7/10 純粋な想いをぶつけ合える二人
「菜々ちゃんの言う通りだ。殴ったくらいで野田が改心するわけがない。こいつが今までしてきたことを許すかどうか、どう責任をとらせるか、決めるのは菜々ちゃんだ」
一触即発の二人に向けて、豊島は冷静に告げる。
落ち着き払ってみせながらも、彼は野田を見据える視線を少しも逸らさず、頬を歪めて口元に自嘲を浮かべる。
「…俺だって必死で感情堪えてんだよ。野田に殴りかからないように」
菜々に遮られた、茂松へぶつけるつもりでいた苛立ちを絞り出す。
秘めていた豊島の思いに、見失いかけていた茂松の理性が、自身の衝動を抑えようと働きかける。
重く静まりかえる駐輪場の一角。この沈黙を破るためにどう言葉を切り出すか、誰から切り出すか、かなりの間を置いて四人は無言で牽制し合った。
「…………勝手なことばかり言ってくれますね。みんなして」
静かに含み笑いをしながらおもむろに口を開いたのは、彼らの中心にいた菜々だった。三人の男に見守られながら、彼女はゆっくりとその場で立ち上がる。
そして、覚悟を決めた目で力強く野田を見据えた。
「あんたもどうせ、あたしに勝手なこと押しつけるつもりだったんでしょ」
野田を殴るか殴らせるか選択を迫った茂松。
野田を許すか許さないか判断を迫った豊島。
二人は菜々に勝手を押しつける発言をしたが、肝心の野田は菜々に対して何も明かしていない。
自分の意思を、こういう状況を生んだ思惑を、彼はまだ明かしていない。
「用があるならさっさと済ませてよ。あたしたちまだ、デートの途中なんだから」
「…本気で言ってるのか」
「本気よ。あたしは二人の彼女になったの。…ま、豊島さんには、フラれちゃったけど」
一瞬だけ自嘲気味に笑ったが、菜々はすぐに真顔に戻った。
二人の彼女に。同じことを茂松から聞かされた時は、野田は半信半疑だった。
だが、菜々の口から直接その事実を告げられ、愕然とした。
わざわざ野田に伝える必要はないと茂松が隠していた事実まで付け足され、黙って彼女の言葉に耳を傾けて目を伏せる二人を、野田は交互に見張る。
「だから今の彼氏は、カナちゃんさんだけ。これで満足?」
野田に対する問いかけに、三人全員が菜々に目を見張らせた。
菜々が今、どういう状況なのか。恋人はいるのか。それを聞き出そうとして、菜々を追いかけてきた。菜々は野田の思惑をそう推測して答えたのだ。
だが菜々の言葉は、三人に新たな疑問を植え付けた。
疑問を抱かれることを承知の上で口にした菜々は、疎ましげに目を細めながらもう一つの推論を口にする。
「…それともまさか、あたしとヨリを戻す気でいたんじゃ、ないでしょうね」
菜々にとってあまり言葉にしたくなかったその質問に、豊島と茂松は目を丸くする。
茂松は咄嗟に目の前の野田を凝視した。野田は伏せた目を誰とも合わせようとせず、きつく結んだ唇をかすかに震わせ、黙り込んでいる。
その反応を目の当たりにして、野田の胸ぐらを押さえる茂松の手に力がこもる。
「……図星かよ」
自然と口から漏れた茂松の問いかけにも、野田は沈黙した。
この状況下での沈黙は、あからさまな肯定に等しい。
「てめえ…!」
感情を押しとどめていた理性が再び利かなくなり、茂松は壁から背を浮かせていた野田の体を力任せに壁に叩き付けた。派手な音が駐輪場内に響き渡り、背中に走る激痛に野田が顔をしかめる。
見かねた豊島が菜々の前に出て駆け寄ろうとしたのを視界に捉え、茂松は声を張り上げてそれを制す。
「止めんじゃねーぞ裕太!」
「話を聞けシゲ!これは菜々ちゃんたちの問題だ!」
見開いた目で懸命に野田を睨み付けながら、茂松は野田を押さえつける力を緩めることなく、歯を食いしばって必死に理性を働かせる。
茂松を咎めた豊島でさえ、気持ちだけは彼と同じだった。
浮気をして、一方的に離婚を迫った野田が、懲りもせず復縁を迫るつもりで菜々の前に現れた。他の誰よりも菜々を理解していると豪語したこの男は、本当に彼女の気持ちまで理解して行動しているのだろうか。
何も信用できない野田を睨み据え、豊島と茂松はもはや溢れ続ける怒りに耐えるしかなかった。
肩を震わせながら耐え忍ぶ二人を神妙な目で見つめ、菜々は二人の怒りを野田に向かって代弁する。
「最低ね、あんた。自分がやろうとしてること、本気でわかってるの?あんたによくお似合いのメンヘラババアとはどうなったのよ」
菜々の口から出たとは思えない口汚い呼称に、豊島と茂松は即座に野田の彼女のことだと悟る。実際にその女を間近で見た茂松に至っては、菜々もその彼女に対して同じ印象を抱いていたことを同時に知る。
責め立てる三人の視線から顔を逸らし、野田は重い沈黙を破って吐き捨てるように言う。
「……別れたよ」
悲痛に声を震わせる野田に対し、菜々は嘲るように鼻で笑った。
「どうせ捨てられたんでしょ。今度はあの女が別の男と浮気したとか?有り得そうよね、風俗嬢なんてやってれば。あのルックスでちゃんと客とってるかどうか怪しいもんだけど」
「…違う。勝手なことばっか言ってんじゃねえ」
「何が違うってのよ。風俗嬢なのは事実なんでしょ。風俗ですらろくに稼げないのに、金のないあんたを彼氏にしてもどうにもならないから、金づる探そうとようやくあんたを切ったってわけね」
「そうじゃなくて…」
「じゃあ何よ。あたしに払う慰謝料を立て替えさせようとして、向こうがキレて喧嘩別れでもしたの?結局慰謝料振り込んだのは最初の一回だけだったじゃない。あの女に断られてごたごたしてて、それどころじゃなかったのね。元妻のよしみで、少しだけ同情してあげる」
「だから違うっつの。こっちの話を聞け菜々」
一方的な言葉責めに業を煮やして制した野田に、菜々は侮蔑の視線を送りながら口をつぐむ。
「…別れを切り出したのは俺だ。俺の勝手な都合で、別れて欲しいって言ったんだ」
「都合って何よ」
「お前のことがやっぱり心配なんだ。お前ともう一度やり直したい」
「離婚までしておいて、今さら心配掛けられてもこっちが迷惑よ」
「なあ菜々。お前、自分から茂松さんたちの彼女になったんだってな、仮の。仮ってのは、茂松さんたちから本気で好きになってもらえるか、自信がないから仮なんだろ?」
「そんなの…部外者のあんたに言えない」
「部外者じゃない。俺はお前の元旦那だ。お前のことが、まだ好きで好きで仕方ないんだ」
「……」
「俺は確実に…お前を愛してやれる」
沈黙する元夫婦の傍らで、豊島と茂松は野田の言葉を耳にしたことで、改めて深く考えさせられる。
野田のことは死ぬほど憎いが、自分は野田のように純粋に気持ちを伝えることはできるだろうか、と。
誰かをここまで愛せるだろうか、と。
「…絶対に嫌」
野田が愛した彼女は、低い声で純粋な拒絶を口にする。
「あんたがあたしをどう思っていようと知ったこっちゃない。あたしは死ぬほどあんたが嫌いだし、さっき抱きつかれた時なんて嫌すぎて吐きそうだった。もう生理的に無理なんだってことも、さっきのあんたの行動で心の底から思い知らされた」
「菜々…」
「あんたと復縁するくらいなら、死んだ方がまだマシよ」
湯水のように菜々の口から溢れ出す拒絶の意思に、野田は呆然と彼女を見つめた。全身の力が抜け、茂松の胸ぐらを掴んでいた腕をだらりと下ろす。
当然の結果だ。抜け殻同然の彼の姿を冷めた目で見据えながら内心で呟いた豊島と茂松は、少しずつ怒りを静めていった。
だが、それでも菜々は彼を許さない。
「何もかも終わりみたいな顔して、それで済むと思わないで。あんたの勝手な自己完結でこの場を終わらせないで。あたしはともかく、関係のないカナちゃんさんと豊島さんを巻き込んだことを謝ってよ」
淡々と命じる菜々の言葉は、もう野田の耳には届かない。
何も反応を示さない野田にしびれを切らした菜々は、彼を押さえる茂松の存在さえ全く意に介さず、二人との距離を詰める。
「…黙ってないで、ちゃんと謝れって言ってんの」
一歩近づけば触れられる距離で立ち止まる菜々に、野田は何も返せない。
だんまりを決め込むことで菜々から逃れようとする野田に、茂松は苛立ちを覚えて再び両手に力を込める。
これ以上責めても無駄だと菜々の怒りをなだめようとして、豊島は口を開き掛けた。
「謝れっつってんだろうが!!」
声を振り絞って怒号をあげたのは、菜々だった。




