1/8 孤独のラスト
【ラストシーン】
――やっぱり、面白くなんかなかった。
途方もなく長い回想を終えて、菜々は投げ出した足元に向かって溜め息をつく。
凍りつきそうなほど冷たいフェンスに腰かける彼女の体は、フェンスに触れる部分と小雪混じりの外気のせいで、芯まで冷えきっていた。
ドラマらしいドラマはあっても、誰も興味を示してはくれないであろう、自身の半生。
豊島や茂松、もしくは自身の仮の姿を模したあのネトゲのキャラの視点から見た回想があれば、少しは面白くなっただろうか。
自身の知り得ない別視点の回想に期待を抱く菜々は、自嘲の笑みを浮かべる。
(そこまでしたって、面白くなるわけない…)
宙に浮かせた足元を通り過ぎる、舞い落ちる雪の行方を目で追いかけながら、暗がりに据わるコンクリートの地面を冷めた目で見下ろす。
(いっそ手を滑らせて、ここから真っ逆さまに落ちてあっけなく終わる方が…よっぽど滑稽かな)
そこまでして、悲劇ぶる自分に浸りたいのだろうか。菜々は静かに胸中で自問する。
大変だったね。可哀想だね。つらかったね。よく頑張ったね。よく耐えたね。
全部、一人で。
そんな言葉を誰かにかけてもらいたいと、淡い期待を寄せているのだろうか。
(…言ってくれないよ、誰も)
感情の無い目で虚空を見つめ、独りごちる。
すべて自業自得なのだ。菜々にはその自覚があった。
成り行きだろうと偶然だろうと、それらはすべて自分の行いが招いたもの。
自分一人が、責任を負うべきだ。
安易に誰かに縋ろうとする資格など、最初からない。
(それなのに……色んな人を、利用した…)
弱い自分の、心の支えとなってもらうために。自分勝手に。
(…奈津美)
菜々の相談を親身に聞いてくれた親友。
迷走とも言える菜々の行いに涙を見せながら叱咤するほど、心の底から菜々を心配してくれた彼女。
今日の出来事を打ち明けようものなら、誰よりも深く同情を寄せて、深く悲しむことだろう。
ましてや今の状況など、彼女が知ったらどれほど嘆くことだろうか。
(…朋也)
かつての恋人であり、夫だった野田。互いに下の名前で呼び合っていた頃は、もうずいぶんと過去のことだったと菜々は振り返る。
菜々はいつしか、野田を名前で呼ぶことが稀になっていた。その理由は、月日を重ねるごとに移り変わっていった。
最初は不慣れさ。それを克服した頃には、気恥ずかしさ。やがてそれもなくなった頃には…彼への想いは遠のいていた。
敬遠。そして、侮蔑。
だが野田を本気で好きだったことも、菜々の過去には確実に刻まれている。
今はただその始終を悔いるばかりだが、彼の人生と純粋な想いを惑わせたことだけは、わずかばかりの罪悪感を菜々は抱いていた。
(……カナちゃんさん…)
長らくの間、想いを寄せていた憧れの存在。かつて菜々の告白を断ったはずの相手。
つかの間の、仮初めの恋人。
好意を寄せる矛先を変えることによって想いを断ち切ったつもりでいたが、それでも菜々はそんな関係になれたことを素直に喜んだ。
かつての希望が叶った。駐輪場で彼が野田へ見せた怒りの姿は、自分を想っての行為なのだと感じてしまっていた。
彼の気持ち次第で、本当の恋人になれたらと、浅はかな想いを抱きかけた。
だが、野田が明かしてしまった真実によって、彼の何もかもを裏切った。
菜々は、自身の浅はかさを恥じた。
(そして……豊島さん)
かつての職場の先輩。菜々のよき理解者であり、気兼ねなく悩みを打ち明けられるよき相談相手。
菜々自身、彼を異性として意識することはないと思っていた。
それが、離婚の愚痴を聞いてもらったときからか。人格を偽って彼とネットで交流するようになってからか。同じ職場にいた頃からか。
彼を好きだと……思ってしまった。
彼にそんな想いを抱いてしまっては、いけない。
そう自分を戒めている確かな理由は、菜々自身もはっきりと気づいていなかった。
(好きとか……もう、わかんないし…)
色々なことを経験しすぎて、菜々はあらゆる感覚に狂いが生じている。
自分の気持ちを把握できなくなったこと。感情を制御できないが故に、菜々は過呼吸を起こす癖が身に付いてしまった。そして、泣きたいときに泣けなくなった。
他人の気持ちを正しく汲めなくなったこと。ろくに判断の利かない自分の勝手な思い込みで、相手の気持ちを推し量った気でいた。その驕りが、利用に繋がった。
自分と他人の気持ちが、わからない。
そんな自分が、誰かに支えてもらうことを身勝手に望むのは、容易に許されてはならないと菜々は思う。
そして、誰かの支えに頼りきっていた自分に、失望した。
(…せめて少しでも、もう少しだけでも、強くなりたかった…)
誰にも頼らず、誰にも迷惑をかけず、強く生きたかった。
孤独に耐えられる強さが、欲しかった。
(……もう、必要ないか)
今の菜々は――孤独だ。
誰もいない、四階建ての会社の屋上。外周に巡らされたフェンスに腰かける菜々の目には、静かに舞う雪の向こう側に佇む、クリスマスイブで華やぐ駅前の通りの灯りが映る。
少しずつ目線を落としていくほど、景色は暗くなってゆく。そして宙に浮く菜々の足の下に、灯りはない。
ビルの外側に足を投げ出して黄昏る菜々は、孤独の時間をしばらくの間過ごしていた。
自分以外は、誰もいない。
誰も――
(誰も……助けになんか、来ない)




