9/10 もう一度聴きたかった歌
やがて茂松は駐輪場の出入り口から野田へ向き直り、無感動な目で彼を見据える。その視線を受けた野田も、無言のまま茂松を見返す。
長い間を置いて、茂松は拳を作った腕をゆっくりと振りかぶり、今度は野田の顔面に狙いを定めて振り下ろす。
が、拳は野田の眼前でぴたりと止まった。
野田は少しも怯むことなく、わずかな感情も覗かせない茂松の表情を彼の拳越しにじっと見つめる。
「…よけろよ」
「…殴ってから言ってくださいよ」
突きつけた拳を退かさないまま呟く茂松に、野田は静かにツッコんだ。
すでに平静を取り戻していた茂松は、野田の指摘に素直に納得して、解いた拳を下ろした。そして深く息を吸い込み、盛大に吐き出しながらその場にへたり込む。
すっかり気の抜けた茂松を見下ろしながら、野田は呆れた様子で口を開く。
「どうしたんすか。失恋でもしたような反応して」
「…こんな感じになるのが、失恋なのか?」
「知りませんよ。俺は茂松さんの事情、詳しく知らないし」
さっきまでいがみ合っていたことが嘘のように、二人は以前のように先輩後輩の空気で言葉を交わす。
だよな、と含み笑いすらして返答しながら、茂松は野田に背を向けるようにして立ち上がった。
おもむろにコートのポケットから煙草を取り出し、火を点ける茂松。駅の駐輪場内は禁煙だと注意しようかとも思ったが、何もかもどうでもよくなった野田は口を挟まずに、壁により掛かったまま座り込んだ。
悠然と吐いた煙をぼんやりと眺めながら、茂松が口を開く。
「……まだわかんねーんだよ、俺」
独り言ともとれる茂松の呟きに、野田は首をもたげて彼の背中を見上げる。
「この際だから本音言うとさ、誰かを好きになるって感覚、よくわかんねーんだわ。お前みたいにさ、心からなっちゃんを好きだってクソ真面目に言える奴が、正直羨ましいって思った。すげーなって、尊敬すらしたわ。悔しいけど」
「…自分だけが、菜々の彼氏になったって知ってからも?」
「まあな。俺もさっきのなっちゃんの話聞いてて、変だとは思ってたよ。ネット彼氏の話はどこいったんだって。それが蓋を開けてみたら、そいつの正体が現実の彼氏でもあった裕太だったとはな」
「豊島さんが、よっしーだったんすね」
間の抜けた名前の響きに思わず声を漏らして笑いながら、茂松は懐かしむように言う。
「それ、学生の頃に俺が裕太につけたあだ名でさ。だせーからそれで呼ぶなって言われて、仕方なく下の名前で呼ぶようになったけど、ゲームやる時はそれ使うんだよあいつ。なんだかんだ気に入ってんじゃねーかってからかうたびに、別にいいだろって毎度毎度ふてくされてさ」
そこからまだ話が続くと見込んでいた野田の予想とは裏腹に、茂松は言葉を切ってほんの少しの沈黙を置いた。
再び吸い込んだ煙を吐き出しきってから、脱線しかけた本題に戻る。
「現実の彼氏でありネット彼氏でもある裕太にフラれたから、彼氏は俺だけになった。なっちゃんが言いたかったのはそういうことだ。どっちがネット彼氏なのか知らなかったお前は、俺がネット彼氏だって可能性も想定していて、ネットでも現実でもなっちゃんの彼氏になった。そう思ってたんだろ?」
「…さすがっすね。あれだけ熱くなりながら、そこまで推理してたんすか」
「だがな、なっちゃんに手ぇあげたのは論外だ。あれだけなっちゃんが必死で隠そうとしたことをあっさりバラしたのも許せなかった。さっきの一発は、それの仕返しだ」
「倍返しどころじゃなかったっすけどね」
「あたりめーだ。裕太に散々止められた分も全部上乗せしてやったんだからよ」
殴られた衝撃で口の中を切った野田は、血の味が広がる口を歪めて苦笑いする。
「ま、どのみちなっちゃんが選んだのは裕太だ。俺は自分の気持ち確かめる必要もなくなったわけだし、おとなしく二人の吉報を待つことにするわ。ここでお前を監視しながらな、逃げねーように」
「逃げませんよ。茂松さんじゃあるまいし」
「俺だってもう逃げたりしねーよ。裕太からも釘刺されたし」
「気持ち確かめないままにするのは、逃げじゃないんすか?」
「揚げ足取るんじゃねえ」
吐き捨てるように文句を言いながら、茂松は吸い減らした吸い殻の始末を思案し始める。
茂松の思惑を察した野田は、自身の胸ポケットに煙草と一緒にしまってあった携帯灰皿を取り出す。
「ありますよ、灰皿」
「…わりーな」
野田の気遣いを素直に受け入れながら、茂松は彼を振り返って屈み、差し出された灰皿に火種の尽きた吸い殻を落とす。
一連の茂松の動作に彼の手元を見るわけでもなく、その顔を不思議そうに見ていた野田に気づき、茂松は咄嗟に眼鏡を直すふりをしてその視線から顔を背けた。
「…なんだよ。まだ何か文句あんのか」
「いえ……茂松さん、本当に自分の気持ち、まだわかってないんですか」
「んな小っ恥ずかしーこと何度も言わせんな。わかってねーっての」
「でも…」
言葉を続けようとした野田を、突如駐輪場内に響き渡ったメロディが遮る。
音のする方へ二人が視線を向けると、傍らに停められていた自転車の陰に、小さなバッグがあった。すぐにそれが菜々のものであると、見覚えのある二人は気づく。
バッグの中から漏れ聞こえるメロディに何かを感じた茂松が、歩み寄ってそれを手に取り、心の中で菜々に断りを入れながら開いて中を覗く。
「この歌…」
茂松が菜々のスマホを取り出したことにより、音量を増したメロディに野田はようやく気がつく。
聞き覚えのあるその歌は、豊島からの着信を知らせていた。
「……まだ、見つかってないみたいですね」
あてもなく菜々を探していて埒があかなくなった豊島が、やむなく彼女に電話を掛けて連絡を取ろうとしている。二人はそう推測した。
だが、野田と同じことを考えていた旨も、他の何の返事も返さずに黙り込んだままの茂松を、野田は訝しむ。
背を向けていて表情の読めない茂松に呼びかけようとした野田をよそに、茂松は菜々のスマホを持った腕を下ろして野田に問いかける。
「野田。なっちゃんの電話の着信音って、全部この歌か?」
「えっ…いや、今はどうか知らないすけど、前までは別のケイナの歌で設定してましたよ。俺とか、友達の着信なんかは、個別に設定してたみたいですけど」
「じゃあ、裕太の着信に設定してるのが、この歌か」
「わかんないすよ。デフォルトの着信設定を全部この歌に設定し直したってことも」
「それはない。たぶんだけどな」
「なんでですか?この歌って確か、カラオケでいつも茂松さんが菜々に歌わせてた歌っすよね」
記憶を確かめる野田の問いかけに答えず、茂松は自分のスマホを取り出して画面を開く。
豊島と二人で話していた時に確認していた、今日のカラオケで菜々に歌わせるつもりでいたセットリストが表示される。
曲目の最後を見つめながら、茂松は野田に尋ねた。
「お前、この歌に都市伝説があるって、知ってたか?」
「都市伝説?」
知らない口ぶりを確かめ、茂松は続ける。
「掲示板レベルの嘘くせー噂だよ。この手の告白ソングにありがちな、歌で恋が実る的な、そんな話」
「ああ、ありそうっすね」
「そういうの俺、信じねータイプだから。噂は知ってたけど、何せこの通り名曲だろ?だから毎回リクエストしてたんだよ」
「…菜々がそれを歌うのを聴きたくて、ですか」
彼が明かす話の中で、野田は次第に茂松の想いの核心に近づいていった。
ふっと息を漏らし、すでに音の鳴り止んだ菜々のスマホをバッグの中にそっと戻しながら、茂松は呟く。
「……もう、歌わせねーよ」
俺がいるときは。あえてその言葉を伏せながら、茂松は再び自身のスマホに目を落とす。
三人で決めた、三人だけのカラオケで催されるはずだった、菜々のミニライブのセットリスト。
リストをメモしたスマホの持ち主である茂松は、密かにもう一曲加えていた。
二人に内緒で、アンコールと称して、菜々に歌わせようと思っていた。
「なっちゃん、あの頃よりもケイナ様の歌うまくなってたからさ。またこの歌を歌ってくれるの、俺すげー楽しみにしてたんだよ。でも裕太に止められてさ。なっちゃんが気にするからって」
「その手の都市伝説は気にする方ですよ、菜々は」
「やっぱな。裕太に止められたときは俺、都市伝説なんて知りもしねー素振り見せたんだ。そうやって隠そうとした時点で、俺もどっかで気にしてたのかね」
「かも知れませんね」
「もっかい聴きたかったなー、なっちゃんがこれ歌うの」
「……だから、ですか?」
「あ?何が」
「だから…………泣いてるんすか」
いつもの自分を装っていた茂松の強がりが、野田の一言をきっかけに目から伝い落ちる。
涙が溢れてくる理由が、茂松にはわからなかった。それを拭う仕草を見られたくなくて、野田に背を向けていた。
それでも情けない自分の姿を見抜かれた悔しさに、茂松は唇を噛む。
「…………泣いてねーし」
「……そうですか」
恒例の自分の口癖を真似されるかと身構えていた茂松は、見事に肩すかしを食らった。
思わず乾いた笑いを漏らしながら、吹っ切れたように上を向く。
「寂しいんじゃねーかな、たぶん」
「…寂しい?」
「ああ。俺が泣くとしたら、理由はそれくらいだ」
泣いたことは、認めた。
この場で確かめた自分の気持ちも、素直に明かした。
茂松は豊島に宣言した通り――逃げなかった。
「裕太と、なっちゃん。二人がいっぺんに俺から離れてったのが、寂しいんだよ」
天井を見上げたまま目を閉じて、茂松はスマホのキーに合わせた指を数回叩く。
彼が略称で付け加えた四文字の曲名は、セットリストから消された。




