6/10 収まりのつかない感情を堪えて
「落ち着けシゲ!野田も煽るような真似はやめろ!」
今度こそ二人を咎める豊島の言葉に、茂松と野田は血が滲みそうなほど唇を噛み締めて互いを睨み付ける。
支えた菜々の肩が上下するのを全身で感じながら、豊島は無言で睨み合う二人を冷静に見据えた。
「…野田。何故、菜々ちゃんを追いかけたりしたんだ。この子をこんな目に遭わせてまで、伝えたいことでもあったのか」
「……ええ。大事な話があったんすけどね」
「残念だったな。なっちゃんの意識が戻る前にお前を半殺しにして、二度と口開けねーようにしてやるわ」
「上等っすよ。俺だって今まであんたを殴り飛ばしたくて仕方なかった。あんたから先に手を出したって豊島さんに証明してもらえれば、堂々と殴れる」
「こんの…クソガキがあ!」
「落ち着けってんだよ!」
野田までもが茂松の胸ぐらに掴み掛かり、いがみ合う二人を豊島が声を張り上げて制す。
幾度も豊島に阻まれようとも、腑に落ちるはずがない茂松は懸命に落ち着き払いながら野田に問いかける。
「…説明しろ。そもそも、なんであんな所にいたんだ。まさかずっとなっちゃんを探し回ってたわけじゃね―よな」
「…たまたまっすよ。俺だってあんな所で菜々と鉢合わせるなんて思ってなかった」
「どうだかな」
「別に信じてもらえなくていいっす。それこそ茂松さん達だって、なんで俺らを追いかけてきたんすか。たまたま通りかかったわけじゃないっすよね」
怪しむように目を細めて尋ね返す野田に、茂松は不敵に笑ってみせる。
「悪いな。俺らはなっちゃんの先約だ。三人でデートしてる最中だったんだよ」
三人で、と言い切った茂松の言葉に、野田は眉をひそめる。そしてその口から息を漏らすように吹き出し、喉奥でくつくつと笑いながら口を開く。
「…茂松さん。俺の望み通りにはならないって言ってたじゃないすか」
「俺らはお前が考えてるような彼氏彼女の関係じゃねえ。なっちゃんが三人でいることを望んだから、それに付き合ってるだけだ」
そして、本来の彼氏彼女の関係になるかを決めるのは、茂松だ。豊島は内心でそう付け加え、神妙な面持ちで二人を見据える。
淡々と答える茂松の言葉を聞きながら、野田はその途中から卑屈な笑みを消した。
「…菜々が、望んだ?」
「そうだ。お前はなっちゃんが、自分の支えになってもらうために俺らを選ぶことはないと言い切った。でも俺らの彼女になってやるって言い出して、仮の恋人みたいな関係で付き合うことになったのは、全部なっちゃんの意思で決めたことなんだよ」
「仮の、恋人…」
口の中でその言葉を転がした野田は、目を伏せて茂松から視線を逸らし、深く思案し始めた。
互いの胸ぐらを掴み合ったまま対峙する二人がどうにか落ち着きを見せ、豊島はその機を狙って慎重に野田に問いかける。
「野田。お前は俺ら以外に、他の誰かが菜々ちゃんの支えに相応しいようなことをシゲに言ったらしいな」
「…ええ」
「そいつのこと、お前は何か知ってるのか」
問いかけた豊島を一瞥し、野田は即座に答えようと口を開き掛けた。が、言葉が出かかった途中でそれを躊躇い、目を泳がせる。
野田の様子を豊島は訝しんだが、それを目の前で見ていてピンと来た茂松が、彼の意図を代弁した。
「…そいつが、なっちゃんの本命の男か」
思わず豊島は茂松に目を見張らせる。即座にそれを否定しない野田の沈黙に、彼が茂松の推論を認めたことを二人は確信した。
「…断言はできませんけどね。そいつと菜々は、俺らが結婚して間もない頃に知り合った。おそらく、顔も知らない相手でしょうけど」
「顔も知らない、って…まさか」
「ネット交際ですよ。菜々はネトゲで知り合った男にかなり入れ込んでいた。現実の旦那だった俺なんかよりも」
自嘲気味に笑う野田の告白に、豊島と茂松は菜々が口にしていたことを思い出していた。
豊島と茂松の他に、三人目の彼氏がいること。その男とはネット上でだけ交流をしている、ネット彼氏であると。
菜々はその男との交流について、終始「ネット」という言葉で統一して二人に聞かせた。SNSかチャットか、そういった媒体で交流しているとしか二人は想定していなかった。
だが野田は「ネトゲ」と限定した。ある男に馴染みの深いその単語に、二人は極めて可能性の低い仮説に至る。
(…………Liz)
脳裏にちらついたその名前を、豊島は咄嗟に振り払おうとした。
豊島とも交流があるLizが、菜々に縁のある人物であること。それは限りなくゼロに近い可能性だ。菜々が豊島とまったく同じネトゲをしているとは限らないし、仮にそうだとして、何十万単位の利用者がいるオンラインゲーム内の限られた一人と、現実にいる身近な誰かが自分と簡単に結びつくような狭い世界ではない。
その前提を抜きにして考えられる可能性は、二通りあった。
一つは、菜々のネット彼氏がLizである可能性。豊島が彼に相談していた相手――つまり菜々が、豊島の他にLizがゲーム内で交流しているユーザーだったとしたら。その事実にLizが気づいているかを差し置いても、Lizと豊島に交流があることを知らずに、菜々がLizをネット彼氏と呼んでいることもありえなくはない。
もう一つは、Lizの正体が――
(ありえない。それだけは絶対に)
胸中で仮説を立てることすら拒み、豊島はその可能性を懸命に思考から追い出す。
そうであるはずがない。何かの間違いでその予想が的中してしまえば、何もかもが覆される。
それだけの影響を豊島と茂松に及ぼしてきたLizの存在は、菜々のネット彼氏問題、ひいては菜々自身に対しても、関わる可能性を残すべきではない。
とにかくその可能性を確実に消すことが先決だと、意を決して豊島が口を開く。
「…そいつの名前、知ってるのか」
「ええ。そいつと遊んだことを菜々が楽しげに俺に報告してきたこともありますし」
「まさかとは思うが、そいつ…」
「――う…」
Lizの名を出そうとした豊島の腕の中で、菜々が小さく呻き声を上げた。
はっとなって豊島は言葉を引っ込め、目蓋をひくつかせて目を開けようとする菜々の顔を覗き込む。
「菜々ちゃん!気がついたか!」
「………豊島、さん?」
安堵の声を上げた豊島を虚ろな目で見つめる菜々は、呼吸も言葉もすっかり普段通りに戻っていた。
意識の戻った彼女を見て、三人は胸をなで下ろした。
そんな三人の安堵もつかの間、ぼんやりと豊島を見つめ返していた菜々の目が急に見開かれる。
「いやっ…!」
小さく悲鳴を上げ、菜々は豊島から跳ね退いた。不意の彼女の動作に驚いた豊島は、前屈みになってうずくまる菜々の背中を呆然と見つめる。
あからさまな拒絶。それを意味する彼女の行動に、豊島の身が凍り付いた。
傍らでその流れを見ていた二人のうち、野田が苦笑を浮かべながら見下ろす先の菜々に声を投げかける。
「…その態度はないんじゃないか、菜々。俺から守ってもらった恩人に対してさ」
皮肉めいた言葉に菜々は勢いよく顔を上げ、茂松と対峙している野田を睨み上げた。
憎しみと、怯え。それらがこもった菜々の強い眼差しを受け、野田は肩をすくめながら言う。
「安心しろ。もうお前に手出しはしない。したくても、変な動きを見せたらいつ茂松さんに殴り飛ばされるか、わかんねーしな」
「…こいつの言う通りだ、なっちゃん。身動き一つさせるつもりねーからよ」
「カナちゃんさん…」
再び互いに憎悪を込めて睨み合う二人を、菜々は不安そうに見つめる。
意識が戻るまで菜々を気遣うことを優先していた豊島は立ち上がり、身軽になった体を二人に向け直してわずかに身構える。二人の間に張り詰めた険悪な空気が、菜々の目の前で争いを起こすことのないように。
二人の殴り合いを阻止する姿勢を見せる豊島を視界の隅に捉えた茂松は、野田を見据えながら傍らの菜々に言い放つ。
「もしなっちゃんが野田を殴りたかったら、俺が押さえつけててやるから」
「えっ…」
「今までの恨みつらみ晴らせる、いい機会だぞ。殴るのが嫌なら、俺が代わりに殴る。たとえ裕太が止めに入っても、なっちゃんの気が済むまで殴ってやる」
「殴る殴るって…そこまで熱くなる人でしたっけ、茂松さんって」
二人の間に割って入る野田の強気な発言を、茂松は悠然と鼻で笑い飛ばす。
「俺はもともと自分の感情に素直なんだよ。常に冷静な裕太が傍にいてくれるおかげで、どれだけムカついた時も感情を暴走させずに振る舞ってこられた」
「だから甘やかされてるって言われるんすよ、菜々に」
「それくらい知ってる。でもな、今回ばかりはもう我慢ならねーよ。なっちゃんさえ許してくれたら、誰に止められようとも俺は理性捨ててお前をぶん殴るからな」
自身をぞんざいな言い草で扱う茂松に、豊島は苛立った。その苛立ちを茂松にぶつけるつもりで豊島が口を開くより先に、菜々が落ち着いた声で呟く。
「…殴る必要ないです、カナちゃんさん」
静かに場を制した菜々が、三人の目に見据えられる。
「こんな男、殴る価値もないですよ。どうせろくに反省も改心もしないでしょうし、カナちゃんさんが手を煩わせるだけ無駄。たとえ死ぬまで殴ってもらっても、あたしの気が済んだりなんかしません」
「菜々…」
複雑な心境で呼びかける野田を見上げ、菜々は冷めた目で言い放つ。
「殴られずに済んだからって、勘違いしないでよね。殴られるあんたを哀れんで、同情して言った訳じゃないんだから」
「……ツンデレ、乙」
わざと反感を買うように、野田は茂松に視線を戻しながら彼の口真似をしてみせる。
野田の冷やかしは、絶妙に茂松の怒りを誘った。
「…黙れ、クズが」
声がしたのは、菜々の少し後方からだった。菜々は目を見開いて、声の主である豊島を振り返る。
強い憎しみを込めた目で、豊島は野田を睨んでいる。静観を決め込んでいた彼の鋭い視線に、野田も茂松も圧倒される。
豊島の怒りも、限界に達していた。




