4/8 酔っ払いが垣間見せた本音
* * *
「――豊島さん。ちゃんと聞いてます?」
ほんの少し物思いに浸っていた思考が、瞬時に現実に引き戻される。
豊島が慌てて視線を正面に戻すと、日本酒の入ったグラスを片手に完全に据わった目でこちらを睨み付ける、ただの酔っ払いの姿がそこにあった。
「聞いてる聞いてる。苦労したね菜々ちゃん」
「苦労したなんてもんじゃないですよ!だってあたしの20代の半分以上あいつが台無しにしたんですよ?慰謝料なんかで埋め合わせできると本当に思ってるんですかね!」
一旦落ち着きを見せた菜々のエンジンがトップギアで再び回転し始め、苦笑いを浮かべながら豊島はそれをなだめた。
これだけ怒りを爆発させながら愚痴をまき散らす子が、あの時の繊細に悩む姿を見せた菜々と本当に同じ人物なのだろうか。豊島の中でそんな疑問が浮かばざるを得ない、そんな状況だ。
「少なくとも、俺がもし菜々ちゃんと同じ立場だったら、正直落ち込みっぱなしで誰かに相談できるレベルまではなかなか立ち直れないな。こうやって俺に愚痴をストレートに言えるようになるまで耐えた菜々ちゃんは、強いと思うよ」
菜々の興奮を醒まそうと、豊島が落ち着き払って告げた言葉を聞いて、彼女も黙りこくって返す言葉を探した。
思惑通りに落ち着きを取り戻した彼女に安堵した豊島だったが、菜々はおもむろに日本酒を煽り、一気に飲み干してから声を張った。
「あたし全然強くないですっ!」
「いや、充分強いと思うよ。酒に関しては」
間髪入れずにツッコめるのは今しかない、と豊島は思った。
的確すぎるツッコミにぐうの音も出なくなった菜々は、思わず悔しげに呻く。
「若いからって無茶な飲み方したら駄目だよ。次はノンアル頼みな」
「やです。今日は潰れるまで飲むって決めたんです」
「潰れた菜々ちゃんの面倒見るのは?」
「豊島さん」
「勘弁してください」
反抗的にそっぽを向きながら煙草を吸い始める菜々。手に負えないほど荒れた彼女を相手に、豊島は為す術なく視線を泳がせながら頭を掻いた。
この状況では埒があかないと踏んだ豊島は、とりあえず菜々が勢い任せで話した内容を軽く整理することにした。
当然菜々の主観的な愚痴であるため、野田側が彼女に抱いている不満については憶測の域を出ないが、今は菜々の立場だけきちんと理解できればそれでいい。そう決めて、豊島は彼女の話を振り返る。
菜々と野田が入籍したのは、2年前。
菜々が会社を辞めたのが5年前で、その半年後に野田も退社。その後の二人の転職先が落ち着くまで入籍の準備をなかなか進められずにいたため、期間が少し開いてしまったらしい。
郊外の小さなマンションでの新婚生活は順調だったものの、二人の間には徐々に綻びが見えてきていた。
その綻びについて菜々はかなりの主観を加えてつぶさに説明してきたが、野田に関することだけに絞った問題をまとめるとこうだ。
野田に多方面からの借金があったこと。
最初こそ協力していたものの、家事も身の回りのことも何もかも、菜々に任せきりにしていたこと。
家賃も生活費も二人の休日のデート代さえも、菜々に負担させていたこと。
…これだけの問題を知ってしまえば、どれだけ野田が菜々に対する不満を述べたところで、こんな男に裁量の余地などない。
豊島の中で最低のレッテルを思い切り貼り付けられたこの野田という男は、ここまで菜々に酷い仕打ちをした挙げ句――
「――豊島さん、浮気しなさそうですよね」
野田に対する憤りが再燃しかけていたところで耳に入ってきた菜々の呟きに、うまく言葉を飲み込めなかった豊島は動揺する。
「…どゆこと?」
「あたしの勝手なイメージですけど、好きになったら生涯その人一筋になりそうだなって」
「浮気が成立するための本命がいません」
「ですよねー」
本当に彼女は軽口の掛け合いが好きだ。常にその相手――むしろ軽くいじめの対象となること――を強いられがちな豊島だが、自分が返す言葉に続いてぱっと笑顔を返してくる菜々を見ているのが、彼にとって割と心地よいものだった。
そんな心地よいやりとりでせっかく場の空気が和らいだところだったが、気がかりを残しておけない豊島が躊躇いながら切り出す。
「その……菜々ちゃんは気づいてたの?野田の浮気に」
あらゆる負担を菜々に押しつけていた野田は、あろう事か浮気までしていた。もはや彼の常識も神経も、疑い出すとキリがない。
やや踏み込んだ豊島の質問に、菜々は平然としながらも視線を虚空へ向けて、少し考え込んだ。
「確信はなかったですけど…してるかもしれないなーくらいは」
「…そう。何となくサインはあったんだ?」
「その時は何とも思ってなかったけど、今思い返してみれば、ってやつですね」
淡々と答えてみせる菜々が次に発した言葉で、豊島の思考が止まった。
「まあ、あたしもずっと浮気してたようなもんだし」
……何を言っているんだ、この酔っ払いは。
おどけた笑みを見せてあっけらかんとしているが、そんな様子の彼女の意図を豊島は全く読み取れない。
言葉の通り、野田の知らないところで菜々も浮気をしていたのだろうか。いや、浮気と言い切っていないから、おそらく違う。
浮気まで達していない行いをしていた。そういう意味だとすると、恋愛対象として見ていない特定の異性との付き合いがあった、とか。
あるいは、菜々だけ一方的に恋愛対象として見ていた――
(…………あ)
答えとなるその男の存在を導き出せるまで時間を掛けすぎたことに、豊島は自身を恥じ、そして心の中で菜々に詫びた。
(『ずっと』って…そうだよな…)
何の意図も隠すつもりのない彼女が発した『ずっと』とは、野田と結婚してからではなく、野田と付き合い始めてからでもなく、おそらくそれ以前からを示している。
(菜々ちゃん…まだ、シゲのこと…)
「…豊島さん?」
「……」
「どうしました?あたし変なこと言いました?」
急に黙り込んだ豊島の曇った顔を、菜々がおもむろに覗き込んでくる。強い酒のせいで変わらず目は据わっているが、少なくとも気落ちしている様子はまったくない。
きっとさっきの一言は、例の軽口の掛け合いの発端となるはずだったのだ。そのくらいの気持ちで菜々が発した言葉に、豊島が何も返してこない。だから目の前の彼女はこうして首を傾げているのだろう。
酔いの回ったその無垢な瞳に見つめられ、たまらず豊島の口から含み笑いが漏れる。
彼女が軽口の返答を待っているなら、とっておきの軽口で応えてやろう。
「……これで菜々ちゃんも、俺ら負け組の仲間入りだな」
「んなっ!」
慣れない豊島からの攻撃に、菜々はすでに赤ら顔の頬をさらに真っ赤に上気させる。立ち上がってわーわーわめき散らしながらテーブル越しの彼女にぽかぽかと叩かれ、豊島は腹の底から笑い転げた。
やがて叩き疲れた菜々がソファにもたれかかり、それでもなおふてくされる彼女を豊島がなだめていると、個室の戸が開いて店員がラストオーダーを告げる。
二軒目に行くか、このまま解散か。豊島が模索し始めると、すっかり気を晴らした菜々がカラオケに行くことを提案してきた。豊島も快くそれに賛同し、二人は揚々と席を立つ。
割り勘で会計を済ませ、予想通りふらつく足取りの菜々の体を豊島が時折支えてやりながら出入口へ向かう。一足早く靴を履き終えた豊島が先に外へ出ると、ほどなくして何故か企み顔の菜々が背後から豊島を追いかけてきた。
「豊島さーん」
「うおっ」
豊島がコートのポケットに両手を突っ込んで通りを眺めている隙に、菜々が勢いをつけてその左腕に抱きついてきたのだ。
「びっくりしたー…どうしたの急に」
「酔っちゃったから豊島さんにくっついてカラオケ行きます」
「酔っ払いに絡まれたくないです」
「だってさっき潰れたら面倒みるってゆったー」
「ゆってないし、そもそも潰れるほど酔ってるように見えない」
「あ、わかります?まだまだ飲めますよ」
「酒豪怖えー」
人通りのまばらな飲み屋街の一角に、割と酔いの回った男女の笑い声が響く。
楽しげな二人の声に振り向く通行人たちは、彼らの姿を見て恋人か仲のいい兄妹だと想像することだろう。
かたや離婚したばかりでここにいない男に長らく片思いを続けており、かたやそんな彼女の相談相手でしかないという関係は、当の本人たちしか知り得ない。
それでも二人は、互いにともに過ごすこの時間が、本当に楽しくて仕方なかった。