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涙の魔法 -彼女の終わりと恋の歌-  作者: 燐紅
ラストシーン ―アンコール―
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3/8 誰かを好きになるということ

 苦々しく顔を歪めて目を伏せ、豊島は動揺を紛らわそうと咥えたままの煙草から煙を多めに吸い込む。肺に溜め込んだ煙とやるせない想いを深く深く吐き出しながら、口から外した煙草を火消しを借りず屋上のコンクリート面に擦りつけて揉み消した。



「…わかってねーよ、そりゃ。まともに人を好きになったことなんてないし」


「今まで、一度も?」


「ああ。気が合う子だなとか、一緒にいて飽きない子だなとか、そう感じたりすることは何度かあったけど」


「へえー。どんな人なんだろうな、豊島さんがそんな風に感じたりするような女の子って」



 興味津々に呟きながら想像を巡らせ始める菜々に視線を戻した豊島は、吸い殻をカンカンに放り入れながら何とも言えない表情でその楽しげな横顔を見つめる。


 37年という人生の中で巡り会った異性のうち、豊島にとって他の異性と比べてどこか特別な存在として見ていた女性は、これまでに何人かいた。具体的にどんな人がいたのか訊いてくるだろうかと、菜々が次に発する言葉を予想して豊島は軽く記憶を巡らせる。


 だが、いつ出会ったどんな異性だろうと、容姿も人柄も鮮明に思い出すことは出来なかった。


 好意に近い感覚で接していた、強く印象に残るような存在は、豊島にはなかった。



(菜々ちゃん以上に印象に残る子なんか、そうそういねーよ…)



 10歳離れた単なる会社の元後輩にしては、豊島にとってあまりにも強すぎる印象を残した存在が菜々なのだ。


 初めて、自身に好意があることを仄めかしてきた存在。初めて、自身と恋人関係になることを許した存在。


 初めて、自らの意思でその関係を絶った存在。


 そして何より、彼女の人生の岐路に立ち会ってきたこと。


 誰かに好意を抱き続け、誰かから好意を寄せ続けられ、その苦悩と葛藤に苛まれて浅はかな決断を下す彼女を、豊島は救った。


 それは今回が初めてではないことを、豊島は覚えていた。



「あたしも、わからないんですよ」



 物思いに耽る豊島の思考が、不意の菜々の一言で現実に引き戻される。発言の意図を図りかねて、豊島は訝しげに彼女を見た。



「……どういうこと?」


「誰かを好きになるって感覚、実はあたしもよくわかってないんです」


「……は?」


「だからあたしも、豊島さんと一緒です」



 肩を竦めて自嘲する菜々の笑みを、思わず豊島はまじまじと見つめる。



『誰かを好きになる感覚って、俺よくわかんねーからさ』



 長い間を置いて菜々の言葉を反芻しているうちに、かつてよく似た言い回しで打ち明けてきた、聞き慣れた男の声が豊島の脳裏に甦る。


 そう話していた彼を、好きになったこと。それが菜々のこれまでの境遇の発端となったのではないのか。


 それさえもよくわかっていないと、言い切るつもりでいるのか。



「一緒、ったって……シゲを、好きになったのは……間違いないんだろ?」



 たどたどしく、豊島は俯き加減の菜々に問いかける。サイズの合わない豊島のコートで彼女の口元は襟の陰に隠れ、表情をはっきりと窺うことができない。



「……好きでしたよ。あたしは豊島さんと違って色んな恋してきましたけど、今まで経験してきた中でたぶん、誰よりも好きになりました」


「だろ?だったら…」


「でも、自信がないんですよ。ずっとカナちゃんさんのことを想ってきたあたしの気持ちは、誰かを好きになるって気持ちとは違うんじゃないかって」


「そんなこと…」



 ない、と断言する根拠も勇気も、それこそ自信も、豊島にはなかった。


 並んで屋上のフェンスに背を預け、沈黙を挟む二人の間に冷たい風が通る。互いに前方のどこか一点に視線を彷徨わせながら、膝を抱えていた菜々は軽く身を縮こまらせ、痛みの引いた足を組み替えた豊島はパーカーのポケットに手を挿し入れ、それぞれ相手に掛ける言葉を探した。



「……わかんなくたって、間違ってたって、いいんじゃないかな」



 先に口を開いたのは、菜々から受け取った煙草をパーカーのポケットから取り出した豊島だった。ソフトパックのケースから片手で器用に煙草を一本抜き出し、口に咥えて火を点ける。


 慣れた所作で二本目の煙草を吸い始め、二人の間にライターとケースを置いた豊島の横顔を、菜々は黙って見上げた。



「自分の気持ちが本物なのか、偽物なのか、しっかり確かめようとする気が菜々ちゃんにあるなら、ね」


「しっかり、確める…」


「そう。簡単に諦めて、逃げたりしないでさ」



 逃げる、という言葉に、菜々は軽く目を伏せた。


 これまで菜々は、逃げてばかりいた。最悪の形で終わらせることすら厭わず、苦悩する現実からただ逃れたい一心で。


 そうしてきたことへの後悔は、豊島に背を向けてフェンスに腰掛けている間に済ませるはずだった。そうさせてやれなかった無様な自身を悔いるように、豊島は溜め息と煙を空中に長く吐き出す。



「……駅を出た後、シゲにも似たようなこと言ったよ。菜々ちゃんの彼氏のままでいるべきかちゃんと答えを出すこと、自分の気持ちを確かめることから逃げんじゃねーって」



 思いの丈を真剣に語り聞かせ、決意を新たにしたその時の茂松の姿と言葉を脳裏に浮かべながら、豊島は強い想いを込めた目で前方の一点を見据えて語る。


 そんな彼をどこか思い詰めたような表情で見上げながら、菜々は口を引き結んでその言葉に耳を傾けていた。



「あいつは、もう逃げねーってさ。菜々ちゃんに対する気持ちを確かめるために、自分と真剣に向き合うつもりでいる。何が何でも好きになってやれ、なんて言った訳じゃないからさ、絶対にいい結果になるなんて確証はないけどな」


「……」


「だけど、少なくともどんな結果に終わっても、菜々ちゃんが未練を残し続けるようなことにはならないと俺は思う。あのシゲがクソ真面目に悩み抜いて、その想いをまっすぐに伝えてもらえたら、今度こそ菜々ちゃんも心から納得できるだろうから」


「……」


「自分本位で傍若無人な奴だけどさ、あいつが本気で覚悟決めたってことだけは俺が保証する。もうかれこれ20年近い付き合いになるけど、初めて見た気がしたよ、あれだけ真剣な顔したシゲは。確証がなくても、きっといい方向に行くんじゃないかって気すらしてるんだ、俺は。だから…」


「……笑わせないでください」



 震える声で遮られ、はっとなって豊島は菜々に振り向く。下を向いて肩を震わせている彼女の姿に、思わず息を呑んだ。


 彼女の繊細な感情に触れる覚悟はしていたが、まさか泣かせてしまっただろうか。豊島は不安を抱いたが、菜々は自らが発した通り、笑いを堪えているようだと遅れて気付いた。



「優しくて、どこまでもまっすぐで、やっぱり豊島さんっていい人ですね。改めてそう思いました」


「……そんな出来た人間だなんて、自分では少しも思ってないよ」


「そうですね。とても狡くて、酷い人だなって思いました」



 まるで正反対のことを言いながら、菜々はゆっくりと顔を上げて悲痛の色を湛える豊島と目を合わせる。


 その目に涙が窺えないことにわずかに安堵しながらも、責めるような目でこちらを見上げてくる彼女の複雑な面持ちに、豊島の胸中はにわかにざわついた。



「あたしやカナちゃんさんに逃げるなって偉そうに言っておきながら、豊島さんだって逃げてるじゃないですか。自分の気持ちを確かめずに逃げることがよくないことなら、じゃあ豊島さんはもう自分の答えを出してるつもりでいるんですか?」


「……」


「……ただの『お兄ちゃん』になったからって、自分のことを差し置いてお説教してばかりなのは、よくないと思うな」



 いつものようにからかったつもりでいたが、菜々は普段通りに悪戯に笑いかけられずに、ぎこちない笑みを豊島に見せた。いたたまれなくなった豊島は、また逃げたと指摘されるのも構わず、そんな彼女から気まずそうに視線を逸らす。



『…豊島さんは、あたしのことちゃんと好きだって、思ってくれなかったんですね』



 駅の喫煙スペースで菜々が寂しげに呟いた一言が、鮮明に甦る。


 フラれたことを認め、その真意を確かめるために告げられた問いかけ。


 それに対する確かな答えを、豊島は未だ導き出せていない。


 妥協案として提示された、菜々の『お兄ちゃん』という立場に甘んじることに決めただけで、菜々に対しても自身に対しても、明確な答えを示していない。


 安易に返答できないとはいえ、覚悟を決めた茂松に頼りきってたとはいえ、逃げずに気持ちを確かめたいと強く思ってはいるのだ。


 その確かめ方が、何もわからないだけで。



「…なんか、駄目駄目ですねあたし達。人として」



 沈黙を破る声に豊島が視線を戻した先で、不意に菜々が立ち上がる。数歩前に足を進めて、彼女は豊島に背を向けながら何もない夜空を見上げた。


 いつまた雪がちらつきだしてもおかしくない、少しも明かりの差さない曇天の冬の空。豊島の視界のほぼ全てを埋め尽くすその暗闇の中心で、遠く離れた駅前の通りの頼りない明かりだけが、彼女の小さな背中を浮かび上がらせていた。



「好き勝手逃げてばかりだったカナちゃんさん。他人には逃げるなって説教しながら、自分は逃げてる豊島さん。色んな人を散々振り回しておきながら、勝手に追い込まれてとんでもない逃げ方で済まそうとするあたし」


「…改めてそう聞くと、確かに駄目駄目だな」


「駄目駄目な集まりだったから、これまで楽しく過ごせてたのかもしれませんね。駄目っぷりのおかげで自然とフィーリングが合ったみたいな」


「好都合解釈すぎるわ」



 容赦ない豊島のツッコミに、菜々は背を向けたまま肩を揺らして笑い声を返す。



「仕方ないですよ、こんな馬鹿みたいなことしか言えない人間なんで。最低限、嫌われたりしなければそれでいいやって、気楽に考えてます」



 普段通りのやりとりを交わせた気の緩みで、反射的に言葉を返そうとした豊島ははたと気付いてそれを思い留まる。


 嫌われたりしなければ。


 嫌いじゃ、ないのなら。



『じゃあ付き合ってもよくね!?』



 いつだったかそんな風に言ってみせたように、今でも同じことを思っているのだろうか。


『彼』は――いや、『彼女』は。



(勘違いであって欲しいよ、菜々ちゃん。今まで身近な人間とはまったくの無縁だと思ってた相棒が、まさか…)



 彼女が望まない形で真実を知ってしまった豊島は、改めてそれを彼女に確かめる言葉を慎重に探す。話すことに集中してろくに吸えなかった煙草に口を付け、目の前に立つ菜々に煙が掛からないように吐き出しながら、再び屋上のコンクリート面で火を消した。


 すぐに言葉を返してこなかった豊島に一つ息を漏らして、菜々は彼より先に口を開く。



「――嫌いじゃないなら付き合えなんて、もう言わねーよ、よっしー」



 カンカンに吸い殻を放り入れようとした豊島の体が瞬時にこわばり、顔だけ振り向いてこちらに笑いかける菜々を見上げているうちに、指先からぽとりと吸い殻がこぼれ落ちた。

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