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涙の魔法 -彼女の終わりと恋の歌-  作者: 燐紅
ラストシーン ―アンコール―
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1/8 終わりを望まぬ想い





【ラストシーン ―アンコール―】







 ――あまりにも、長すぎる。


 疑問に思いながら、菜々は薄く目を開けた。


 ……目を、開ける…?



「えっ……?」



 ようやく状況を理解し始めた菜々は、呆然と目をしばたかせた。


 遠くに見える、駅前の通りの灯り。


 屋上から眺めていたのと同じ景色が、変わらず目の前にある。


 そこから確かに飛び降りた――はずなのに。



「…………痛」



 遅れて伝わってきた感覚に、思わず声が漏れる。


 全身をきつく締め付ける強い力。


 目の前の光景。


 普段と変わらず、息をする自分。


 ――生きている。


 状況は飲み込めたとはいえ、想定外の現実に困惑する菜々の耳元で、声がした。



「――よかった……間に合った……」



 荒い息遣いの中で安堵を漏らす声に、菜々はぼんやりと問いかける。



「……豊島……さん…?」



 菜々を背中から抱き締めるように支える豊島は、言葉を返すことさえままならない様子で懸命に息を整えようとする。


 屋上のフェンスから上体を乗り越えるようにして、豊島は菜々の体を抱きとめていた。


 それをようやく理解して、菜々は彼に疑問を投げかける。



「どうして、ここに…」


「……どうしてって……歌ってたろ、菜々ちゃん」


「聞かれちゃいましたか」


「聞こえたよ。おかげで、ここに来れた」


「探してたんですか」


「当たり前だ。こうなるんじゃないかって、必死で探してた」


「こう、なる…」


「まさか、本当に飛び降りるなんて…思ってなかったけど…」



 沈黙しそうになるのを察して、何故かそれを恐れた菜々は、続ける言葉を探した。


 そして彼女の口から出たのは、軽口だった。



「似合わないですよ、こんなイケメンなことするの。豊島さんのくせに」


「…君は本当に賢いな」


「何がです?」


「この状況でそういうことを言って、俺を脱力させて、手を離してもらってここから落ちるつもりなんだろ」


「そんな…つもりじゃ…」


「離さないからな、絶対に」


「……やっぱり、似合わないです」


「何とでも言え」


「どこ触ってるかわかってます?」


「…そこは、我慢してくれ。気づいてないふりしようとしてんだから」


「やっぱり、ラッキースケベの方がお似合いです」


「いいから黙って。もう少し、我慢しててくれ」



 一呼吸置いて、豊島は菜々の体を持ち上げる。そのままフェンスに腰掛けさせて、彼は菜々の体に回した腕を解いた。


 そのまま離れるだろうと菜々は思っていたが、豊島はフェンスを掴む彼女のそれぞれの手に自身の手を添え、彼女ごとフェンスを握り込む。



「……ごめん。俺に触られるの嫌だろうけど、こうさせてくれ。不安だから」


「嫌だなんて、思ったりしませんよ」


「だってさっき駐輪場で……嫌がっただろ」


「あれは……ただ、びっくりしただけです」


「なら、いいんだけど…」



 冷たいフェンスの感触と、自身の手を覆い隠す豊島の大きな手の温かい感触に包まれる菜々。


 力強くもささやかな彼の拘束に、菜々は憂いの表情を浮かべて目の前の景色を見つめた。



「……いつから、いたんですか」


「…菜々ちゃんが、Cメロ歌うちょっと前」


「声、掛けました?」


「……掛けてない。その、なんだ……歌に聴き惚れてたから」


「豊島さんが言い淀む時は、大抵嘘ついてます」


「嘘って訳でも、ないけどさ」


「声掛けた拍子に飛び降りるんじゃないかって、怖くて声掛けれなかったんですよね?」


「…おっしゃる通り」



 かすかに聞こえた歌声を頼りに会社の非常階段を上って屋上に辿り着いた豊島は、フェンスに腰掛ける菜々の背中に声を掛けることを躊躇い続けていた。


 どうすることもできないまま。気配を消して懸命に気付かれまいとしたまま。


 そうしているうちに、歌の二番で途絶えていた続きを、菜々が不意に歌い出したのだ。


 二人で行ったカラオケの夜に豊島が聴けなかった、キミつたのCメロを。


 夢中で歌う菜々のもとへ、一歩一歩慎重に近付いていき、同じフレーズを繰り返すのをやめた頃には、豊島は彼女に手が届く距離まで歩み寄っていた。


 さすがにもう、気付かれるだろうか。振り向きはしないだろうか。焦る心を必死に抑え、彼女に触れようと豊島が手を伸ばしかけた時だった。



『……違うんですよ……豊島さん…』



 自身の名を口にした菜々にどきりとし、豊島は身をこわばらせた。


 背後の豊島に気付いていて、自身の行為を否定しようとしたのか。


 それとも気付いていなくて、豊島に関わる葛藤が彼女の口をついただけなのか。


 伸ばした腕を空中で固まらせたまま、豊島は彼女の一言に苦悩し、目の前の小さく繊細な背中をただただ見つめていた。


 そして、次に彼女が発した一言で、彼の決心がついた。



『――ごめんなさい』



 皮肉にも、その謝罪の言葉が合図となった。


 瞬時に豊島が距離を詰めたのと、菜々がフェンスから身を押しやったのは、ほぼ同時だった。


 触れられずに伸ばしていた両腕は、しっかりと菜々を支えてやることが出来た。


 ――彼女の行いを、なかったことに出来た。


 それでも豊島は、冷え切った菜々の両手を掴む手に力を込め、自身を悔いる。



「……もっと早くに、助けられたはずだった。さっさと菜々ちゃんの腕を掴んで、こっちへ引きずり下ろして……いくらでも君を救う方法はあった。でも…」



 後悔の想いを繋ぐ言葉さえ躊躇ってしまう自分に、豊島は苛立った。



(……俺が強がったりしたら、菜々ちゃんも強がるのをやめない)



 弱味を隠したがる自身を胸中で叱咤し、意を決して続ける。



「…でも、また拒まれるんじゃないか、って。手を振り解かれて、構わず飛び降りて…………死ぬんじゃないか、って」



 力がこもる豊島の両手が、震え出す。


 それを両手の甲に直に感じとる菜々は、彼の悲痛な想いをしっかりと受け止めた。



「…不安な思いさせて…ごめんなさい」


「…謝らなくていい。確かに菜々ちゃんは自分の行いを悔いるべきだ。でも俺だって、菜々ちゃんが決断してしまうまで何も出来なかったこと、後悔してるんだ」


「でも、豊島さんは、ちゃんと…」


「俺はまだ、君をちゃんと助けてない。本気で君を救う覚悟が出来てたら、とっくにフェンスからこっちに下ろさせてる」


「だったら、なんで…」


「…こんな時まで、身勝手な考えしてると自分でも思うけどさ。菜々ちゃんの方からこっちを向いてくれるまで、安心できないんだ。無理矢理助け上げたところで、君の意思に背いてしまうんじゃないかって、まだ恐れてる」


「豊島さん…」


「君の方から、こっちへ下りてきてくれないか。後悔が済んだら」


「……っ」



 言葉を返そうとして、菜々は不意に襲われた寒さに身震いする。


 屋上から飛び降りた瞬間から豊島に抱きすくめられ、どれだけの間そうしていたかはわからない。だが、彼の温かみが離れ、冷えた空気に晒された彼女の背中は途端に凍えた。


 それを察した豊島は、フェンスに繋ぎ止めていた菜々の手から離れる。


 二人を繋いでいたものが何もなくなり、余計に凍える手を気にする菜々の耳に届いたのは、かすかな衣擦れの音。背を向けていて豊島の様子を窺えない菜々は、彼が何をしようとしているのか想像を巡らせて、ふっと口元をわずかに緩ませる。


 柄にもなく、またイケメンなことをしようとしている。コートを脱いで羽織らせようとでもしているのだろうと予想した菜々は、何の気なしにそれを口にして豊島をからかおうとした。



「あ、やべ」


「えっ」



 菜々が口を開きかけたと同時に背後で小さく焦りの声が上がり、次いでたたらを踏むような音がして、どさっ、という鈍い音とわずかな振動が伝わってきた。


 反射的に後ろを振り返り、そこで初めて豊島の姿を確かめた菜々は、思わず声を上げた。



「豊島さんっ!」



 咄嗟にひらりとフェンスから降り立ち、尻もちをついた格好で顔をしかめている豊島の傍に座り込む菜々。


 心配そうに顔を覗き込んでくる菜々と目を合わせた豊島は、今自身に起きている情けない状況と、彼女の無事を確かめた安堵とで、大きく顔を歪めて苦笑いを返す。



「…足攣った」


「……へ?」


「しかも、両足」


「……それだけ?」


「それだけ」



 彼の身に何が起きたのかと心配した菜々は、ぽかんとした顔で豊島の皮肉めいた苦笑を見つめる。



「……ふっ、くくっ……あははっ!」



 少し間を置いて、菜々は破顔して笑い声を上げた。すっかり緊張の解けた彼女を前に、豊島は軽く口を尖らせる。



「笑い事じゃねーよ。両足攣ったことなんてあるか?マジで今しんどいんだから」


「ないですよそんなの」


「ここに来るまで散々走り回った上に、階段まで上らされたんだぞ。運動不足で40手前の俺にはハードすぎるわ」


「ひ弱乙」


「労う気ゼロかよ」



 溜め息混じりの豊島のツッコミに、くすくすと菜々は笑い続ける。


 それを向けられた方もついつられて笑んでしまう、少しも濁りのない彼女の無垢な笑顔。


 こうして再びそんな笑顔を見せる彼女と巡り会えたことに、豊島はこれまでに感じたことがないほどの安堵を得て優しく微笑んだ。



「やっぱり、肝心な時に格好つけられない豊島さんが、一番豊島さんらしいです」


「…そうやって俺のことを馬鹿にして、いつも通り笑ってくれる菜々ちゃんが、一番菜々ちゃんらしいよ」



 言い回しを真似られたことにまた一つ笑う菜々の声を聞きながら、豊島は前をはだけ終えていたコートを脱いで彼女に羽織らせる。


 思わず笑いを引っ込めて菜々は軽く目を丸くしたが、すぐにまた息を漏らした。



「…あったかすぎます」


「いい運動した後だからな。暑かったくらいだ」


「豊島さんが風邪引いちゃいますよ」


「菜々ちゃんが風邪引かなかったらいいよ」



 豊島が言葉を返すたび、菜々は笑う。


 何も飾らない、心からの慈しみを込められた言葉。頭二つ分は身長差のある彼のコートから伝わる、冷え切った体をしっかりと包み込む温もり。


 独りじゃない。菜々はそれを心から喜んだ。



「――今度こそ助けたよ。菜々ちゃん」



 いつも通りの笑顔を振りまいていた菜々は、その一言で途端に顔をこわばらせた。

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