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涙の魔法 -彼女の終わりと恋の歌-  作者: 燐紅
ラストシーン
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2/8 最後まで歌えなかった彼女の最期

 あの三人のもとから逃げ出してきたことで、誰かが、あるいは全員が、菜々を探している可能性は大いに有り得た。


 ましてや菜々も含めた四人の共通の職場であった会社など、茂松や野田ならさほど時間を要さずに目星をつけそうなものだ。


 …豊島であれば、なかなか勘付かないかもしれないが。


 それも菜々の勝手な、彼への思い込みなのだが。



(豊島さん…)



 菜々は無意識に、暗がりに彼の影を探した。


 そしてふと、あの歌を思い出す。


 ――キミに伝えたいコト。


 彼のために。そう彼に告げて、その途中までを彼に聴かせた歌。


 白い息を数回吐いてから、菜々は小さな声で歌い出す。


 原曲よりも、穏やかなテンポで。


 歌詞の一つ一つに、自分でも鮮明に言い表せない、想いを込めて。


 静かに。穏やかに。


 囁き程度にサビの手前までを歌い、冷え切った心に仄かな温かみが差すのを、菜々は感じた。



(……歌える……)



 そして今度は、冷たい外気を深く吸い込み、始めから歌い直す。


 さっきよりも声を高らかに、暗く沈む闇夜に響き渡らせるくらいに。


 誰にも聴こえない。


 だから、目一杯歌える。


 心の赴くままに。歌声の赴くままに。


 心地よく歌の一番を歌い上げ、気持ちの昂ぶりに任せて二番に入る。


 色んなことがあった夜なのに、今日は声がよく伸びる。低音も高音も、揺らぐことなく気持ちよく出せる。


 三人きりのミニライブでは、どれほどの最高の歌を彼らに聴かせられたことだろう。


 彼らに、どれだけの幸せを与えられたことだろう。


 そんな想いを巡らせたまま、菜々は二番を歌い終えた。


 菜々の歌声を乗せた白い息が、風のない静かな冬の空にゆっくりと溶けていく。


 待ちあぐねていた静寂が、孤独の菜々を再び包み込もうとする。


 ほんの少し温まった心は、あっという間に冷めた。



(…何がしたいんだろ、あたし)



 ほんの少し体を前に押し出せば、あっけなく終わりを望める状況。


 誰もいないのをいいことに、割と本気の声量で歌なんか歌ったりして。


 ――助けを求めるかのように。



(誰もいないし、誰も来ない)



 高所から暗がりを確かめるすべはないが、菜々は頑なに言い聞かせる。


 …万が一、誰かが歌を聴いたとしても。


 ここに誰かが現れたとしても。


 身を投げ出す覚悟は、すでに菜々の中でできている。


 ずっと前から――『あの時』から。



(…………あの時?)



 無意識に湧いた意味深な言葉に、菜々は心当たりがなかった。


 どのような形であれ、何もかもを終わらせる覚悟だけは、確かにずっと前から隠し持っていた。


 そのきっかけを生んだという…『あの時』とは。


 暗闇に視線を彷徨わせて記憶を探っても、菜々はそれらしい記憶を見つけることができなかった。


 思わぬもどかしさを感じて、菜々はもう一度溜め息をつく。



(…ちゃんと終われないじゃん。思い残すことがあったら)



 自身の想いと言葉に数珠つなぎに導かれる菜々の思考は、それとは別の思い残したことにふと気がつく。


 あの歌を、最後まで歌えなかったこと。


 今なら…歌えないだろうか。


 たった今歌い終えた二番の先から、その続きを。


 豊島に聴かせられなかった、その先を。


 この歌の中で菜々が最も好きな、Cメロのメロディを。



(――歌いたい)



 張り裂けんばかりの純粋な想いが一気に押し寄せてきて、その勢いに身をゆだねながら菜々は目を閉じ、歌った。










 嫌われてもいい




 キミを想うだけで




 楽しかったから







 たくさんもらった




 キミの笑顔







 それだけで




 幸せだったんだよ










 ――息が続くまで、ラストの高音に命をかけて、声を伸ばしきる。


 次の瞬間、菜々は大きく目を見開いて息を吸い込んだ。


 ――歌えた。


 その高揚感は、ますます菜々の心を昂らせる。


 波のように再び押し寄せる想いに、菜々は繰り返し歌い出した。


 張り上げるほどの声で。


 何もかも考えることを忘れて。


 周りを気にすることなど一切頭から消し去って。


 二度、三度と、菜々は繰り返し歌い叫んだ。


 命を削る感覚で、声を振り絞る。


 やがて息を切らしながら、少しだけ間を置いて、もう一度歌おうと息を吸い込む。



『…………歌……よかったよ』



 記憶の中ではっきりと聞こえた豊島の声に、はっとなって菜々は息を止めた。


 最後まで歌えなかったのに。


 彼はいつものように、優しく言ってくれた。


 菜々は俯いて、その時と同じように否定する。



「……違うんですよ……豊島さん…」



 何が違うというのか。


 彼に何を伝えたかったのか。


 何故、震える声で、言葉にしたかったのか。


 菜々自身でさえ――答えを知らない。



(……もう駄目だ)



 泣きたくなるほど情けない自分を嘆いて、菜々は独り、静かに首を横に振った。


 どんなに泣きたいこの状況でさえ、やはり涙は少しも滲まない。


 最期くらいは、めちゃくちゃに泣いて終われたら、思い残したことを気にせずにいられたかもしれないのに。


 誰も、いないのだから。


 気持ちだけが悲しくなるばかりの菜々の脳裏に、今度はこれまでの回想が一気に押し寄せる。


 彼女が身勝手に利用してきた四人の想いが、鋭く尖った言葉の針に形を変えて次々と菜々の心に突き刺さってゆく。



『やっぱ俺、なっちゃんの歌うケイナ、すげー好きだわ』


『俺、好きだよ。菜々ちゃんのケイナ』


『…要は、これからも三人で遊びたいってことで、いいのかな』


『泣かないのな、お前』


『あんた…間違ってるよ。焦ってんだよ。自分の気持ち、素直に認めて…いいんだよ…』


『……全部一人で抱えなくていいよ、菜々…』


『泣かなくなったね、菜々』


『菜々ちゃんは二人分の幸せあげられるように頑張らないといけないな』


『恋人の関係で考えるの、やめないか?』


『俺さ、菜々ちゃんがそうやってシゲに夢中になってるとこ見てると、変な気分になるんだよ』


『せっかくのクリスマスイブだ。あいつから告白されたいだろ』


『忠告したはずだよな、野田。黙ってなっちゃんの前から消えろって』


『俺は菜々から逃げる気はありません』


『なっちゃんさえ許してくれたら、誰に止められようとも俺は理性捨ててお前をぶん殴るからな』


『…俺だって必死で感情堪えてんだよ。野田に殴りかからないように』


『お前のことがやっぱり心配なんだ。お前ともう一度やり直したい』


『俺は確実に…お前を愛してやれる』


『言え菜々!茂松さんと豊島さん、どっちがお前の本命の男か!』



 ――菜々に向けて、あるいは菜々を思って、言葉で模した四人の想い。


 それらに応えようと、頑張ること。


 悩むこと。


 強がること。


 ごまかすこと。


 耐えること。



(…………もう、疲れた)



 すべてに応え、すべてを償うには、菜々は弱すぎた。


 弱いなりに、菜々は彼らに答えと償いを示したかった。


 たとえそれが過ちであり、逃げただけだと誰に責められようとも。


 何もかもに限界を感じた菜々は――諦めた。


 少しずつ体に積もる雪の冷たさも感じなくなってきた彼女は、果ての見えない闇夜の向こう側を見据えて囁く。



「――ごめんなさい」



 自身を支えていた両手に力を込め、少しも躊躇わず前方へ思いきり体を押しやる。


 菜々の体は、宙に放たれた。











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