7/8 凄惨な記憶
あまりにも悲痛な菜々の言葉に、豊島は目を細める。
「…簡単にそんなこと言うんじゃない」
「簡単じゃないですよ。あたしが悩んでることは、豊島さんが想像してるよりずっと複雑なんです」
「俺が理解できそうにないくらい複雑だから、話せないのか」
その言葉に菜々は首を振って否定し、軽く俯いて口を開いた。
「…もう背負わせたくないんですよ。豊島さんに」
月明かりの下で一人、足の付け根まで冷たい海に浸る菜々の小さな背中を、豊島は口元を引き締めながらじっと見つめる。
「今朝のこと、覚えてます?」
「…ああ。まどちゃんとお喋りしてたの、邪魔した時か」
「あの時円香さんが、カナちゃんさんたちみたいなオタクなんて、みたいなこと言い出して、目が合いましたよね」
「…合ったね」
「その時も、あたしが円香さんの言ったことを気にしてるのか、心配してくれてたんですよね」
「まあ…ね」
躊躇いがちに返す豊島の言葉を背中で受けで、菜々は改めて彼の心情を察する。
茂松にフラれた菜々に、彼をあまり意識させることのないよう気遣ってきた豊島。
気遣わせてばかりでろくにその恩に報いられない菜々は、自身の相談相手という立場の彼に負い目を感じていた。
そんな豊島に、野田とのことまで明かして、これ以上気を遣わせたくない。
ましてやこんな状況を生み出した自身の心の闇など、明かすべきではない。
迷う菜々は慎重に時間を置いて、導き出した言葉を背後の豊島に向かって言う。
「誰かに迷惑かけるの、嫌なんです。あたし」
「迷惑って…」
頭上に瞬く星空を見上げながら告げる菜々に、問いかけとも独り言とも取れる言葉を漏らす豊島。
前者の意味ととらえた菜々は、天を仰いだまま答える。
「一方的に告白して悩ませて、カナちゃんさんに迷惑かけて。まだ未練残してることも隠せなくて、野田に迷惑かけて。こうしてあたしの弱いとこいっぱい見せて、豊島さんに迷惑かけて」
「…気にしすぎだよ。その迷惑に全部報いようとするのはいいことだけど、焦って簡単に答えが出るようなもんじゃない」
「答え自体は簡単なんですよ」
「簡単?」
「野田だけをちゃんと好きになればいい。心からカナちゃんさんのことを諦めきれれば、もう誰にも迷惑かけることなんてない」
「……それができないから、こうしてるんだろ」
茂松のことを、諦めきれない。
野田だけを好きになることが、できない。
そんな当然のことさえできない自分が嫌で――いなくなりたかった。
豊島が指摘しようとしたことを、菜々はそう解釈した。
「……それも、あります」
「それも?」
指摘を認めた上で、別の意図をにおわせた菜々に豊島は尋ね返す。
「無意識ですけど、それとはちょっとだけ違う答えに気づいちゃったんです」
「違う、答え…?」
「そう。めんどくさいあたしの、解決策の一つとして」
その言葉を確かに豊島に伝えようと、菜々は少しだけ顔を彼に向ける。
孤独な笑みを浮かべる菜々の横顔と、その口から紡がれた言葉に、豊島は息を呑んだ。
「――迷惑ばかりかけるあたしさえいなくなれば、みんな幸せになれる」
あまりにも悲痛で重すぎる彼女の想いに、豊島は返す言葉を失う。
それを否定して、咎めて、その考えを捨てさせる言葉を掛けることは容易だった。
だがこの時の豊島には、そうやって菜々を止める勇気が足りなかった。
重い沈黙を返された菜々は、自身の発言に詳細を付け足す。
「好きでもない後輩から想われ続けることから、カナちゃんさんは解放される。あたしばかりにこだわる野田にも、もっと素敵な人に目を向けさせることができる。あたしの存在がなければ、みんないい方向に変われるんです」
そう言って菜々はおもむろに豊島に向き直り、海面を揺らしながら彼と正面から向かい合う。
「もう豊島さんに、心配掛けることだってなくなりますし」
普段と変わらない笑顔を向ける菜々を見て、豊島は深く悲しみに暮れた。
気丈に振る舞えた自身に少しだけ安堵しながら、菜々は小さな溜め息を彼に聞かせた。
「でも、見つかっちゃったから作戦失敗ですね。豊島さんのおかげで、ぜーんぶ台無しです」
「……ざまーみろ」
精一杯の悪態をつく豊島に、彼女は悪戯に笑ってみせる。
軽口で済ませられたことに、今度こそ菜々は心から安堵した。
心の闇を明かしてしまったことさえ、なかったことにしたつもりで。
冷たい海ですっかり冷え切った足を前に出し、菜々は豊島に歩み寄りながら努めて明るく言ってみせる。
「帰りましょっか。豊島さんも風邪引いちゃいますよ」
「…ああ」
スカートを濡らさないように慎重に進みながら、豊島の横までたどり着いた菜々が片手を差し伸べる。
少し間を置いて、手に持ったサンダルを差し出してきた豊島から、それを受け取ろうとした。
が、豊島は手を離さない。
「…豊島さん?」
不思議そうに彼を見上げ、至近距離でも窺い知れない豊島の複雑な表情を菜々はじっと見つめた。
まっすぐに見つめ返しながら躊躇いがちに出た彼の言葉に、菜々は目を見開く。
「………… 、 」
静かに囁かれたその一言は、強がる菜々の心を惑わせた。
真剣な豊島の目から想わず顔を逸らし、動揺を必死に押さえながら菜々が答える。
「そんな…そんな弱くないですよ、あたしは」
「弱いよ菜々ちゃんは」
「豊島さんに、何がわかるんですか」
「わかんないよ。菜々ちゃんは、何も話してくれなかったし」
「何も、って…あれだけとんでもないこと喋っちゃったのに…」
「聞いてなかった」
「えっ…」
「何も見てなかったし、聞かなかった。菜々ちゃんはいつも通りずっと笑ってたし、そのことしかもう覚えてない」
「豊島、さん…」
豊島の指がサンダルから離れ、ようやくそれを受け取った菜々は視線を泳がせる。
いてもたってもいられなくなって、菜々はサンダルを抱えながら彼から逃げるように砂浜に向かって駆け出す。
服が濡れるのも構わず、ばしゃばしゃと飛沫をあげながら波打ち際まで辿り着いて、彼の方を振り向く。
浜辺に戻る菜々を追いかけようとせず、豊島はこちらに背を向けたまま立ち尽くしていた。
何も言わない背中を見つめる菜々の視界が、歪んでゆく。
一緒に帰ろうと再び言葉をかけようとして振り向いたのに、声を出すことが、できない。
(豊島さん…)
溢れる想いを堪えきれず、菜々は豊島に背を向けるようにして崩れ伏した。
乾いた砂浜にはたはたと落ちる涙が、菜々の心をますます締め付ける。
(駄目…泣いたりしたら。泣いたらまた……豊島さんは……)
戒める想いとは裏腹に、菜々は嗚咽を止めることができない。
背を向け合う二人の間に、押し殺した菜々のすすり泣く声が静かに響き渡る。
「――菜々ちゃん!」
遠くから呼びかける豊島の声に、菜々は息を止める。
振り向いて、返事をしないと。
急いで平然を装わないと。
笑顔で、彼に向き直らないと。
そう思って焦る菜々を、豊島は向こうを向いたまま優しく制した。
「強がらなくていいよ。菜々ちゃんの弱いとこ、俺は………… 」
その一言に見開く菜々の目に、再び涙が浮かび上がる。
泣いては、いけない。
どんなに優しい言葉を掛けられようと。
どんなに強がることに疲れようと。
「…っ……っ………!」
そう強く戒めようとした菜々の感情は、こぼれた涙とともに、制御を失う。
「…うあああああっ!!あああああぁ!!」
砂に頭を押しつけながら、菜々は声を上げて泣き出した。
張り裂けそうになるまで抑えていた想いが、涙になり、叫びになり、菜々の中から勢いよく溢れ出す。
背を向ける豊島に伝わってしまうとわかっていても、菜々はもう自分を抑えきれなかった。
泣き叫ぶ菜々の悲痛な声を背中で聞きながら、豊島は静かに拳を握る手を震わせていた。
一人で思い悩む菜々を、救うことができなかった。
命を絶とうとする行為を止めることができたとはいえ、彼女をそうさせた原因に触れることができなかった。
触れる勇気が、豊島にはなかった。
菜々を――ちゃんと助けられなかった。
「ごめんな、菜々ちゃん…」
泣き叫び続ける菜々の耳に、その言葉は届かない。
背中合わせで互いに深い悲しみに暮れる時間は、このまま永遠に続きそうだとさえ、二人は感じていた。




