2/8 偽善めいた想いとなけなしの強がり
「な……何言ってるんですか。結果オーライですよこんなの。それをさも自分が助けたみたいに…」
「あ、いや…恩着せがましいこと言うつもりじゃなかったんだけどさ…」
「あたしがちゃんと助かっちゃったのは、豊島さんのヘタレっぷりのおかげなんですからね?そこははっきりさせとかないと」
「……ごめんな」
沈んだ声音で呟く豊島の一言に、菜々の胸がちくりと痛む。
助けた、と豊島が言ってみせたのは、こうして菜々が自らの意思でフェンスから降りてくれたことを指しているのだろう。頭ではそれをわかっていても、封印していた記憶を思い出してしまった菜々は、彼が海での出来事をなぞらえていると思い込んで咄嗟に否定したのだった。
海でも、この屋上でも、菜々が命を絶つ行為を確かに止めてみせた豊島。二度も救ってくれたのは、彼の正義感であり、そこに彼の『想い』は存在しない。
改めてそう自身に言い聞かせる菜々は、身勝手な願望を抱いて彼に期待してしまったことに後ろめたさを抱いた。
強がりを装ったままの笑みでそれを隠しながら、彼女はすっと立ち上がる。
「一服しましょうよ、気分転換に」
「えっ?」
「あたし、煙草もライターも全部置いてきちゃったんで、一本恵んでくださいね」
「それは……構わないけど」
「田辺さんのカンカン、まだ例の場所に隠してあります?あたし持って来ますね」
「あ、ああ…」
矢継ぎ早にまくしたてられてぽかんとこちらを見上げる豊島に脇目も振らず、屋上の一角に積み上げられたスチールデスクの残骸の山へ、ぶかぶかのコートをはためかせながら菜々は颯爽と駆けていった。
屋上も含め、会社敷地内での喫煙は禁じられている。社内の各階に設けられた喫煙室と、黙認されている駐車場での車内喫煙以外、本来であれば煙草を吸ってはいけない。だが喫煙者の多いこの会社では、禁煙とされている屋上で密かに喫煙できることを知る者が多くいた。
攣った両足をさすりながら、豊島は菜々の姿を目で追いかけつつフェンスににじり寄り、背を預ける。探し当ててきた物を片手に携えた菜々が、もう片方の手でコートのポケットから豊島の煙草を取り出しながら戻ってきた。
公然と吸い殻入れを設置しておけない屋上で使用しているのは、田辺の私物であるアッシュボトルだった。上司達の目を盗んで屋上で喫煙している社員達は、それを「田辺さんのカンカン」と呼んで重宝していた。
よくそんな悪習まで覚えていたものだと感心しながら、豊島は菜々の手からそのカンカンを受け取る。
「ずっと同じの使ってるんですね。あたしがいた頃と比べたら、だいぶ年季入ってますけど」
「今じゃ滅多に使わなくなったよ。うちの会社に来る客が喫煙室行って、煙草休憩行きづらくなって屋上に、なんてこと減ったからさ」
「禁煙する人増えたんですね。時代かな」
「ついこないだ、気まぐれにここで煙草吸ってるの部長に見つかって怒られたりしたけどな、俺とシゲ」
「今度やったら本当に減給するぞ!って脅されたんですね?」
「いや、軽く注意されただけ。外から見えねーように吸えよ、って」
「え、それだけ?あたしがいた頃なんか、めちゃくちゃ厳しかったのに」
「あの頃と比べたら、だいぶ寛容になったよ。部長やら上の人達は」
「へえー。想像つかないなあ、規律だけは無駄に厳しかったあの部長がねえ…」
自分が会社にいた頃を懐かしみながら、菜々は豊島の煙草を取り出して咥え、火を点ける。ライターと煙草一式を豊島に返しながら煙を吸い込むと、光量の増した煙草の先端が軽くしかめた彼女の顔を暗がりの中で仄かに照らした。
「…うあー。やっぱり豊島さんの煙草きついです」
だろうな、と返そうと口を開きかけた豊島は、軽く咳き込む菜々を見上げていて何かに気づき、神妙な顔つきで眉を潜める。
「…大丈夫?」
「大丈夫ですよ。メンソールじゃなければ何でも吸えますから、あたし」
「いや煙草じゃなくて……痕、残ってる」
「痕?」
きょとんとした顔で尋ね返す菜々に、豊島は自分の片頬に人差し指を当てて示した。その仕草で彼の意図を察した菜々は、咄嗟に左頬を押さえる。
「あ……平気です。びっくりしただけで、そんなに痛くなかったし。痕残るなんて思わなかったくらい」
駐輪場で野田にぶたれた頬を手で隠しながら、菜々は平気ぶって笑ってみせる。それでも心配そうな目で見つめてくる豊島を一瞥し、さりげなく彼の左隣を選んで並んで腰を下ろした。
平然と煙草をふかす隣の菜々を横目で気にしながら、カンカンを間に置いた豊島も煙草を吸い始める。互いに掛け合う次の言葉を探りながら、彼らはほんの少し沈黙を挟んで、乾いた冬の空気に煙草の煙を溶かし合った。
並んで煙草を吸う二人は、不思議な心境を抱いていた。どこか現実離れしたような、なのにいつもと変わらない安心感もあるような、対極の感覚が曖昧に混じり合った複雑な想いが二人の間に渦巻いている。
たった一晩で色々ありすぎたのだから、無理もないだろう。いつの間にか雪もやんだ曇天の夜空を見上げながら、豊島は胸中で独りごちた。無風の空気中に漂う二人分の煙草の煙をぼんやりと眺めているうちに、隣で静かに吐き出された菜々の煙が加わって白い塊が大きさを増す。
悟られないように、豊島は彼女の姿を盗み見た。さっきまでの振る舞いが明らかに強がりだったことが窺えるほど、菜々は疲れ切った呆けた表情で前方のどこか一点を見据えている。
それこそ、無理もない。心持ちの複雑さは、どう考えたって菜々の方が上回っているはずなのだ。
(こうしてまた普通に煙草吸えるなんて、思ってたわけないだろうしな…)
何もかも、終わらせるつもりだったのだ。
これまでの不遇な出来事も、自身へ向けられていた想いも、自身が抱いている想いも、何もかも。
生きることさえも。
二人の頭上にたゆたう煙の塊に視線を戻した豊島は、フェンスから身を投げた菜々を抱きとめた瞬間を思い出す。
咄嗟とはいえ、無我夢中だったとはいえ、迷うことなく彼を動かしたその瞬間の感情は、少しも間違ってなどいない。
そう確信した豊島は、吸い込んだ煙を強めに吐き出して、白い塊の中心めがけて吹き付けた。立ちこめた白濁のカーテンの真ん中にぽっかりと空洞が空き、霧散を早めた紫煙が散り散りに空気中に溶け消えていく。
「……ちゃんと報いは受けたよ、野田は」
咥え煙草のまま静かに切り出す豊島の横顔を、ゆっくりとした動作で菜々は見上げた。
「菜々ちゃんが行っちゃったすぐ後に、シゲが思いっきり殴り飛ばしてた。一発くらいじゃ怒りが収まらなかったみたいで、二発目はさすがに俺が止めた」
「…堪え性ないなあ、カナちゃんさんは」
「無理もねーよ。俺だって出来ることなら、あいつに続いてぶん殴りたかったくらいだ」
「そんな青春ドラマみたいなことしてたら、誰かに見つかって警察沙汰になりかねませんでしたね」
「今頃もしかすると、本当にそうなってるかもな、シゲと野田」
「見つからないままカナちゃんさんにボッコボコにされちゃってたらいいのに」
野田へ悪態をつきながら笑みをこぼす菜々に合わせて、豊島も小さく息を漏らす。
本当に今頃、茂松と野田はどうしているだろうか。駐輪場に残った二人をふと思い返した豊島が、菜々の無事を確かめた報告も兼ねて茂松に連絡を入れようかと思案し始めた時だった。
「……何もかも野田が悪いわけじゃないんですよ、本当は」
何よりも、誰よりも野田を恨んでいてもおかしくないはずの菜々が漏らしたまさかの許容的な一言に、豊島は心底意外そうな目を向ける。口元に自嘲を浮かべながら虚空を見つめている菜々は、こちらに目を見張らせる豊島から左頬の痕を隠すために横顔を見せたまま続けた。
「あいつ一人を真剣に好きになってたら、きっとこんなややこしいことにはならなかった。優柔不断で、流されてばっかりで、好きか嫌いかはっきりさせないまま結婚までしちゃったあたしの方が、あの野田なんかよりよっぽど馬鹿なんですよ」
含み笑いすらしながら、菜々はカンカンに手を伸ばして煙草の灰を落とす。口端に咥えたままの煙草の存在すら忘れ、豊島は強がる彼女の悲しい笑みを黙って見つめた。
「きっと普通に好きになれたと思うんですよ。恥ずかしくないの、って思うくらい馬鹿正直にあたしのこと『好きだ』って言ってくれたし。あたしが変な未練気にしたり、他の人に気が移ろいだりしなければ、あたしも野田もごく普通の円満な夫婦でいられたのに」
「……違うよ、菜々ちゃん」
「違ってなんかないです。まともに愛してもらえないあたしに見切りをつけて、自分を愛してくれる他の女を選んだ野田だって、何も間違ってない。野田の気持ちに応えられなかった、応えようとしなかったあたしは、野田よりずっと駄目な人間です」
「違う。菜々ちゃんは何も悪くない」
語気を強める口の動きに逆らわず、豊島の煙草の先端から伸びた灰が二人の間に落ちる。思わず顔を正面に向けて豊島を見上げそうになった菜々は、思い留まって目だけを彼に向けた。
「好かれてるから好きにならないといけなかったとか、そうすることの出来なかった自分が相手より悪いとか、自分ばかり責める考え方はよくないよ。野田を好きになれなかった菜々ちゃんが悪いなんてことはない」
「自虐傾向が強いのは、性分なんですよ。それに野田を本気で好きになった時期だって、ちゃんとあったんです。結婚が決まった辺りだったか、結婚してしばらくのことだったか、忘れちゃいましたけど」
「忘れるくらいだったら、菜々ちゃんにとってその程度の男だったんだよ。当然だ。どれだけ尽くしても、欠点を直してやろうとしても、あいつは菜々ちゃんのために変わろうと努力しなかったんだろ。愛想尽かされて素っ気なくされるようになったからって、他の女に逃げた野田がどう考えても悪い」
懸命に菜々を擁護する豊島の言葉に耳を傾けていた菜々は、フィルター付近まで吸い減らした煙草をカンカンの火消し口に差し込み、溜め息と一緒に煙を吐き出しながら火の消えた吸い殻を中に落とした。
「…好きになれなくて当然、みたいなこと言われるなんて思ってもいませんでしたよ。しかもまさかの豊島さんに言われるとは」
軽くトーンを落とした菜々の言葉の意図を図りかねて眉を潜める豊島に、菜々は満面の笑みを向けてみせた。
豊島や茂松をからかうつもりでいる時に見せる、悪戯な笑顔。見慣れたその表情に不釣り合いな左頬に赤く残った痕が自然と目につき、豊島の胸がきしりと痛む。
痛々しいほどの明るさで告げられた一言で、豊島はさらに胸を締め付けられた。
「魔法使いの豊島さんに、何がわかるんですか」




