3/8 相談相手という立場
* * *
「――野田ってさ、本当になっちゃんと結婚すんのかな」
「……あ?」
唐突な質問に、煙草の煙を吐いた口の形のまま、豊島は横で座り込んでいる同僚へ顔を向ける。
火の点いた煙草と缶コーヒーを持つ手を前方に投げ出し、その少し先をぼんやり見つめながら、茂松は繰り返して言う。
「野田って本当になっちゃんと結婚する気あるのかなーって」
「あるんだろ。婚約したって、二人して言ってたじゃん」
他人事のように言う豊島の返答を受けても、茂松はどこか釈然としない様子で、もはや睨んでいるようにも見てとれる視線を前方に投げ続けた。
そう広くはない喫煙室。入り口から見て奥の壁際に、豊島と茂松。中央の灰皿を挟んで、反対の壁際に――茂松が見つめている視線の先に、野田と菜々。
喫煙者の四人が煙草休憩に訪れる時は、そこが彼らの定位置だった。
今ここにいるのはそのうちの二人だけで、煙草のヤニで薄汚れた反対側の壁には誰もいない。野田は仕事で県外へ短期赴任中。そして菜々は、今日から退社日まで有休消化に入っており、この喫煙室を訪れることはもう無い。
「菜々ちゃんさ、有休中ずっと赴任先の野田のアパート行って、野田の世話してやるつもりなんだって」
「何それ羨ましい」
「同棲の予行練習らしいよ。花嫁修業って言うの?」
「いいねえ若いもんは…」
黄昏れた顔で煙を吸い込み、首だけ後ろに傾けて溜め息とともに虚空へ吐き出す茂松。
そんな物憂げな様子の茂松を見下ろしながら、豊島は胸中に湧いた疑問を正直に投げかける。
「羨ましいって、野田が?」
「そりゃそうだろ」
「なんで?」
「なんでって、身の回りの世話してくれるんだろ?仕事で疲れ切って帰った家に、可愛い未来の奥さんがご飯作って迎えてくれる。男の夢じゃん」
「可愛い、ねえ…」
茂松が含みのある言い方をする豊島を見上げると、彼の目はもう茂松を見ておらず、向かいの壁を見つめながら煙草に口をつけている。その横顔は、茂松から見るとどこか呆れているように見えた。
「…なんだよ裕太。言いたいことあるならはっきり言えよ」
普段から豊島を下の名前で呼ぶ茂松の不機嫌そうな言葉に対し、あからさまに呆れを露わにして、豊島はわざとらしく溜め息をついた。
「お前さ、可愛い未来の奥さんがいる野田が羨ましいのか、菜々ちゃんに慕われてる野田が羨ましいのか、どっちなんだ?」
核心を突いた豊島の質問は思いのほか効いたらしく、不機嫌に歪ませていた茂松の眼鏡の奥の目つきが変わる。
茂松の本心は、学生時代から付き合いを重ねている豊島でさえ、詳細に窺い知ることはできない。だが豊島の一言で変化した彼の真剣な眼差しに、彼が豊島の意図を理解したことが見て取れた。
煙草の臭いが充満する小部屋を、二人の沈黙が支配する。茂松は突きつけられた問題への回答を模索し、豊島はその答えを黙って待った。
やがて茂松は観念したように頭を垂れ、か細い声で返す。
「……未練とか、ねーから」
端から聞くと回答として支離滅裂な返事だったが、茂松の事情を把握している豊島にとっては、充分な答えだった。
俯いたままの茂松を尻目に、豊島は自然消火した煙草を灰皿に放った。もう一度わざとらしい溜め息を聞かせてやろうかと深く息を吸い込んだが、突如訪れた衝動に任せて声を張る。
「ツンデレ乙!」
「はあ!?」
素っ頓狂な声を上げて奇行者を凝視する茂松。なかなかのアホ面を見せていることに気づかない愚者をドヤ顔で見下ろす豊島。
「おまっ、人が珍しく真面目に…!」
「真面目は仕事で見せてくれ。そろそろ戻らねーと部長怒るぞ」
「おい裕太っ!」
「煙草消せ。床に落ちた灰片付けろ。掃除のおばちゃんも怒るぞ。お先に」
要点だけを述べて、豊島は喫煙室を出る。後ろ手でドアを閉めて、まだ背後でやいやい文句を放つ声を遮断した。
何度目かわからない溜め息をつきながら、自分の部署へ歩を進める。仕事を再開する気怠さもあったが、休憩時間で余計な気力を消耗してしまっていた。
喫煙室から自分のデスクまでの短い距離を歩く間、豊島は様々なことを思い返していた。
野田と菜々について。
そして――茂松と菜々について。
『あたし…カナちゃんさんのこと……好き……に、なった、みたいで…』
たどたどしい言葉で菜々が豊島に相談を持ちかけてきたのは、彼女が入社して数ヶ月のことだった。
内気な彼女の勇気ある告白に感心しつつ、豊島としては彼女の力になれる自信など全くなかったが、話を聞くだけならと彼女の相談に乗ることにした。
片思いの悩み。相手の自分に対する想い。告白の仕方。
恋愛相談なんて、それらの対処法を抑えておいて、相談相手にうまく伝えて、ただ勇気づけてやればいい。
だが――彼女のケースは、事情が違いすぎた。
『でも、この前、野田さんに……その…………告白、されちゃって…』
下を向いて、今にも泣き出しそうな声で明かした菜々の言葉を、衝撃のあまり絶句したまま頭の中で反芻したその時の絶望感を、豊島は今でも忘れられないでいる。
茂松に想いを寄せる菜々が、野田に告白された。
三角関係なんて、ドラマか何かでしか起こりえないことだと、その時までの豊島は思い込んでいた。
だが渦中の中心にいる菜々の深刻に悩む姿が、豊島に現実を突きつけた。
戸惑いに満ちた感情がいつ爆発して泣き出してもおかしくない彼女を相手に、慎重かつ必死に豊島も悩んだ。
だが相談相手なんて、当事者達からすれば、ただの部外者だ。
『野田さんと、付き合うことになりました…』
何一つまともな助言をしてやれなかった豊島に向かって、菜々は落ち着いた様子でそう報告した。
それまで菜々のことを散々心配してくれた豊島を、安心させようとしているかのような笑顔で。
その笑顔を直視することが、豊島にはできなかった。
力になれなかった己の不甲斐なさのせいではなく。自分と彼女が望まない結果に終わった事への落胆からでもなく。
周囲からはよく勘の鈍さを指摘されがちな豊島だったが、そんな彼でさえ、菜々がその悲しい笑顔の裏に隠そうとしたものを、はっきりと見抜いてしまった。
菜々は――茂松への想いを断ち切れていない。
菜々が茂松に想いを伝えるきっかけを作ったのは、他でもない野田だった。
たまたま二人きりになった機会を狙って、本人の口からそれを知った豊島は、何の思惑があったのか、違う結果になっていたらどうするつもりだったのか、思いつくままに野田に尋ねた。
茂松と同等か、それ以上に軽薄な印象を受ける男だと豊島は認識していたが、野田が返す言葉の一つ一つは、豊島の想像以上に真剣味を帯びていた。
本気で菜々のことを好きになった。恥じらい隠す素振りを一切見せず、野田はその想いを強調して豊島に応えた。
好きだから当然付き合いたい。でも好きな人の気持ちも――菜々が茂松を想う気持ちも尊重してやりたい。出来ることなら茂松の気持ちを確かめて、出来るだけ菜々の望む形にしてやりたい。
並々ならぬ覚悟を決めて、野田は菜々と二人きりになる機会を設け、正直にそれを伝えたという。想いを出し切った野田の言葉を受け止めた菜々は、長い長い沈黙の後にこう答えたそうだ。
『あたし……カナちゃんさんに告白してみます』
菜々にとって相当な勇気を要する行為を宣言され、無理はしなくていいと野田はなだめたらしい。
『もしカナちゃんさんも、あたしのこと好きって言ってくれたら、あたしはカナちゃんさんと付き合います。でももし…駄目だった時は、野田さんと付き合います』
彼女が固めた重すぎる決意は、自分を見つめ返す真剣な眼差しから痛いほどに伝わってきた、と野田は言った。
『……それで、納得してもらえませんか?野田さん』
つまり茂松は、菜々の気持ちを受け入れなかった。
それを知った豊島は、茂松本人を相手に語気を強めて真相を問いただすことを、我慢することができなかった。
普段の彼を知る身としては想像もつかなかった豊島の気迫に戸惑いながらも、茂松は菜々を拒んだ理由を次々と放った。
会社の後輩を彼女として見れない。10歳の年の差に抵抗がある。彼女の想いに応えてやれるだけの自信なんて無い。
渾身の言い分をぶつけられた程度で簡単に腑に落ちるはずもなかったが、豊島はやりきれない思いを抱えたまま茂松を責めるのを諦めた。
この時の茂松のことを豊島は未だに許せないでいるが、その後何事もなかったかのように普段通りに言葉を交わせている茂松と菜々の姿を見た時は、かなり安堵したのと同時に二人の切り替えの早さに驚いたのだった。
だが、一度起こってしまった二人の間の出来事は、二人の記憶に確実に刻まれている。そのことを意識するようになった豊島は、一歩引いた立場から二人を見守り、彼らがその記憶を思い起こすことのないよう極力努めてきた。
『カナちゃんさんは、何も悪くないです』
四人の間で起こった様々な出来事がようやく収束した頃、喫煙室で偶然豊島と二人きりになったのを見計らって、菜々は茂松のことを静かに語り始めた。
『なっちゃんから見たら俺なんておじさんだし、もっと若い男と恋愛しなよ。野田なんかどう?2コ上っしょ?…ですって』
告白した本人の口から聞かされるその時の詳細な言葉は、未だに強がりを纏ってごまかす菜々の姿を余計に痛々しく見せた。
菜々の事情を知らなかったとはいえ、茂松は彼女に最も使ってはならない名前を使って、彼女の告白から逃げたのだ。
収まりを見せていた憤りが再び湧きあがりつつあったが、失恋したばかりの頃よりもだいぶ吹っ切れた様子の菜々を見て、豊島はなんとか冷静さを保った。
『それに、何回も何回も『ごめん』って言われました。そんなに謝られたら、逆にこっちが悪いような気がしてきちゃって、思わず泣いちゃうとこでしたよ』
困ったように笑って見せる彼女。
その若さに不釣り合いな状況を強いられ、悩んで、耐えて、決断して、受け入れた。
その様子のほぼ一部始終を見届けてきた豊島は、普段はあまり周囲に見せない彼女の強さを、誰よりも思い知らされた。
何より彼女は、その険しすぎる道のりの中で、誰にも涙を見せることはなかったのだ。
ただ一度だけ――豊島にだけ見せた涙を除けば。