10/10 もう一度聴きたい歌のする方へ
おそらく菜々は、スマホを入れたバッグを駐輪場に置き去りにしたままだ。遅れてその事に気づいた豊島は、苛立ちを露わにして通話終了キーを押し、スマホの画面を閉じる。
今になってすぐに菜々を追わなかったことを悔いながら、豊島は無我夢中で彼女の姿を探し回った。
(どこに行ったってんだよ…!)
クリスマスイブでいつもより人気の多い通りを懸命に見渡しても、菜々の姿はどこにもない。
探しながら、茂松が別れ際に言った忠告を何度も思い返し、豊島は焦りを募らせた。
何をしでかすか、わからない。
不自然な人だかりの中心にいたりしないだろうか。
路肩に停められた車の傍らにいたりしないだろうか。
建物の屋上や歩道橋なんかの上にいたりしないだろうか。
何も手がかりのないこの状況は、考えたくない想像ばかりを豊島に与えた。
(頼むよ菜々ちゃん…頼むから、無事でいてくれよ…!)
祈るように必死になって探し続けるも、手がかりを見つけるより先に豊島の体力が尽きかけた。悲しいかな、デスクワークを生業とする豊島は、立ち仕事にすでに慣れた菜々と体力差があることくらい、最初からわかりきっていた。
さらに年齢差もかけ離れていることすら改めて痛感させられ、豊島は為す術なく道端の隅でへたり込んだ。
乱れた息を整えながら、スマホを開いて時刻を確認する。駐輪場を出てからどれくらい時間が経っているかなど把握してるわけがないが、確認して気づいたことが一つだけあった。
(…カラオケの時間、過ぎたな)
そんなことを気にしている場合ではなかったが、疲れから気を紛らわすためのきっかけがあればなんでも良かった。
カラオケは中止だ。もう『クリスマス』を冠した菜々のミニライブはできない。
三人で決めたセットリストを思い出しながら、曲の一つ一つを少しだけ頭の中で想像する。
菜々の歌声で。
目を閉じながら曲目の最後まで想像を終えて、ふと気づいた豊島はゆっくりと目を開けた。
(シゲは、あの歌を入れなかったな)
彼女に歌わせるなと豊島が忠告した、あのケイナのバラード。候補を挙げていく段階で、茂松はその曲名を一度も口にしなかった。
クリスマスくらいいいじゃねーか。彼ならそんな風に言って候補の一つに入れてくるだろうと、その時の豊島は予想していた。
そしてもし彼がそうしていたら、豊島は賛成するつもりでいた。
茂松が、その歌で自分の気持ちを確かめるつもりでいるなら。
セットリストを決める段階ではまだ菜々の彼氏だった豊島も、その歌を聴いて自身の気持ちを確かめたいと思った。
(……どんだけ菜々ちゃん任せだよ、俺は)
菜々に歌わせて自分の気持ちを知ろうとする。身勝手で情けない自分の発想に、豊島は内心でツッコミを入れて苦笑いを浮かべる。
だが、豊島が菜々から身を引いたことによって、唯一の彼氏になった茂松なら、それが許されるとも豊島は思っていた。
それで、茂松が答えを出してくれたのなら。
菜々とはぐれた時にセットリストを開いていた茂松に、その時の豊島はその歌を加えてくれないだろうかと、密かに期待を寄せていた。
結局それも、茂松頼みの身勝手な期待なのだが。
(でも…)
呆れるほどの自身の発想を頭の隅に追いやり、豊島は苦笑いを消して真剣な面持ちに変わる。
――菜々が選んだのは、豊島だった。
現実の彼氏として。そして豊島の知らない間にそうなっていた、ネトゲの時だけの彼氏として。
菜々の望む形になれるよう努めてきた豊島にとって、彼女から身を引いた行為は、大きな間違いだった。
『イブに後輩ちゃん告っちゃえ!』
『彼女』は、そう言っていた。
豊島にそうさせたいと、期待を込めて。
それと正反対のことを告げてしまった彼は、決意を込めて立ち上がる。
「――謝んないとな」
強い語気でそれを声に出し、豊島は再び駆け出した。
謝りたいことが、山ほどある。
菜々が一番好きな相手を勘違いし続けていたこと。
その勘違いのせいで、身勝手に菜々から身を引いたこと。
協力やら期待やらを建前に、茂松に菜々を押しつける気でいたこと。
ろくに自分の想いを確かめないまま、そうしてきたこと。
気づかない間に傷つけていたこと。守れなかったこと。大事なときに一人にさせたまますぐに見つけ出してあげられないこと。
あの笑顔の菜々に会えないまま、終わるかもしれないこと。
(くっそ…!)
最悪の想像を懸命に振り払い、豊島は聖夜に華やぐ街並みの隅々に目を凝らしながら走る。
駅前の主要な大通りをあらかた探し終えてしまい、あとは菜々の行きそうな場所を模索して見当をつけて探すか、手当たり次第に横道を一つ一つ確かめるしかなくなった。
体力勝負にすでに白旗を揚げている豊島は、呼吸を荒くしたまま膝に手をついて頭を働かせた。
今、豊島が足を止めた場所から最も近くにある、菜々の行きそうな場所は。
行き先に選びそうな場所。興味を示しそうな場所。逃げ隠れるのに最適と判断しそうな場所。
縁のある場所。
どれにも見当がつかない、と落胆しかけた矢先だった。
「…………会社」
最後に浮かんだ選択肢に該当する場所を呟き、豊島は弾かれるように身を翻してわずかに大通りを戻り、横道へ続く角を曲がる。
豊島と茂松が通う会社。そこにはかつて、菜々もいた。
思い当たる場所は、もうそこしかない。
走れば数分でたどり着く会社までの距離を、わずかに差し込む希望の裏に見出した不安ばかりを気にしながら、豊島は走った。
(…謝るったって、そもそも聞き入れてもらえるかどうかも…)
豊島に不安を与えたのは、あの駐輪場での出来事だった。
野田に迫られた戸惑いで過呼吸を起こし、気を失った菜々。その身を支えながら、やがて彼女が目を覚ますのを豊島は待ち望んでいた。
そしてようやく目を覚ました時、拒否の反応を示して菜々は豊島から跳ね退いた。
あれは、明らかな拒絶だった。
その後に明かされた、自分が菜々の本命だったという信じがたい事実でさえ、その時の衝撃は拭えなかった。
彼女に謝ってどうするのか。謝ってどうなるのか。
謝られることなど、彼女は望んでいないのではないか。
(…………構わない)
豊島は改めて前を見据え、菜々の姿を求めてひたすら走る。
(また菜々ちゃんに拒まれたとしても、このままじゃ俺の気が済まない)
会えずに終わることすら想像が及んでる今の豊島に、別の選択肢を用意する暇などない。
拒絶されることなど、恐れている場合ではないのだ。
ただ、自分の意思の赴くままに、彼女を見つけ出すために、前へ進む。
(…また、菜々ちゃんの歌うケイナが聴きたい。また、菜々ちゃんの笑顔が見たい…)
次々と溢れ出す豊島の想いは、息の上がる胸をさらにきつく締め付けて彼を苦しめる。
菜々を想って走り続ける豊島の脳裏に、あのメロディがかすかに流れ出す。
繰り返し菜々に歌わせていた茂松に、禁じさせた歌。菜々が豊島のためにそれを歌って、最後まで歌えなかった歌。
豊島の中で、その歌は菜々の歌声で、鮮明に響き渡っていく。
(…………違う)
違和感を覚えた豊島は立ち止まり、周囲の静寂の中で脳内に小さく流れているその歌に、意識を研ぎ澄ませた。
いや、現実に耳を澄ませた。
――聞こえる。
記憶の中では聞き覚えのない、伴奏なしの菜々の歌声だけが、確かに豊島の耳に届いている。
「菜々ちゃん…!」
豊島は、全力で駆け出した。
歌のする方へ、ひたすら向かって。
――菜々は今、あの歌を歌っている。




