2/8 飾らない彼女の本心と離婚
二人きりの個室のテーブル上に、重い空気が流れる。個室と言っても、人数によって取り外し可能なパーティションで仕切られただけの居酒屋のテーブル席には、否応なしに隣の話し声も笑い声も筒抜けで聞こえてくる。
沈黙によってそれらがよりうるさく感じられたが、互いに続ける言葉を探すのに必死で、二人の耳にはろくに入ってこなかった。
「……今日、野田も連れてくると思ってたんじゃないですか?豊島さん」
均衡を破ったのは菜々だった。ロングの煙草を半分残して、先端の燃えカスだけを器用に落とす。残った部分をあとでまた吸うのだろう。
吸い終わったついでか軽く居住まいを正し、改めて豊島を見据える菜々の表情は、彼が戸惑いを感じてしまうほどの笑顔だった。
豊島さんが考えそうなことくらいお見通しですよ?とでも言いたげな、悪戯な笑みだ。
「まあ……あ、でも、今日の予約名でさ、シゲの話思い出して。で、もしかしてって、ちょっと思ってた」
5年の空白があったにも関わらず、ただ愚痴を聞いてほしいという理由だけで菜々が豊島を飲みに誘うメールを送ったのは、ほんの一週間前のことだった。
二つ返事で応じた豊島のもとへさほど間を置かずに送られてきたメールには、今訪れている居酒屋の予約確認画面のスクリーンショットが添付されていた。菜々の行動の早さに驚きつつ、日付と時間と店の場所、そして予約名を確かめた豊島は、小さな疑問を感じていた。
『こないだ新しくできたコンビニ行ったらさ、なっちゃん働いてたよ。名札見たら『野田』になってたからさ、やっぱ結婚したんだな』
何ヶ月か前、仕事の休憩中に茂松はそう報告してきた。
だとすれば予約名は『ノダ ナナ』か、あるいは『トヨシマ ユウタ』か。もし『ノダ トモヤ』で予約してあれば、遠回しに三人で集まることがすぐにわかっただろう。
だが、画面に表示された名前は『ミサキ ナナ』だった。
菜々自身が言っていたように、社内の人間で彼女から結婚の報告を受けた者はいない。茂松のように偶然知られることはあるかもしれないが、結婚して苗字が変わったことなど、おそらく知らないだろうと菜々は思ったのだろう。
離婚した可能性も、豊島の中で浮かばないはずがなかった。まさか、とすぐにその考えを打ち消し、御崎の方が豊島にとって馴染みがあるからわかりやすい、という菜々の気遣いだろうという結論に至ったのだが。
「カナちゃんさんもずるいですよねえ。あたしに気付いてくれてたんなら、声掛けてほしかったな。来てたの全然知らなかったですよ」
「え、菜々ちゃんはシゲに気付いてなかったの?」
「はい全然。たぶんカナちゃんさん、オープンしたばっかの時に来たんじゃないですか?お客さんいっぱいだったし、レジ打ってるといちいちお客さんの顔見れないですから」
「てか、シゲも声掛けなかったんだな…」
「そうですよお。声掛けてくれたら、カナちゃんさんあたしに気付いてくれたー、あたしのこと覚えててくれたんだーって、その日一日ハイテンションで仕事できたのになー」
心底残念そうに菜々は言うが、表情だけは今日一番の笑顔を輝かせている。豊島もつられて穏やかに笑んでみせるが、彼女がそんな顔を見せる理由を知っている彼としては、何ともいえない心境だった。
御崎菜々は、野田朋也の彼女。
だが、彼女が恋心を抱く相手は――茂松要だ。
「ていうか豊島さん、カナちゃんさん誘ってくれないかなーって、あたし期待してたんですよ?」
期待されてるだろうな、と薄々感じていた。
「いや、誘いたかったけどさ、部長と県外に出張してて、こっち戻ってくるの明日なんだよ」
事実を伝えるが、そもそも最初から誘うつもりはない。
「なーんだ、残念っ」
言うほど心底残念がることなく、菜々はおもむろに手元の中ジョッキを持ち上げ、半分になっていたビールを煽った。ほんの一口程度残してジョッキを置き、注文パネルに手を伸ばして、アルコールドリンクのページを楽しげに見流す。
何飲みます?と聞かれる前に少しでも減らしておこうと、豊島も梅酒サワーを煽る。
次も同じ酒にするか、気分を変えて甘い酒か、休憩がてらウーロン茶か。自分の酔い具合と相談しつつ、豊島も注文パネルを借りて次の酒を選びたかったが、日本酒のページを真剣に見つめる目の前の元後輩を見ていると、貸してとは言えなかった。
(酒豪は相変わらずか…)
ビール、焼酎、日本酒。中年男性に似合いそうな酒を、菜々は好んでいた。
かたや、まさにイメージ通りの中年世代である豊島の方は、おもに梅酒系の酒を好むが、サワーやらカクテルやら、女子が好みそうな酒しか飲まない。むしろ菜々が好むような酒が飲めない。
二人が注文した酒がテーブルに運ばれた時、店員がそれぞれに置いた酒を後から交換することは、もはや恒例だった。
そんな光景は、こうして豊島と菜々の二人で飲む時か、野田を加えた三人で飲む時にしか起こらなかった。
「豊島さん」
「はい?」
真剣なトーンで呼ばれ、思わず豊島も改まった返事を返す。
「冷やと熱燗、どっちがいいですかね」
「…飲めない人に聞かないで?」
真顔で訊いてきた菜々の顔が、ぱっとあの悪戯な笑みに変わる。こうして菜々が豊島を茶化すやりとりも、恒例だった。
(シゲがいると飲めないもんな、菜々ちゃん…)
茂松がいる飲み会の席になると、菜々は好みの酒を我慢する。代わりにサワーもカクテルも、どんな女子らしいお酒でも飲めるのだから、あまりアルコールに強くない豊島にとっては羨ましくさえ思えた。
だが、今日この場に茂松は来ない。しかも飲み放題で予約をしていたようだから、大好きなビールも日本酒も、菜々のペースで好きなだけ飲める。
(俺相手だから平気、って思われてるんだろうけど…)
愚痴を聞いてほしい、という名目で誘われた、メンバー二人の飲み会。
(…もう日本酒行く気満々ってことはつまり、とんでもないレベルの愚痴に付き合わされそうだな…)
誰も誘わなくてよかった、と色んな意味で思ってはいたものの、これから彼女の愚痴がエスカレートしていくのが目に見えているこの状況に、道連れになってもらう奴を連れてくるべきだったかと、豊島は後悔した。