5/8 彼女の何もかもを狂わせた男
* * *
「――離婚してほしいんだ」
その言葉を聞いた菜々の反応を直視する勇気のない野田は、下を向いたまま告げた。
向かい合わせに据えたリビングのソファにそれぞれ腰掛けた二人の間に、重く長い沈黙が置かれる。
野田の想いを聞き届けた菜々は、不思議と落ち着いていた。ローテーブルに常に置かれていた灰皿の方へ目をやり、その隣に置かれた見覚えのない茶封筒を見つめる。
つまりこれは、離婚届か。A4サイズの書類でも入っていそうな大振りの封筒の中身と、深刻な面持ちでそれを睨み据えながら菜々の帰宅を待ち構えていた野田の思惑を、菜々はようやく理解した。
「理由は」
冷静な菜々の問いかけに、野田は両膝に置いた拳に思わず力を込める。
「どうせ浮気でしょ。残業も休日出勤も嘘でした、実は外で女作ってましたって、白状すればいいじゃない」
淡々と告げる菜々の鋭利な言葉の刃物は、何の躊躇いもなく野田の心を貫いていく。
少しも感情的な反応を示さない菜々に苛立ちすら覚え始め、震えだす拳を懸命に膝に押しつけながら、野田はゆっくりと顔を上げた。
「……知ってたのかよ」
か細い声で吐き捨てる野田の一言に無言を返し、菜々はおもむろに封筒に手を伸ばして中を改め、テーブルの上に書類を広げる。
菜々に確かめるために掛けた野田の言葉は、浮気の事実を認めたものと捉えていい。正当な離婚の理由が成立したのを確かめた菜々は、上着の下に着込んだ制服の胸ポケットからボールペンを取り出し、少しも躊躇わずに『妻』の欄に署名する。
「おい菜々、聞いてんのか」
「聞いてるしわかってる。浮気相手に乗り換えるのに、あたしが邪魔になるんでしょ」
「お前…なんでそんなに落ち着いてられんだよ。離婚だぞ。本当にわかってんのかよ」
「わかってなかったら、何も言わずにこうして離婚届書くわけないでしょ」
「急すぎるとか、身勝手すぎるとか、なんで何も言い返さねーんだよ」
苛立ちで少しずつ声のトーンを上げる野田に目もくれず、記入漏れがないか確認を終えた菜々は静かにボールペンを置く。足元に寄せていたバッグから印鑑を取り出して捺印も済ませ、二つ折りの書類を畳んで封筒にしまい直し、野田の手元に差し出した菜々は、そこでようやく彼と正面から目を合わせた。
苛立ちと、悲嘆。その感情がありありと窺える野田の神妙な面持ちを、侮蔑を込めた目で見据えながら菜々は口を開く。
「こうなる予感はしてた。とっくに覚悟は出来てた。あんたに対する恨みつらみを全部ぶつけたところで何も変わらないから、言い返すことなんて何もない」
「菜々…」
「むしろ感謝したいくらいよ。自分から離婚を切り出す勇気がなかったあたしより先に、離婚を決断してくれたことに。子供も作らないままで正解だった。養育費だ何だってややこしく考える必要ないし、綺麗に別れられる」
「…これからしばらく、独りになるんだぞ。今度また過呼吸起こしても、俺はもうお前の傍にいてやれない」
「あんたから解放されたら、過呼吸くらい治るわよ」
平然と言い切る菜々との間に、分厚く強固な壁が据えられていたことを改めて思い知らされた野田は、苦痛と言い表せるほどに顔を歪ませて俯く。
逆に菜々からしてみると、そうやっていちいち釈然としない反応を示す野田の心境が理解できなかった。
「なんなのよさっきから。あんたから離婚したいって言い出したくせに、何が不満なの」
疎ましげに目を細めながら投げかけた菜々の問いかけに、うなだれたまま野田は苦々しく口元を歪めた。
「……泣かないのな、お前」
「……何よ」
「お前みたいに強くねーんだよ、今付き合ってる彼女は。俺が傍にいてやらないと、不安で夜も眠れなくなるくらいに弱い」
「要するに、引っ掛かったのがよりによってメンヘラでしたってわけね。あたしだって多少メンヘラの自覚あるけど、そういう女が好みなんだ」
「そんなんじゃねえ」
「そういう理由で自分のパートナー選んでるようじゃ、また同じこと繰り返すよ。今の女よりさらに哀れな人と出会ったら、あんたならきっとまた今の彼女を捨てる」
「…なんで…なんでお前は、そんなに…」
声量を落とした野田の声が、悲痛さを増して震える。
そんな彼に同情を寄せる気など、菜々には少しも起きなかった。
「…言っとくけど、あたしは独りなんかじゃない」
「……」
「あたしには、あの人がいるから」
ようやく口調を柔らかくした菜々の言葉に、下を向いた野田の目頭が熱くなる。
彼女が言う「あの人」に、いくつかの心当たりがある野田は、やるせない思いに苛まれた。
叶わない想いを一途に寄せ続けてきた男。決して叶わないその想いを諦めて、仮想のツールを通じて交流を深めている男。
菜々の言葉がどちらを示しているかは断定しかねたが、ただ一つだけ確かなことはある。
夫の立場まで得られた自分は、少しも彼女の心の拠り所になれなかった。
「……泣いてんの?」
「…泣いてなんか、いねーよ…」
「ツンデレ乙。悲劇ぶるあんたにいつまでも付き合ってらんないわ。家賃はずっとあたしが払ってるんだから、当然この家はあたしに譲るわよね。出てくなら早く出てって」
「…ああ、そうさせてもらう」
手の甲で無造作に目元を拭い、無理矢理吹っ切れた顔を作った野田は封筒を手にソファから立ち上がる。
彼を目で追うことすらせず、菜々はバッグから煙草を取り出して一服しようとする。だが口に咥えた煙草の先に火を点けようと二度三度とライターをノックしても、火の点く気配のないライターは、どうやらガス切れらしかった。
余計に募る苛立ちに手元のライターを睨み付けていると、背後で寝室のドアが開く気配がした。反射的に振り向いた菜々は、煙草を吸えないことへの八つ当たりをぶつけるつもりで、野田を視界に捉えようとした。
「……は?」
咥えていた煙草が、菜々の口元からソファに落ちる。
野田と二人で暮らすマンション。今まさにそこから去ろうとしている野田と、一人残される菜々以外、誰もいないはずの家。
寝室へ続くドアを開け放った野田の陰から、見知らぬ女が姿を現したのだ。
瞬時に、菜々の脳裏に様々な憶測が飛び交う。片時も男から離れたくないメンヘラ女。離婚を迫られた自分がそれを拒んだ時のための切り札。離婚の成立を見届けさせるための仲立人。
そして紛れもなく、ただでさえ均衡の不安定だった菜々と野田の関係を終わらせた、元凶。
「っ!」
弾かれるようにソファから立ち上がった菜々は、握りしめたガス切れのライターを女に投げつけた。微塵も躊躇なく動いた菜々に反応が間に合わず、ライターは女の額に命中する。
「菜々!お前なあ!」
たまらず声を荒げて女を庇う野田をきっと睨み付け、咎める彼より何倍にも増した声量で、菜々は怒鳴り返す。
「出てってよ!!いいから出てって!!」
怒りに打ち震える菜々に向かって咄嗟に言い返そうとした野田の腕が、額を押さえる傍らの女に軽く引っ張られる。その行為に気を取られた野田は、わずかばかりの迷いを見せながらも、彼女を気遣いながら脇目も振らずに玄関へ向かう。
「さっさと消えろ!!二度とあたしの前に顔見せんじゃねーぞクズが!!」
地をさらけ出すことさえ構わず怒鳴り散らす菜々の視界の先で、玄関のドアは強めの力で閉められた。
声を振り絞った反動で肩で息をしながら、菜々は二人が姿を消したドアの向こう側をじっと睨み据える。次第に冷えていくであろう感情と共に、落ち着いていくはずの呼吸に上下する胸を押さえ、そうしているうちにやがて自身の異変に気が付いた。
(…なんでっ……治らないの…!)
野田から解放されさえすれば治ると言いきってみせた、過呼吸。おさまらない不規則な息遣いに意識が眩みかけ、その場で卒倒しかねない事態を恐れた菜々は、倒れ込むようにソファへ全身を預けた。
背もたれに額を押しつけ、懸命に呼吸を落ち着かせようとした菜々は、不意に自身を襲った感覚に目を見開いた。
自分が座っていたソファから漂う、嗅ぎ慣れない匂い。いや、よくよく思い返すと、どこかで覚えのあるもの。
(…あの女の…)
女物の香水の香り。時々それを感じとったのは、野田が自分の傍にいる時だったことを思い出す。
おそらく寝室に身を潜める前に、ここにあの女がいた。たちまち嫌悪感に襲われる菜々は、さらに激しさを増す呼吸に顔を歪めながら、少し離れた場所に置いたパソコンに目を向ける。
(もう、嫌……助けて…………助けて…!)
『彼』ならきっと、応えてくれるはず――
* * *
『あ、野田さん?どうしたの?出勤の時間過ぎてるわよ?』
「すみません、寝坊しちゃいました」
『え、寝坊?来る途中で何かあったんじゃないかって心配してたのに』
「いやあ、スマホのアラームセットし忘れちゃったみたいで」
『まあ寝坊は良くないけど、正直でよろしい。今起きたばっかり?』
「ええ。急いで支度して行きますので」
『いつも通りしっかり支度してから来なさい。今日はあまり店も忙しくないし』
「本当にすみませんでした、店長」
『気をつけて来るのよ』
寛容な店長の優しい声に安堵し、その気遣いに心から感謝を抱きながら、菜々は電話を切った。数回呼吸を置いて、フローリングの床からゆっくりと身を起こす。
ソファから這い降りてパソコンまで向かおうとして、どうやら途中で気を失っていたらしい。まさか朝を迎えて店長に電話で呼び起こされるまで、一度も目を覚まさなかったなんて。自身の不甲斐なさに、思わず菜々は苦笑いを漏らす。
自嘲してすぐに、自然と口元から笑みが失せる。
(…本当に、独りになったんだ)
重い過呼吸を起こして失神したのは、これが初めてではなかった。
だがこれまでは、菜々は独りではなかった。たとえ家で一人きりの時にそうなったとしても、目が覚めた時には必ず野田が傍に寄り添ってくれていた。
『今度また過呼吸起こしても、俺はもうお前の傍にいてやれない』
起こすことはないとさえ言い切った矢先に起きてしまった弱い自分の心に、菜々は心底嫌気が差した。
(どうせなら呼吸困難までいっちゃって、あのまま……死ねたらよかったのに)
憂鬱に浸ってばかりいられないと、すぐさま立ち上がって浴室へ向かう。
死ねなかったのだから、否応なしに生きていくしかない。
誰の力も借りず、独りで。
(もう野田じゃなくなりましたのでって、いつ言おう、店長に…)
黙々と出勤の支度を進めながら、沈んだ表情で菜々は思い悩む。
目先の現実のことばかり考えながらも、頭の片隅で同時に『彼』に対しても思いを馳せる。
本当に助けを必要としている時に、助ける術を持たないであろうその『彼』は、独りきりになった菜々の最後の支えだ。
いつかきっと『彼』が、自分を助け出してくれる。
それを夢見ることくらい、許されないだろうか。




