4/8 誰もが平和に過ごせていた頃のこと
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「――えっ……ええっ!?」
「びっくりした?言っとくけどあたし、本気だからね」
「でも、あの…円香さん、と、田辺さん………ええー!?」
「驚きすぎだよ菜々ちゃーん」
からからと笑い声を上げながら、円香は慌てふためく菜々の背中を叩く。
円香の口から信じられない事実を告げられた菜々は、その反応を面白がる円香の悪戯な笑みと、少し離れた場所で数人と談笑を交わす田辺をせわしなく見比べる。
夏らしい軽装で楽しげに言葉を交わしているのは、田辺と茂松と豊島と、田辺の知り合いという男性。菜々たちが今いる旅館の経営者であり、すぐ傍に設けられた海の家も手がけているということを、菜々は田辺の紹介で知った。
十数名ほどの職場の有志がこの海辺の旅館に数泊することになったのは、何とか成功を遂げたプロジェクトのリーダーを務めていた田辺の計らいによるものだ。彼は知り合いのつてを利用して場所を決め、度重なる休日出勤で生じた複数人の代休を無理矢理固めて連休を取らせ、慰安旅行と称して訪れたのだった。
そんなことはさておいて、菜々は懸命に落ち着き払おうと深呼吸をし、特にこれといった前振りもなく田辺との交際を暴露してきた円香に声を潜めて疑問を投げかける。
「…田辺さんって、娘さんいるんですよね」
「いるよ。あたしの1コ下」
「あたしと同い年じゃないですか」
「そゆことだね」
「奥さんいないんですよね」
「子供産まれてからそんなにしないうちに離婚したらしいからね。娘さんは前の奥さんの所にいるし、実質独り身だよ、あの人」
「それは、そうでしょうけど…」
「全然問題ないじゃん。付き合っても」
「だからって……気にならないんですか?」
「何が?」
「何がって…歳の差、とか」
「ぜーんぜんっ」
矢継ぎ早の菜々の質問に平然と答えてみせる円香に、菜々はただただ呆気にとられるばかりだった。
自分と同世代の娘がいる田辺と、入社して間もない頃から密かに恋人関係を続けている。
20歳以上も年の離れたカップルがこんな身近にいたことを、菜々は入社して2年目で初めて知らされた。
円香が菜々に与えた衝撃は、彼女の予想以上に効き目があった。
「むしろ今まで本当に何とも思ってなかったの?あたしと田辺さん、割としょっちゅう一緒だから、気づいてるかなーと思ってたのに」
「いや、確かに一緒にいることは多いなーとは、思ってましたけど…」
「もしかして菜々ちゃん、豊島さん並みに鈍い?」
「そんなこと言われるのは心外ですっ」
「だよねー」
「でもさすがに年が離れてるし、そんな可能性ないよなーと思って深く気にしてなかったですよ」
「なんだ、気づいてはいたのね。カナちゃんなんか、似たようなことこっそりあたしに直接聞いてきたけどね」
「…勇気ありますね」
「自分に正直な人だから。疑問に思ったことそのままにしておけない人でしょ、カナちゃんは」
「あー、確かに」
「――なになにー?何の話してんの?」
割り込んできた声に思わずどきりとし、菜々は体をこわばらせた。
自身の内緒話に割り込まれた円香は変わらず平然とした様子で、声を掛けながらこちらに近づいてきた茂松と、その隣についてきた豊島に振り向く。
「もー。ガールズトークの邪魔しないでくださいよーカナちゃん」
「だって俺らの名前聞こえたし。俺らのことでガールズトーク?」
「カナちゃんたちみたいなオタクのことで盛り上がれる女子なんていませんよーだ。ねー菜々ちゃん?」
同意を求めて菜々に向き直る円香の笑顔に、菜々はさらに身をこわばらせながら乾いた笑いを返す。
臆せず先輩をからかう円香を小突く茂松に複雑な視線を送りながら、菜々は彼の隣でやりとりを傍観していた豊島をちらりと盗み見た。
豊島も菜々の様子を窺っていたようで、二人の視線がぴたりと重なる。彼の方から慌てて目を逸らし、気まずそうに顔を背けた。
思わぬ動揺を豊島に与えたことを悔いながら、菜々は何も知らない円香を胸中でそっと責める。
(事情知らないからって、皮肉なこと言わないでよ円香さん…)
円香の言うオタクの一人に菜々が想いを寄せていたことを、彼女は知らない。
生意気を言うなといわんばかりに茂松は円香とじゃれ合っているが、菜々と豊島は何の気なしに発した彼女の発言に戸惑いを感じずにはいられなかった。
菜々が別の男と付き合い始めて、まもなく丸一年が経とうとしている今でも、彼らは気にした。
「まどちゃーん。準備手伝いに行くけど、来るか-?」
田辺の声に四人が目を向けると、彼は数人の後輩たちを子分のように従えて旅館を出ようとしていた。
「はいはーい、行く行くー」
「あいよー。おめーらはどうする?人手は足りてっから、部屋行って休んでても構わんけど」
嬉々として田辺の従える集団に加わりに行く円香を見送り、茂松と豊島は顔を見合わせて軽く逡巡する。
優柔不断な菜々が迷ってみせているところへ、集団の中の一人が彼女を手招きしながら声を掛けた。
「行こうぜ、菜々」
「…うんっ」
誘い込む一言をきっかけに、菜々はぱっと表情を明るくして野田のもとへ駆け寄った。
その様子を見ていた二人のうち、茂松が田辺に向かって言う。
「俺らは留守番してますんでー」
「おう。こっちは手伝い済んだらそのまま向こうで遊んでるからな。後で来いよ」
「うーっす」
「海まで来て部屋でゲームばっかやってんじゃねーぞ?」
「げ。持って来たのバレてました?」
「引率の教師じゃあるめーし。没収なんかしねーよ」
田辺の一言に、その場の全員が笑い声を上げる。
やがて茂松と豊島と他数名が旅館に残り、それ以外の数名は海の家に向かった。
シーズン前の海の家の手伝いというのは、実に巧妙な名目だと菜々は感じた。
海開きをして間もないが、世間的にまだどこも夏休みを迎えていない平日ということもあり、波打ち際や浜辺にいる人影はまばらだった。
ほぼ貸し切り状態の海水浴場をぐるりと見渡してから、菜々は傍らの砂浜に腰を下ろして海を眺める彼の顔を覗き込んで声を掛ける。
「今度は二人で来たいね、海」
「そうだな」
無邪気に笑いかける菜々に返答しながら、野田は彼女に優しく微笑んだ。
手伝いらしい手伝いはこれといってなく、雑用を終わらせた田辺の子分たちは思い思いに自由行動を満喫している。そのまま海の家で雑談に興じたり、気ままに浜辺を散歩したり。中にはまだ冷たさを感じる海に入って海水浴を楽しむ者たちも何人かいる。
そんな中、菜々と野田は二人きりで、波打ち際を訪れた。
社内の誰もが二人の交際を知っていたから、誰も彼らに無粋な言葉を掛けることはなかった。
「真っ昼間でこんな落ち着いた雰囲気の海なんて、滅多に来られないからね」
「ほんと、田辺さんのおかげだな」
「二人でデートする時も、こんな感じの海に来られたらいいのに」
「これからもっと人が増えるだろうから、今年は無理だな」
「そうだね」
残念そうに笑いながら、菜々は押し寄せるさざ波に向かっておもむろに歩み寄った。
足首の高さで通り過ぎる波の温度に、菜々は少し顔をしかめる。
「つめたっ」
「だろうな。昼間とはいえ、曇ってるし」
「先輩たち、よくこんな冷たい海で泳げるね。あんな楽しそうにして」
「馬鹿だからな、あいつらは」
二人が呆れた視線を送る向こうで水遊びに興じる数人は、いずれも野田の同期だった。
「あいつらは風邪ひかねー馬鹿だけど、お前はあんま体冷やすなよ菜々」
「大丈夫だって。足だけだし。水着持って来てないし」
浅瀬に足を浸らせたまま、水を蹴り上げて無邪気に遊び出す菜々。
そんな彼女の姿を砂浜からしばらく眺めていた野田は、不意に笑いを漏らしながら口を開いた。
「菜々」
「んー?」
「俺しかいないからいいんだけどさ」
「なーにー?」
「パンツ見えるぞ」
「わっ!」
突然の指摘に菜々は赤面して、丈の短いデニムスカートの裾を押さえた。
「忘れてたー…だからこんなミニスカ履きたくないってゆったのに」
「似合ってんだからいいじゃん」
「全然似合ってないよ。あたし足太いのに…」
「んなことねーよ、可愛いって」
恥ずかしげもなく言ってみせる野田に、菜々は戸惑いの視線を送る。
「可愛い彼女の可愛い格好をみんなに自慢したいから、ミニスカがいいって言ったろ、俺」
野田の満面の笑みを見て、さらに顔を赤らめながら菜々は下を向いた。
やがて恥ずかしさに耐えきれなくなり、菜々はスカートのことも構わず野田に向かって浅瀬の水を思いきり蹴り上げる。
「つめてっ!」
「ざまみろ!スカート覗いた仕返しと、こっぱずかしいこと言った仕返しよ!」
「覗いたつもりねーよ…」
「黙れラッキースケベ!」
「ツンデレ乙」
「うっさい!」
つんと背中を向ける菜々と曇り空の景色を見ながら、野田は濡れた顔を拭って苦笑いした。




