8/8 かつて心を通わせた彼のような存在がいてくれたらと
* * *
『――ねえ、あたしのこと、まだ好き?』
『なに急に。好きに決まってんだろ』
『よかった』
『なんだよ』
『最近ちゃんと言ってもらったことないなーと思って』
『不安になってた?』
『別に?歳食って恋愛感覚薄れてきてないかなーって、心配してあげただけ』
『お前と大して変わらないだろ』
『あんたはアラサー。あたしは20代半ば』
『2コしか違わねっての』
『それでも心配してあげてるんだよ?仕事忙しそうだし』
『…ごめんな。久しぶりにデート行けると思ってたのに』
『今さら休日出勤くらいで怒ったりしないよ。その分の手当て、ちゃんともらえるんでしょ?』
『…ああ』
『ちゃんと稼ぐ気があるなら、それでよし。…仕事じゃなくて浮気だったら、さすがに怒るかも』
『ねーよ馬鹿』
『だろうね。あんた浮気できるほど甲斐性ないし』
『ひでー言われよう…』
『別にしてもいいんだよ、浮気くらい』
『言ってることめちゃくちゃだぞ』
『あたしは器が大きいんです。旦那の浮気くらい、目をつぶって好きに遊ばせてもいいって思ってるよ』
『いい嫁だな』
『都合のいい嫁、でしょ』
『浮気なんてしねーよ。したら泣くだろ、お前』
『かもね』
『どうせできねーし』
『でしょうね』
――泣かないのな、お前。
目を見開いた菜々の視界は、まだ真っ暗だった。呆然と暗がりの天井を見つめ、まだ夜が明けていないことを漠然と感じとる。
夢を見ていた。
何ヵ月か前まで、枕を並べて毎晩横にいた男の夢。顔を合わせなくなってから、夢でだけは毎晩彼と顔を合わせていた。
最近になって、ようやく夢に現れなくなってきていたのに。
(あ……やばい……)
困惑する胸を叩く鼓動が、次第に激しさを増していく。
すかさず菜々は胸元を押さえ、空いた手で枕元に用意していたタオルを手繰り、枕の上に敷いて顔を突っ伏す。
正しい処置など知らない彼女は、この対処がもっとも早く過呼吸が治まることを自ら編み出した。
深夜の暗がりの中で、菜々のくぐもった激しい息づかいが部屋を満たす。
やがて呼吸が次第に落ち着きを取り戻していき、繰り返し深呼吸をしながら菜々は顔を上げた。
(なんで、こんな日に限って…)
眠りにつく前の彼女は、実に充実した休日を過ごしていた。
仲の良かった二人の先輩と楽しく遊んだ。
さすがに行き過ぎた言動だったと少しだけ反省したが、彼らの彼女になることになった。
三人で楽しく過ごしたこと。三人でまた遊ぶこと。菜々はずっと、自分を含めた三人のことしか考えていなかった。
なのに何故、彼女の夢はそこにかつていた、四人目の夢を見せたのだろう。
彼女がもっとも忘れたがる男を、今一度思い起こせと言わんばかりの夢を。
(……泣きたい)
心の中で強く思ったが、菜々の目には涙すら滲まなかった。
いつの頃からか、彼女は泣かなくなった。いや、泣けなくなった。
泣いてすっきりしたくなるような辛いことを、彼女はこの短期間でおそらく同世代よりも多く経験した。
だが彼女は親友の奈津美の前でも、他の誰の前でも、一人の時でさえ、泣かなかった。
常に、泣きたい気持ちでいたのに。
(…カナちゃんさんなら、あたしがどうして泣けなくなったか、わかるのかな)
人一倍勘が鋭く、思ったことを素直に口にできる茂松。
彼なら、菜々の感じている異変の原因にすぐに気づいて、実直なアドバイスをしてくれるだろうか。
(…豊島さんは、泣けないなら無理に泣かなくていいだろ、とか言いそう)
現実的で常識人で、なのにどこか鈍いところがある豊島。
他人にも自分にも甘い彼は、いつだって無理なことはしないし、させない。
(……そういえば、泣いたじゃん。豊島さんの前で)
忘れていたわけではないが、ふとその事を思い出す菜々。
(あれは…なんで出たんだろ、涙…)
泣きたかった理由は大いにあった。あの歌を歌ってしまった後悔によるものだ。
そればかりを悔いていて気づかなかったが、確かに涙が溢れて止まらなかった。
(後悔、かな…)
それが自分の涙を引き出せる鍵になるかと思い、菜々は今一番後悔していることを意識しながら、泣こうと試みた。
…が、涙は溢れてこない。
(……感情、壊れちゃったのかな)
自嘲した問いかけは、誰にも届かない。
せめて涙を流せない代わりに、心に浮かべた後悔を誰かに明かしてしまって、それですっきりさせたいとも思った。
過呼吸を抑えた疲れから来るまどろみに委ねて、何も考えず眠りについてもよかったが、菜々は目を閉じて静かに一人懺悔を始める。
(嘘ついて、ごめんなさい…)
菜々は、豊島と茂松に嘘をついている。




