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涙の魔法 -彼女の終わりと恋の歌-  作者: 燐紅
ラストシーン
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6/8 無意識の愚行





            *   *   *




 しばらくの間、麻雀見学をしていた菜々は、やがて花火の時と同じように無情な気分に陥り始め、旅館に戻る旨を告げて一人海の家を出た。


 夏を迎えたばかりの夜の空気はまだ肌寒く感じられたが、目の前に広がる海から天を仰いだ菜々は、思わず寒さを忘れてその光景に魅入る。


 曇り空だった昼間から一転して、まもなく日付が変わろうとしているその時の夜空には、満天の星が輝いていた。


 吸い込まれるような星空を見上げたまま、菜々は無意識に歩き出す。少し散歩をしてから旅館に戻ろうとぼんやり考えながら、彼女は気ままに進んだ。


 視界いっぱいに広がる星を見つめながら、菜々は今日あった出来事を静かに振り返る。


 円香と田辺が交際していたこと。


 野田に求婚されたこと。


 茂松と接近したこと。


 豊島にスカートの中を見られたこと。


 海を訪れてからの菜々の休暇は、ごく真面目なことからくだらないことまで様々な出来事を経験させられた。



(一生、忘れられなさそうだな…)



 良くも悪くもそう結論づけた菜々の足元で、急に冷たい感触を覚えて思わず立ち止まる。


 方向もろくに見当をつけずに歩いてきた菜々は、上を向いているうちにいつの間にか波打ち際まで辿り着いていた。


 思わず身震いするほどの冷たさを感じさせる海の温度は、昼間の比ではなかった。だがしばらく足を浸らせているうちに冷たさに慣れていき、やがて菜々は再び寒さを忘れる。


 おもむろにサンダルを脱ぎ捨て、素足を海に晒しながら菜々は無風の海に映し出される満月を物憂げに見つめる。



『俺は、お前と――結婚したいんだ』



 今日あった様々な出来事のうち、菜々の心に最も深く刻まれた野田の言葉が脳裏に甦る。


 付き合い始めて、まもなく一年が経つ。21歳になった菜々と、二つ年上の23歳の野田。


 結婚なんて、一度も意識したことがなかった。


 野田の口からその意思を告げられてから、菜々はずっと頭を悩ませている。


 色々な理由で、彼女は安易に返答するのを躊躇った。


 野田はそんな彼女の心情を理解し、気長に答えを待つといって優しく微笑みかけた。


 彼の優しい笑みを海面に投影しながら、菜々は自身に問いただす。



(いいのかな…あたしなんかが、結婚とか…)



 急いたように野田が求婚してきた意図を、菜々は理解していた。


 茂松や他の誰かから自分の恋人が奪われる可能性を、完全になくすためだ。


 それとは別に、それだけ菜々を愛しているから。そういう意図ももちろん窺えたが、今の彼女には野田の独占欲を示す前者の意味しか考えられなかった。



(あたしなんかの…どこがいいんだろう…朋也は)



 菜々は、そうまでして自身を束縛したがる野田を、理解できないでいた。


 抜きん出た長所などない、女として、人として、何一つ自信を持てない自分。


 野田が何故、そんな自分にこだわるのか、菜々にはわからなかった。



(社交的で、誰とでも仲良くなれて、先輩からも後輩からも慕われてる朋也には、もっと相応しい人が他にいる)



 野田から告白を受ける前から、菜々は彼に対してそう思っていたし、彼にも直接そう言い続けてきた。


 それでも野田は、菜々じゃないと駄目だと頑なに主張した。


 菜々以外を好きになれない。他の女じゃ嫌だ。


 純粋でまっすぐな想いを、菜々は幾度となくぶつけられてきた。


 不確かな菜々の意思を、ないがしろにして。



(どうすれば、いいんだろう…)



 彼の想いに逆らわず、決心を固めるべきか。


 流されるまま、彼の想いを受け入れていいのか。



(…どうすれば、よかったんだろう…)



 改めて自分の想いを確かめる猶予をもらって、野田との関係を今一度考え直すべきか。


 流されずに、自信を持って彼だけを想うようになればよかったのか。



(あたしは…………どうすれば)



 堂々巡りを繰り返す思考が、菜々の足先から付け根にかけて晒される波の温度に合わせて、冷たく、暗く、深く、沈み込む。



「――風邪引くよ、菜々ちゃん」



 背後から――少し離れた後方から呼びかける声に、菜々ははっと我に返って立ち止まる。


 波打ち際で留まっていたはずの自身の両足は、無意識に沖へ向かって歩を進めていた。足首まで浸っていた海面は、すでに菜々のデニムスカートの裾に触れるか触れないかの高さまで来ている。


 呆然とその足元を見つめる菜々は、自身の行動も今の状況も飲み込めず、無言のまま困惑した。



「菜々ちゃーん。聞こえてるー?」



 さっきよりも声を張り上げて呼びかけられ、菜々はゆっくりとした動作で顔を上げ、半身を捻って後ろを振り向く。



「…豊島さん?」



 声だけで彼とわかっていたが、波打ち際で菜々のサンダルを片手に立ち尽くす彼の姿を認めてようやく、その名を口にする。


 月明かりだけが頼りの暗い海辺で、互いの表情ははっきりと窺い知れない。


 だが菜々の視線の先にいる豊島は、明らかに神妙な面持ちでこちらを見つめていることがはっきりとわかった。


 返す言葉を逡巡し、特に深く考え込まずに浮かんだことを菜々は口にする。



「…何してるんですか。こんなとこで」


「いやそれ、こっちの台詞」



 間髪入れずにツッコむ豊島に、菜々は素直に納得した。


 真夜中の刺すように冷たい海の中に進み入る自分は、本当に何をしようとしていたのだろうか。


 豊島に返す言葉を探し、自身の行動の意味を探り、口を閉ざす菜々。


 広い海の中に一人佇む彼女を見かねて、豊島が言葉を続ける。



「海で遊ぶのは明るいうちにしな。あんま波なくても、危ないからさ」


「遊んでなんかいませんよ」


「それは…見たらわかるけど」


「わかり、ますかね」


「…そこまで俺のこと鈍いって思ってるの?菜々ちゃん」


「それは…」



 思わずいつもの流れで豊島を茶化しそうになって、菜々は後に続ける言葉を躊躇う。


 誰が見てもわかる、今の自分の状況。


 豊島でさえ察しているのに、菜々自身は理解できていない。



「…………何しようと、してたんだろ」



 鈍いにもほどがある独り言に、豊島が渾身のツッコミを入れてくれるだろうと、無表情を湛えて目を伏せながら菜々は期待した。


 だが豊島は、何も返してこない。


 耳が痛くなるほどの暗い海の静寂の中で、二人は沈黙した。


 視線を落として黙り込んだまま静寂が破られるのを待つ菜々は、不意に聞こえた水の跳ねる音がした方へ顔を上げる。


 片手に菜々のサンダルを下げたまま、豊島は口をつぐんで静かに海の中に進み入り、菜々の近くへ歩み寄ってきた。


 膝下丈のハーフパンツが海に浸っていくのも全く意に介さず、手を伸ばせば触れる距離まであと数歩のところで立ち止まり、豊島は菜々に向かって彼女のサンダルを差し出す。



「全部なかったことにすればいいさ。何しようとしてたか、わからないなら」



 優しく微笑みかける豊島の目を、菜々は呆然としたままじっと見つめた。


 全部、なかったことに。


 どこまでを、そうすればいいのか。


 心に刺さるほどの優しさを向ける豊島からそっと顔を背け、菜々は自嘲の笑みを浮かべる。



「……できそうにないです。なかったことにするのは」



 弱々しい声で告げる菜々の言葉に、豊島はサンダルを受け取ってもらうのを諦めて片手を下ろした。



「何か、あったんだ」


「…ありました。今日だけで、色々と」


「話せることなら、話してくれないか。俺でよければ、真面目に聞くから」


「豊島さんに…」


「誰かに話してしまえば、案外気が楽になるかもしれないだろ」


「でも……今まで散々色んな相談事に付き合わせてきたのに、これ以上あたしなんかの話を聞いてもらうのはさすがに」


「聞かせてくれ。菜々ちゃん」



 強い口調で遮られた菜々は、その表情から笑みを消しながら、なおも豊島と目を合わせようとはせず耳だけを傾ける。



「何でこんなとこに来たかって、花火から抜けて俺らのとこに来た時から、時々寂しそうな顔する菜々ちゃんが気になってたんだよ。何があったのか聞くに聞けないまま、一人で旅館戻るって言い出して余計心配になって」


「…豊島さん…」


「なんか、あのまま続けて麻雀する気になれなくてさ。シゲと交代して俺も旅館戻るって言って抜けてきてさ。ちゃんと戻れたか心配してたら…こんなとこにいた菜々ちゃん見かけて、さ」


「……」


「……話聞いてもらうの、迷惑なんじゃないかって思ってるだろ。でも、何も知らないまま菜々ちゃんが一人で悩んでる姿を見て心配するより、よっぽどマシだ」



 真剣に語り聞かせる豊島の強い想いに耐えかねて、菜々はとうとう豊島に背を向けた。


 複雑な感情を乗せた視線を背中に受けながら、暗闇の向こうの水平線を見つめる菜々は気づく。



「…だからかもしれませんね」


「…何が?」



 含みのある言い方を返された豊島の短い質問に、菜々は答える。



「こうして海に入ってった理由。誰にも知られずに一人で、いなくなりたかったから」



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