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5/10 最悪の再会





(なんで…こんな日に、限って…)



 まばらに停められている自転車の陰に身を隠し、菜々は走り疲れた息を整えようとその場に座り込んだ。駅の駐輪場の出入り口から最も離れた場所に置き去りにされた一台の自転車の隙間から、追っ手が来ないか今来た出入り口に目を見張らせる。


 さっきまで三人でいた駅は、菜々が逃げ出した歩道橋のすぐ近くにあった。カラオケ屋と駅との距離も歩いて数分ほどしかなかったため、時間潰しのために三人はぐるりと迂回するルートを選んで、目的地に向かうつもりでいた。


 歩道橋は駅とカラオケ屋を結ぶ分岐点にあった。逃げ道を探した菜々は、冬期は滅多に利用者のないプレハブ式の駅の駐輪場なら身を隠せると判断し、逃げる過程で通行人の多い駅周辺を通ってきたことで、うまく追っ手から逃れた。


 だが、それでも菜々の不安は拭えなかったし、息の上がった呼吸はなかなか安定しない。



(……違う……これって…!)



 収まりをみせない呼吸は、走った疲れによるものとはすでに違っていた。


 ――過呼吸だ。


 自身の異変に気づいて、咄嗟に菜々は胸を押さえて身を屈め、荒い呼吸を無理矢理押さえつけようとした。


 時折苦しげに喉を鳴らしてしまう息遣いに、駐輪場の外から気づかれてしまうかもしれない。募る焦りが余計心に負担を重ねてしまい、一向に呼吸が収まる気配がない。


 激しく続いた呼吸に脳が限界を訴え始め、菜々の意識が遠のきかける。



「菜々!?そこにいるのか!?」



 そう広くない駐輪場に響き渡る声にはっと我に返り、菜々は反射的に顔を上げた。


 菜々を追いかけてきた男は――野田は、彼女を見つけ出してすぐ目の前まで駆け寄ってきていた。


 咄嗟に逃げだそうとした菜々の腕を素早く掴み、野田は力任せに引き上げて彼女を立たせた。捕まれた腕に走る痛みに、菜々は顔をしかめる。



「痛っ、離してよ!」


「馬鹿!お前また過呼吸起こしてるじゃねーか!」


「あんたのせいでしょ!」



 掴まれた腕から野田を引き剥がそうと、菜々は渾身の力を込めて抵抗する。だが彼女の力では、野田の片手すら動かせない。


 むしろ、菜々が込めた力はあまりにも弱すぎた。無理矢理立たされた反動で眩暈でも起こしたのか、足下すらふらついている。


 そんな状態になってもなお逃げようとする彼女を見かねて、野田は掴んだ腕を自身へ引き寄せ、固く菜々を抱きすくめた。


 ひっ、と喉の奥から息を漏らし、野田の腕の中で菜々は大きく目を見開く。



「……やだ…離して」


「やだじゃねえ。こうすりゃ収まるんだろ、過呼吸」



 野田は何度も、菜々が過呼吸を起こす場に居合わせた。


 少しでも彼女の苦しみを抑えようと、彼はその対処法を調べ尽くし、あらゆる方法を試して菜々の過呼吸を早く抑えるやり方を編み出した。


 菜々の過呼吸の原因の多くは、過度の精神的負荷によるものだ。何よりも、気持ちを落ち着けさせることが第一なのだ。それを心得た野田は、過呼吸を起こすたびに菜々の体を抱きしめ、彼女の気持ちと呼吸が落ち着くのを黙って待つ方法を選んだ。


 菜々自身も、野田の腕の中に収まることで最も早く呼吸が安定することを知っていた。


 だが、今は違った。



(嫌…)



 きつく抱きしめられた肩が、さらに早さを増す呼吸に合わせて上下する。


 そんな菜々の反応を感じとった野田は、彼女を抱きしめる腕にさらに力を込める。


 どこまでも増してゆく、嫌悪感。


 束縛から逃れ得ない、絶望感。


 菜々の精神が、限界に達する。


 ――気持ち悪い。



「…いやああああああ!!」



 耳をつんざく絶叫に野田がひるんだ隙に、菜々はありったけの力で彼を突き飛ばした。反動でよろめいた菜々は、背にしていた壁に思いきり背中から激突し、一瞬息を詰まらせる。


 突き飛ばされた野田は一歩後ずさるだけで踏みとどまり、なおも諦めずに今度は彼女の両腕を掴む。



「離してよ!もう嫌!嫌だってば!」


「落ち着け菜々!今度こそマジで死ぬぞ!」


「いい!死んでやる!あんたの前で!」


「菜々!」



 悲痛な叫びと激しい呼吸を繰り返す菜々を、野田が自身に引き寄せようとした時だった。



「――離せっつってんだろーが野田あ!」



 背後からの怒号に振り向くより先に、野田は強い力で菜々から引き剥がされ、瞬時に身を翻されて背中から壁に勢いよく打ち付けられた。


 一瞬の出来事に驚愕の色を浮かべながら野田が目を見開くと、怒りに戦慄く茂松が彼の胸ぐらを締め上げながら睨み付けていた。


 同時に、野田から解放された菜々は、彼から遠ざかりたい一心で壁から身を離す。


 だが、彼女の疲弊しきった体がその思いについていかず、ふらつく足によろめいて前のめりに崩れる。



「菜々ちゃん!」



 茂松の一歩後ろを来た豊島が、すんでのところで倒れかかった菜々の体を抱きとめた。


 安堵したのもつかの間、豊島はすぐさま野田に詰め寄る茂松の方を振り向く。



「…シゲ!」



 咎める豊島の声で、茂松は振りかぶった腕を途中で止めた。野田の顔面に喰らわせるはずだった拳を震わせながら、ゆっくりとそれを下ろす。



「…助かるよ裕太。お前が止めなかったら、俺はこいつを殺すまで殴ってた。殴り殺したって、まだ足りねーくらいだ」


「茂松さん…」


「忠告したはずだよな、野田。黙ってなっちゃんの前から消えろって」


「…忠告されたのは、消えることじゃなくて逃げることです。俺は菜々から逃げる気はありません」


「てめえ…」



 挑発的な野田と、その挑発に乗る茂松。


 二人を咎めようとした時、豊島は異変に気づいた。



「…菜々ちゃん?どうした!?」


「裕太!?」



 焦る豊島の声に、茂松は我に返って彼を見た。



「………豊島……さ……?」



 肩を揺らして浅い呼吸を繰り返しながら、弱々しい声で豊島の名を呼ぶ菜々。


 彼に支えられて菜々はなんとか立っていられたが、もはや首をもたげて顔を確かめることすらできなかった。



「おい!大丈夫か菜々ちゃん!」


「だいじょう……ぶ………すぐ……おさ、ま…る……」



 支える豊島に心配を掛けまいとして、菜々は途切れ途切れに声を発して呼吸を整えようと努める。


 走って逃げてきた疲れで息が上がっているなんてものではない。明らかに異常な息遣いに苦しむ菜々を確かめて、茂松は野田の胸元をさらに両手で締め上げる。



「てめえ!なっちゃんに何しやがった!」


「何もしてませんよ。精神的に不安を感じたりパニック状態になると、菜々は過呼吸を起こしやすいんです。一時的なものですから、少し休ませれば収まりますよ」


「何冷めたこと言ってんだ…今度こそ死ぬとか言ってただろうが!」


「…菜々ちゃんっ!」



 とうに限界を越えていた菜々は、糸が切れた人形のように脱力して豊島に全身を預けた。



「何やってんだ裕太!早く病院に!」


「…行っても無駄っすよ」



 緊急を要することではないと言いたげに、野田は静かに二人に告げる。



「過呼吸の原因は精神的なもので、症状も一時的なものです。病院に着く前に回復するでしょうし、意識が戻った時に違う場所にいたら、かえって菜々を混乱させかねない。むしろ二人が来て安心したのか、呼吸もさっきより安定してきてますよ」



 冷静に告げる野田の言葉に、豊島はそれでも自身の腕の中に落ちた菜々を不安げに確かめる。


 気を失ってもなお、菜々の呼吸は荒い。だが平気ぶってみせたさっきまでの不規則な息遣いとは違い、一定の早さで肩を上下させている。それでも普段通りとは言い難いが、確かに少しずつ菜々の呼吸は落ち着いてきていた。


 野田の言葉を鵜呑みにしてよいものか。判断しかねた豊島が茂松に視線を送ると、豊島と同じく判断に迷う茂松も顔をしかめながら熟考し、やがて重々しく首を縦に振って合図を送る。


 失神するほどの症状が現れたとはいえ、菜々の呼吸は確かに落ち着いてきている。それを確かめた豊島はその場に菜々の体を下ろし、片膝をついて彼女の体を自身に寄りかからせた。


 その様子を横目で窺いながら、異常な事態に動揺する二人に対して野田は言う。



「菜々のことは、誰よりも知ってますよ。あんたらがどれほど菜々を知ろうとしたところで、俺ほどこいつのことを理解してやることはできない」


「野田…」



 憎しみを込めて声を漏らす茂松を再び睨み返し、野田はさらに言い放った。



「菜々の過呼吸は、自分の弱さに対するただの甘えです」



 その冷淡な発言に茂松は目を最大に見開き、再び拳を作って振りかぶる。

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