表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/60

8/8 件の男の不可解な行動





            *   *   *




 店内の客が一通り退店したのを確認し、奈津美は事務所のドアを開けて中を覗いた。



「…二人とも帰ったよ。電話中で手が離せないからって言っといたけど、それでよかった?」


「うん…ありがと」



 数台の監視カメラの映像が映し出されるモニタの前から、呆けた声で菜々が答える。彼女は喫煙スペースも映されているこのモニタで、実際に彼らが帰るまでの様子を見ていた。


 入店を告げるチャイムが鳴ってから店内に戻ることにし、奈津美は菜々の横の事務椅子に腰を下ろす。心配を掛けさせまいと笑顔を装って彼女の方を向き、菜々は申し訳なさそうに口を開いた。



「ごめんね。また迷惑かけて」


「気にしないの。もう呼吸も普通っぽいから、安心した」


「まさか職場で発作起こすなんて思ってなかったな…」


「急だったからびっくりしたよ。原因はあの二人?豊島さんとは普通に話せてたじゃん」



 奈津美とともにモニタを眺めながら、菜々は首を横に振って彼女の問いかけに応える。


 ごめんちょっと、と菜々からレジを代わるように声を掛けられた奈津美は、理由を問いかける言葉を待たずに事務所に向かった彼女を気にしつつ、レジを請け負った。


 三組ほどの会計が終わり、レジ待ちの客が途絶えてすぐに奈津美は事務所を覗いた。


 部屋の隅にうずくまり、呼吸を荒くして苦しげに胸を押さえる彼女の背中を見つけ、奈津美は慌てて声をかけた。



『菜々、大丈夫?救急車呼ぶ?』


『…平気。すぐ、収まるから…』



 とてもそうは見えない激しい呼吸の合間に、細い声で菜々が絞り出した言葉。それを聞いて、奈津美は彼女から聞かされていた話を思い出した。


 ストレスを溜めすぎて精神的に落ち込むと、過呼吸を起こすことがある。


 勤務中にその症状を起こしたということは、菜々が極度にストレスを感じる出来事があったということだ。可能性として考えられる今日のイレギュラーな出来事といえば、豊島の突然の来訪くらいしかない。奈津美はそう予想していた。


 だが、菜々はそれを否定する。



「……メンヘラババア」


「は?」


「さっき来てた。わざわざあたしがレジに立ったの見てから、レジに並んで煙草買ってった」


「そいつって…」


「あの女、自分のじゃなくて男の煙草だけ買って帰った。どういうつもりでうちの店来たりなんか…」



 ぽつぽつと口汚い罵りを吐き続ける菜々の言葉は、自分が問いかけたことについて答えているものだと、奈津美はようやく理解した。


 菜々の言うその女の来訪が、彼女のストレスの原因だ。



「向こうから声は掛けてこなかったし、あたしも最後まで気づかないふりしてた。でも、いきなり来て何企んでるんだろうとか、あの男が豊島さんたちに変なこと吹き込みに行ったらどうしようとか、ごちゃごちゃ考えてたら…ああなっちゃって」



 自分の失態に恥じるように笑んでみせる菜々。


 彼女がメンヘラババアと称したその女は、顔も見たくないほど菜々が嫌悪する存在。


 そして頑なにその名を口にしたくないと思うほど、その女以上に菜々が憎しみを抱いている存在。


 ――野田と、件の浮気相手だ。



「…来たのは、女だけ?」


「あの男がこんなところであたしと直接顔合わせられる度胸なんてないよ。女の方は車持ってないし、お抱え運転手を車の中で待たせてたはず」



 二人を皮肉りながら、菜々は忌々しげに眉根を寄せる。


 女――野田の交際相手が、車での移動を余儀なくされる場所にいるということは、今はその恋人である野田が車を出している証拠にもなる。


 野田が、必然的に傍にいたのは明らかだ。


 そして交際相手が要求してきた、野田が吸う煙草。ただ単に野田に使いを頼まれただけか、それとも何か彼に意図があって指示された行動か。


 どちらにせよ、菜々は交際相手の行動の意味を、彼女なりにこう捉えた。


 交際はまだ続いているというアピールだ、と。



(メンヘラ化が進んだ奴らの考えつきそうなことだわ…)



 心底呆れかえる自分の思考を、溜め息に乗せて吐き出す菜々。


 そんな彼女の様子を見守りながら、奈津美が口を開く。



「気にしない方がいいよ、とまでは言わないけどさ、あんたには無理だろうから。せめて今は気分転換の煙草行ってきな」


「でも、休憩時間もう終わっちゃうし…」


「店も混んでないし、今はあたしらしかいないんだから気にしないの。店長には長めに休憩したことも、さっきのことも、全部内緒にしとくから」


「…ありがと、奈津美」



 感謝を口にする菜々を元気づけるように、奈津美は彼女の頭に手を置いて、優しく微笑んだ。



「なんかあたし、こないだから奈津美に迷惑かけっぱなしで、ほんとごめんね」


「こないだ?」


「ほら、日曜日の」


「あー。菜々ん家で愚痴聞いてあげたこと?そんなこと気にしてたの?」


「それもだけど、その後のことも」


「その後って――」



 二人の会話を遮って、店内に入店チャイムの音が響く。


 反射的に二人は席を立ち、菜々は制服の上からコートを羽織り、奈津美は入店してきた客の様子をモニタから窺い、各々が事務所を出る支度を整える。



「じゃあ一本吸ったらすぐ戻るね」


「ゆっくりしてきなって」



 笑顔で言葉を交わし、二人は事務所を出た。


 いらっしゃいませー、と明るい声を店内に行き渡らせてから、奈津美は足早に喫煙スペースに向かう菜々の姿を目で追いかける。


 菜々の愚痴を聞いた、その後のこと。成り行き上聞きそびれてしまった彼女の言葉の続きを気にしながら、奈津美は仕事に戻った。


 菜々が気にしそうなことだとは思っているが、それの対価を併せて約束した奈津美にとって、彼女が気にかけている理由に心当たりがなかった。



(シフトは替わってやったけど、別の日のあたしのシフトと替わるからって言ってたじゃん…)



 それとも何か他にあっただろうか。そう思ってしばらく思案していたが、仕事をこなすうちにいつの間にか奈津美は、それを考えることすら忘れてしまった。







            *   *   *




 あれは確かに野田だった。


 菜々の勤めるコンビニの駐車場から出て行く車の中の男を見て、茂松はすぐにそれに気づいていた。


 以前茂松が偶然あの店で菜々を見かけたときは、彼女の名札が「野田」になっていた。つまり勤め始めの頃の菜々は、もちろん野田と結婚している状態だった。


 夫が妻の勤務先を把握していないわけがない。野田は菜々がいることを知っていて、あの店を訪れたのだ。


 離婚すれば普通、そう簡単には顔を合わせないものではないだろうか。


 豊島から伝え聞いた、二人のこじれた離婚話と、菜々の考え。それらを併せ考えると、さすがの野田も菜々の勤める店に呑気に買い物をしに来れる立場ではないはずだ。



(なっちゃんが俺らのところに来なかったのは、野田が原因か?)



 いずれかの時点で菜々が野田の存在に気付き、逃げるように事務所に隠れたか。あるいは、野田が何らかの形で菜々に接触してきたと仮定すれば、動揺して人前に出られない精神状態になって事務所に籠もったか。



(なっちゃんの友達がわざわざ来たことを考えれば、おそらく後者だな)



 その推測の答えを確かめることはできない。菜々か、野田に直接聞かない限りは。


 徒労に終わった推測の疲れを感じ、茂松はヘッドレストに後頭部を押しつけて目を閉じた。



「…寝ないのか?」


「寝ていいのか?」


「駄目だ」


「なら何故聞いたし」



 長い信号待ちの暇潰しに声を掛けてきた豊島の非情な言葉に、茂松は恨めしげに返す。



「さっきから何悩んでるんだよ。菜々ちゃんのことか」


「…まあな」


「マジで思春期かよ」



 からかうように笑い出す豊島の二の腕をグーで殴る。


 お前も同じ立場だろうが。そう言ってやりたかった代わりに、茂松は言葉を引っ込めて手を出したのだ。



(…こいつのどこがいいんだろうな)



 長けているのは軽口のセンスばかりで、ツッコミ気質で常にいじられキャラの男。


 友人として一緒に過ごす分には飽きない奴だったが、菜々が豊島に憧れる理由が茂松には理解できなかった。


 そもそも恋愛に理解のない彼にとって、到底想像が及ばない感覚だった。



(誰かを好きになるって、どんな感覚なんだろうな)



 自身の永遠の課題とも言えることについて、茂松は思いを巡らせる。


 恋愛シミュレーションは割と得意な方だ。女子が求めている言葉を選択し、行動を選択し、一辺倒にならずそれぞれの個性に合わせて使い分けをする。


 だが、茂松の場合は言うまでもなく、ゲームに限定した話だ。現実の彼に与えられる選択肢はない。彼自身で導き、取捨選択しなければならない。



「あーあ。人生がギャルゲーみてーにうまいこと進む仕様になってくんねーかなー」


「あー、ギャルゲーと言えばお前さっきさ――」



 思わず漏らした身も蓋もない茂松の言葉に、さっきまで訊こうとして忘れかけていたことを豊島が思い出したように続ける。


 会社にたどり着くまで続いたくだらない会話に没頭しながらも、彼らは同じことを考えていた。


 俺らはこんな調子のままで、本当にいいのだろうか、と。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ