないし、人前で泣いたりしないで笑顔見せられるし」


「それは、仕方ないことなんです」


「仕方ない、って?」



 何の気なしに尋ね返す豊島の前で、しまったと言わんばかりの焦りの表情を浮かべて菜々の目が泳ぐ。


 迂闊な発言を悔いる菜々を豊島が訝しげに見つめていると、やがて菜々は諦めたように口を開いた。



「……泣けなくなっちゃったんですよ、あたし」


「……泣けない?」



 視線をどこかへ逃がして憂いを湛える菜々を、豊島はさらに眉根を寄せながら訝しむ。



「辛いことがあると、普通に泣いて気を晴らしてました。カナちゃんさんにフラれた時なんか、奈津美の前で大泣きして弱音吐きまくって、無理矢理吹っ切ったんです。それがいつからか、泣きたくなるくらい辛いことがあっても、涙が出なくなっちゃったんです」


「人前ではしっかりしないとって、思うようになったのかな」


「そうじゃないんです。一人きりの時も、泣けなかったんですよ」


「えっ…」


「涙が出なくなったのと引き替えに、過呼吸を起こすようになった。苦しい思いをすることで、別の苦しみを紛らわすようになった」


「……」


「難儀な体質になったもんですよ、まったく」



 軽薄に笑い飛ばしてみせる菜々に、同調して笑う気になど少しもなれなかった。


 こんな時でさえ笑って返せる彼女に対して、無力な自分が何をしてあげられるというのか。


 泣いて気を晴らすことができず、苦しみで苦しみをごまかすことしかできない彼女に。


 苦しみ続けるしかない現実に耐えきれず、生きることさえ諦めようとしていた彼女に。


 それでも平気ぶって、強がって、偽りの笑みを向けてくる彼女に。



「…………俺にできそうなこと、何かないかな」



 ぽつりと呟かれた一言に、きょとんとして菜々は豊島を見上げる。


 少し間を置いてふっと息を漏らし、呆れたようにその問いかけに答えた。



「魔法使いの豊島さんに、期待なんて全然してません」


「……賢者になったら?」


「呆れて何も言えません」


「だよな…」


「無理して頑張ろうとしなくたって、豊島さんはただあたしの『お兄ちゃん』でいてくれるだけで充分なんですから」



 しっかり者の『妹』は、そう言って笑ってみせた。


 情けない『兄』だと小馬鹿にされて、好き放題に遊ばれる存在でいてくれるだけでいいと。


 無理に頑張ろうとしなくてもいいと。



(俺に頑張ってもらいたくて、言ったんじゃねーのかよ……あの時の君は)



 真実を隠して豊島に本心を明かしていた時の、菜々の言葉。



『後輩ちゃんのことちゃんと好きになれば頑張れるってw』



 頑張らなくていいと本当に思っているなら、そんな風に言ったりしただろうか。


 どちらが、菜々の本音なのか。



『よっしーからちゃんと好きって言ってもらえるまでは自分から告白できない、とか?』


『ふつー女子って男子から告白されたいもんだろ』


『イブに後輩ちゃん告っちゃえ!』



 断片的に脳裏に浮かぶ、軽薄な文面。


 Lizという仮想の人格を借りて、菜々は鈍感な豊島に期待を込めて、想いを明かし続けていたのだ。


 豊島に、告白されたい一心で。


 豊島に、好かれたい一心で。



(……シゲやら野田やら、人任せにして逃げるべきじゃない立場に、俺はもうとっくになってたわけだ)



 思い詰めたような表情ですっかり黙り込んだ豊島の顔を、菜々は不思議そうに軽く覗き込んでくる。おもむろに目を合わせてきた彼女に動揺することはなく、豊島はじっと彼女を見つめたまま閉口した。


 互いに膝をついて向かい合ったままの二人の間に、一粒の白い光が通り過ぎる。



「あれ、また降ってきたかな」



 ふいと顔を上げて、菜々は曇天の冬空を仰ぐ。視界いっぱいに広がる星明かり一つない空から落ちてくる雪は、彼女の目には映らなかった。



「…気のせいかな。でもなんか寒くなってきたし、また降りそうですね。豊島さんのコート、そろそろお返ししま…」



 豊島のコートを脱ごうとした手が、不意に掴まれる。驚いて目を見開かせる菜々の手首を掴んだ豊島は、変わらず無言で彼女を見つめた。


 返さなくても平気かと尋ねようとしたが、阻んできた彼の左手を見た菜々は、思わず問いかけの言葉を飲み込んだ。


 小指の付け根から手首にかけて痛々しく残った、打撲の痕。菜々を哀れむがあまり、渾身の力でフェンスを殴りつけた時の痕。


 その痕から視線を戻した菜々の目に映ったのは、その時と同じように神妙な顔で見つめ返してくる豊島の瞳。


 いつまた雪がちらついてもおかしくないこの空と同じく、今にも泣き出しそうだと感じるくらい、悲しい目をしていた。



「豊島、さん…?」



 手首を掴まれたままぼんやりと呼びかける菜々の声に、豊島は一呼吸置いてからゆっくりとそれを下ろした。


 掴んでいた左手を離し、今度は彼女の指先を包み込むようにして手を握る。


 手首を掴まれていた時のコート越しの温もりではなく、直接触れてきた豊島の温もりに、菜々はわずかに頬を緩ませた。



「――独りで泣きたくなる夜は、キミのコトばかり…」



 囁きかけるように、静かに口ずさみ始めた豊島に、菜々はゆっくりと目を見開かせる。


 戸惑いを隠しきれない彼女の反応にぎこちなく微笑みかけながら、豊島は深く息を吸い込んで続ける。



「泣き虫だねなんて……笑われたせいだよ」



 恥じらいがちに、躊躇いがちに、豊島は菜々を見据えながら歌った。


 菜々は、豊島が歌う『キミつた』を初めて聞いた。

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