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4/10 逃げない決意と逃げた彼女

 茂松は唖然として、悲痛な顔で目を伏せる豊島を見つめる。



「…彼氏じゃなくなった、ってことか」


「ああ」


「お前から…言ったのか」


「まあな。俺はこれまで通り、ただの相談相手に戻るつもりだったけど。兄妹ならお互い納得だろって感じで、菜々ちゃんがさ」


「…なるほど。それで『お兄ちゃん』ってわけか。把握したわ」



 ようやく事態を飲み込めた茂松は、菜々の発想に感服しながら、遠くにいる彼女を見やった。


 自身の決断によほど満足しているのだろうか。茂松の隣を歩く男にフラれたことなど微塵も気にしていない様子で、菜々は気の向くままに散歩を満喫している。


 その呑気さに思わず笑みをこぼす茂松を横目で窺っていた豊島は、同じく菜々の姿に視線を送りながら口を開く。



「お前にフラれた時は、もっと落ち込んでたよ。菜々ちゃんは」



 その事実を初めて口にした豊島へ、茂松は再び視線を戻す。



「しばらくそのことを引きずってたし、野田と付き合うようになってからも、まだ未練を残してた。そう言ってたんだよな?野田も」


「…ああ」


「それと比べたら、フった次の瞬間に強引に兄妹の関係にさせられた俺なんか、大して菜々ちゃんから好かれてなかったんだよ。野田だってそうだ。好きなだけ俺らをからかって、笑って、今もああやって一人でも楽しそうで、それでもまだあの子が離婚のこと気にしてるように見えるか?」


「…見えねー、けどよ」


「結局野田も、菜々ちゃんにとってはどれだけ好きになろうとしても、その程度の存在だった。あれだけ仲良くしてた三人全員からフラれたってのも、可哀想だけどさ。中でもダントツであの子が気に病んだのは、お前にフラれたことなんだよ、シゲ」



 想いを強調する豊島の言葉に、茂松は俯いて足を止めた。数歩遅れて豊島も歩みを止め、黙りこくる茂松に向き直る。



「ちゃんと確かめた訳じゃないが、菜々ちゃんはまだお前のことが好きだ。俺はあの子の彼氏じゃなくなったわけだし、この際はっきりさせるべきなんじゃないか?」


「……何を」


「お前が今、菜々ちゃんをどう思ってるかをだ。お前は、本当の意味であの子の彼氏でいるつもりなのか、彼氏の立場に甘んじてるだけであの子に特別な感情を持っていないのか、どっちなんだ?」


「……」


「…さすがに、逃げるって選択肢はもうねーぞ」



 低い声で釘を刺す豊島の言葉を最後に、二人の間に重い沈黙が流れる。


 どこからか聞こえてくるクリスマスソングらしき有線の音と、行き交う通行人の楽しげな会話。煌々と二人を明るく照らす、街路樹のイルミネーションと建物の照明。


 それらの全てを疎ましく感じた茂松は、顔を歪めて吐き捨てるように言う。



「……なっちゃんが俺を好きだって、根拠は」



 その言葉を挟むことも、ある意味逃げだ。だが豊島はあえてそれを口には出さず、茂松の問いかけに淡々と答える。



「菜々ちゃんはお前の笑顔が好きだ。お前を笑わせることが好きなんだ。そのことは、前に三人で飲んでた時にあの子の口からお前も聞かされたはずだ」


「それは覚えてるけど…でもその『好き』は別に、本気の意味で言ったんじゃないもんだと」


「俺はそれでも十分根拠になると思うがな。それに普段のふざけたお前と、真剣に仕事してる時のお前のギャップも好きだって、言ってたろ」


「…言ってたな」


「さっき報告書直してる時も、菜々ちゃんはそんな目でお前を見てたんだよ」


「見てそんなことわかるかよ、お前が」



 思わず含み笑いをしながら、茂松は鈍感な豊島がそんなことに勘づけるはずがないと、皮肉を込めて言い放つ。



「わかるよ、いくら鈍い俺にだって。それにお前が知らない事実も、俺はずっと前から知ってる。あれだけ恥ずかしげもなく色んなことを打ち明けた菜々ちゃんが、まだお前にだけ隠してることがあるって」


「隠してること?」


「菜々ちゃんが飲んでる酒だよ。お前がいる時の菜々ちゃんは、自分の好きな酒を我慢してる」


「えっ。だってなっちゃん、カクテル系が好きだって。カシスなんとかやら、サワーやら…」


「嘘なんだとよ、それ。お前がいない時は、本当に好きなビールやら日本酒やら、好きなだけ飲んでんだよ」



 今まで全く気に留めていなかったことに菜々の思惑が隠されていたことを告げられ、茂松は目を見開いて豊島の真顔を凝視する。



「好きな男に、女の子らしくない酒ばかり頼むところを見られたくなかったんだろ。そうやってあの子は今までお前に隠してきたし、この間も今日もカクテル系の酒しか頼んでない」


「…あのなっちゃんが、そんなこと気にしてたのか」


「そんなことだと思うか?菜々ちゃんがシゲを好きだっていう根拠の一つにならないか?」



 問いかける言い回しで豊島に責め立てられ、返す言葉を失った茂松はきつく口を引き結んだ。


 彼女の想いの根拠を立て続けに挙げられ、本当に逃げ場を失ってしまった。そんな彼の立場を察してもなお、豊島はまくし立てる。



「迷う必要あるか?そんな理由が、お前には何かあるのか?これだけあの子に好かれてることを俺から聞かされて、それでも答えは出ないか?」


「……よく喋るな、今日のお前は」


「俺への皮肉で話を逸らすな。逃げんなって言ったろ」


「お前だって人のこと言えねーだろ。なっちゃんから逃げた自覚あるくせに」


「俺は菜々ちゃんから逃げた償いで、お前を逃がさないって決めたんだ」


「…減らず口だけは、お前にはかなわねーな」


「俺もお前の逃げ上手にはかなわねーよ」



 揚げ足取りの応酬をして、向かい合った二人は呆れ顔で静かに笑い合う。


 豊島に逃げ場を奪われたことを悟った茂松は、盛大に溜め息をついた。


 そして吹っ切れたように顔を上げ、正面の豊島をまっすぐに見据える。



「お前には負けたわ。もう逃げねーよ」



 茂松の力強い宣言に、豊島は安堵の表情を浮かべた。


 それでも、決意を固めた茂松を案じて尋ねる。



「本当にいいのか?」


「いいも何も、逃げねーって決めただけだ。彼氏のままでいるかどうかは、自分の中でこれからちゃんと答えを出して、直接なっちゃんに言う。これで文句ねーか?裕太」


「ああ。答えを出す気になってくれたんなら、文句は言わない。ただ、途中でビビって逃げたりしないように、俺はお前をしっかり見張ってるからな」


「信用ねーな」


「前科があるからな」


「しっかりしたお兄ちゃんだよ、お前は」


「うるせー。妹思いの兄貴で何が悪い」


「調子に乗りやがって」



 ふざけて言ったつもりの言葉にちゃっかり便乗してきた豊島の肩を小突き、茂松はいつものように笑ってみせた。


 すっかりいつもの調子を取り戻した二人は、再び横並びになって歩きだす。互いに固めた決意を示し合えたことで、うるさく感じていたほどの周りの景色が、今は心穏やかな二人の目に色鮮やかに映し出される。


 豊島は先ほどの菜々に倣って、装飾された傍らの街路樹を見上げた。夜の街並みを眩く照らす明かりに癒やしを感じながら、ふと思い出す。


 茂松と話し込んでいる間に、先を歩く菜々のことをすっかり失念していた。


 前方に彼女の姿を探し始めた豊島は、視界の隅でスマホをいじり始めた茂松に気づく。



「何してんだ?菜々ちゃんに電話するとこか?」


「違う違う。さっきのセトリ確認してた」


「なんだよ。どの辺歩いてんのか電話するのかと思った」


「え、なっちゃんならそこら辺に…って、いねーじゃん」



 ようやく菜々を見失っていたことに気づいた二人は、歩みを早めて彼女の姿を探した。


 カラオケ屋に向かう道筋くらい菜々は熟知していたし、わざわざ道を逸れて別の通りのイルミネーションを見に行くことはないだろう。それでも二人は脇道へ続く角や交差点の辺りを念入りに見渡し、彼女が興味を引きそうな店の中も遠巻きに見て回った。


 焦りを感じ始めた茂松が、手にしたままのスマホでやはり菜々に電話を掛けようとした時だった。



「――いた。歩道橋渡るとこだ」



 菜々の姿を見つけた豊島が、前方にある歩道橋の中間辺りを指さす。


 示した方向を茂松が目で追いかけると、彼女は歩道橋の真ん中辺りで、立ち止まっていた。


 二人を待つようにこちらを向いていたわけではなく、カラオケ屋に続く歩道橋の進行方向を向いて。



「…何してんだ?」


「待ってんだろ?俺らのこと」


「いや…なんか、変だ」



 訝しげに目を細めて、茂松は遠くにいる彼女を見つめる。


 待ちぼうけの気楽さを全く感じさせない、緊張に張り詰めた表情。


 明らかに様子がおかしい。そう茂松が確信した途端、菜々はばっと身を翻して駆け出し、二人が待ち受ける方とは反対側の方向へ続く階段を駆け下りていった。



「急にどうしたんだ、あんな慌てて」



 突然の菜々の行動に思わず上げた豊島の声に、菜々が見つめていた先から彼女を呼び止めようとする声が重なった。



「――菜々!」



 歩道橋の通行人の間を縫って現れた姿と、彼女を呼び捨てで呼び止めようとする叫び声に、二人は覚えがあった。


 瞬時に状況を理解した豊島と茂松が顔を見合わせる。



「シゲ…!」


「追うぞ!」



 逃げ出した菜々と、それを追う男を追いかけるため、二人は駆け出した。

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