1/8 過去を振り返って
【第一章】
向かい合った席で、豊島裕太は梅酒サワーを口元に持って行こうとした手を空中で止め、驚愕の表情で御崎菜々を見つめた。
対して苦笑いを返すが、豊島のその反応があまりにも想定していた反応そのものすぎて、菜々はむしろ安堵すら覚えた。
「……マジで?」
その第一声も、想定していたものと全く同じ。
「マジなんですよね」
ため息混じりに漏らす菜々の自嘲気味の笑みをまじまじと見つめながら、豊島は一息置いて一旦止めていたサワーに口をつけた。
いやあ、と事実を受け止めきれない声を出しながらグラスを置き、目の前の彼女に掛ける言葉を探す。
こんな時に気の利いたことを言えない、機転の利かない自身に、豊島は心底嫌気がさした。おもむろにテーブルの角に寄せていた煙草に手を伸ばし、火を点ける。
「…まあ、それで誰かに愚痴りたくて、こうして豊島さん誘ったんですよー」
「…なるほどねー」
間延びした語尾を真似しながら、なんとなく気まずい空気を繋げてくれた菜々の発言に感謝した。
「いや、なんで急に誘ってきたのかわかんなかったからさ。なんかあるんだろうなーとは思ってたけどね」
「はい。なんかありました」
「あったねえ」
「てか、飲みに誘ったあたしが言うのも変ですけど、豊島さんオーケーしてくれると思ってませんでしたもん。全然連絡取り合ってなかったし」
「菜々ちゃんの送別会以来?」
「ですね。だから…5年ぶりくらい?」
「もうそんなになる?」
「5年も経てば、さすがの豊島さんにも彼女くらいできてるだろうなーと思ってたんですけどねー」
「…ほっといて」
屈託のない笑顔で無邪気に笑う菜々は、その5年前と全く変わらない。二人の会話の調子もその頃と同じで、菜々が豊島をからかい、自嘲する豊島の様子を見て彼女が面白がる構図は、二人の間で懐かしさを感じさせた。
(5年……菜々ちゃんも、もう27か)
菜々が自分より10歳下であることを、豊島は覚えていた。こうして久しぶりに会って、自分の記憶にある彼女の姿と今の彼女が変わらないと感じていても、お互いに歳を重ねている。
豊島自身は、外見やら体力やら自分の老いを実感しているし、周囲から大なり小なりそれを指摘されることも少なくはない。
だが菜々は――少なくとも豊島から見た彼女は、羨ましさを覚えるほど若く見えた。実際まだ20代だし、若いのは事実なのだが。
むしろ、5年前よりも彼女は少し痩せたように見えるし、明らかに綺麗になったと豊島は思っていた。
それに――
(なんか……明るくなった、よな)
菜々が豊島の勤める小さなIT企業に入社したのは7年前。専門学校卒の20歳の彼女は、その年唯一の新入社員だった。
豊島を含めて数人の親しい社員とはこんな風に打ち解けた様子で話せたが、他の社員と接している時の彼女は、どちらかというと人見知りで内向的だった。
真面目なおとなしい子。豊島もそうだが、社内の誰もが彼女にそんな印象を持っていた。
入社して2年で退職。それからさらに5年も経っていれば、ちょっと性格が明るくなったくらいの変化が彼女にあってもおかしくはないのだろう。
「なんていうか……結婚したって話は聞いてたけどさ。噂で」
フィルター付近で燻る煙草を揉み消しながら、豊島が口を開く。視界の隅でバッグの中を漁り始めた菜々の姿を捉え、自分が今使っていた灰皿を彼女の方へ少し押しやる。彼女も喫煙者だ。
「噂ですか。誰が噂してました?」
「シゲが」
即答したものの、その同僚の名を何の気なしに口にしてしまったことに、豊島ははっとなって菜々の表情を窺った。
当の菜々は顔色ひとつ変えずに煙草に火を点け、一瞬だけ逡巡して、次の瞬間にぱっと豊島に向き直る。
「あー!カナちゃんさんですか!」
素っ頓狂な声に単純に驚いたのと、無用な心配だとわかった安堵から、豊島の頬が緩んだ。むしろ久々に聞いたその可愛らしい呼び名に、思わず吹き出す。
「懐かしいな-。カナちゃんさん、久しぶりに聞いたわ」
「だってあたししか呼んでなかったじゃないですか、カナちゃんさんって」
豊島と同期入社の茂松要は、社内の人間からは「茂松」か「カナちゃん」のどちらかで呼ばれている。専門学校からの付き合いである豊島だけが、学生時代からの名残で「シゲ」と呼び、後輩の中でもただ一人、菜々だけが「カナちゃんさん」と呼んでいた。
菜々が入社した頃、先輩社員全員を苗字にさん付けで呼んでいた彼女に対し、何故か茂松は「カナちゃん」と呼んでもらいたいと、何かの飲み会の場で懇願したのだ。
さすがに10歳も年上の男性をちゃん付けで呼ぶことに抵抗があったらしく、かなり長い間を置いて「カナちゃんさんじゃ駄目ですか?」と絞り出したあの時の、恥ずかしさに溢れた菜々の表情と、その場にいた一同の爆笑の渦を、豊島は鮮明に覚えている。笑いすぎて涙を滲ませながら茂松は快くそれを受け入れ、代わりに茂松だけが菜々を「なっちゃん」と呼ぶようになった。
豊島がそんな各々の呼び名の誕生秘話を思い返していると、小首を傾げながら不思議そうに菜々が尋ねてくる。
「でもあたし、カナちゃんさんどころか、会社の誰にも結婚したこと喋ってなかったと思ったんですけど…」
「なんかあいつ、菜々ちゃんの職場?行ったらしくてさ。名札が『野田』になってたから、もしかしてって思ったらしいよ」
二人の会話に新たに現れたその名を聞いて、煙草をふかしながら菜々はわずかに目を伏せる。
その反応こそ数十秒前に豊島が危惧していたものだったが、その時ばかりは本当に何の気なしの発言だったため、菜々の微妙な変化を彼は見逃してしまっていた。
「そうだったんですか。…じゃあもし、カナちゃんさんまたお店に来たら、名札見てびっくりするでしょうね」
「……もう、野田から変えたんだ?」
「そりゃそうですよ。色んな手続きも全部終わらせましたし」
そこで初めて、豊島は菜々の少し疲れた笑みを正面から捉えて、ようやく後悔した。
(…今の菜々ちゃんは、シゲじゃなくて……野田か)
野田朋也。豊島や菜々と同じ会社にいた男。茂松も入れたこの四人は、仕事で同じプロジェクトに関わることも多かったし、共通の趣味があって休日に一緒に遊ぶこともあった。
そして、いつしか野田と菜々は交際を始めた。菜々の退社が決まって、有志で送別会を開くことが決まった頃には、婚約もしたと周囲に公然と報告していた。
5年前まで彼女が会社にいたことを覚えている社員は、口を揃えて彼女をこう称することだろう。
御崎菜々は、野田朋也の彼女だ――と。
「想像以上に疲れますね……離婚って」