7/8 親友のためを思って
互いに一本目の煙草を吸い終わる頃には来るかと思っていたが、二人が煙草を吸い終わってもまだ彼女は現れない。
豊島は時折遠目から店内を窺っていた。レジはさほど混んでいない様子で、菜々が事務所に続いているらしい扉の向こうへ行く姿も確認できた。
制服から着替えて店から出てくるだろうと踏んでいたが、レジにいた時よりも事務所に行ってからがだいぶ長い。豊島は一旦、視線を店内から横にいる茂松の方へ移す。
茂松はしゃがみ込んで目の前の車通りを退屈そうに眺めていた。考え事でもしているのか、何も考えていないのか。傍から見ている豊島が読み取れない表情で、ぼんやりと飲みかけのコーヒーに口をつける。
そんな彼を見ていて、豊島の悪戯心が口をついた。
「…菜々ちゃん、まだ俺らで掛け算妄想してるって」
ごふっ、とお約束通りの音を立てて茂松がコーヒーを吹き出す。
期待していた以上の反応で応えてくれた彼を見て、豊島はかなりの満足を得た。
「お前ら公の場でどんな会話してきたんだ!」
「言ったろ。いつも通りに話せたって」
むせながら声を荒げる茂松の言葉を、豊島は平然とかわしてみせる。
豊島と菜々にとってはいつも通りの、サブカルチャーに精通している者にしか理解できないような話をしていただけだ。
そんな彼らよりもサブカルチャー分野に長けていると自ら豪語している茂松は、呆れを表す溜め息をついてみせる。
「人が真面目に心配してやってるってのにお前らときたら、よくもまあそんなくだらん話が出来たもんだ…」
「なんだよ、妬いてんのか」
「今それ言ったらお前じゃなくてなっちゃんに妬いてることになっちまうだろうが!」
「すまん。意味がよくわからん」
「わかってんだろ!すっとぼけやがって!」
こんなふざけたやりとりですら、彼女にとっては格好の妄想材料となることだろう。
腐れ縁であり同僚である二人。片方から、女子と楽しげに話していたことに嫉妬しているのかと問いかけられ、もう片方が意地を張るように声高にそれを否定する光景。
なるほど、腐女子が好みそうな設定とシチュエーションだ。豊島は改めてそう感じた。
「てかさ、なっちゃん遅くねーか?」
あからさまに話題を変えた茂松の切り出しに思わず苦笑しながらも、かねてから同じくそれを気にしていた豊島は、再び店内に目を向ける。
レジの周辺どころか、店内のどこにも菜々の姿は見当たらない。事務所らしき場所へ行くのを見かけたことを茂松に伝え、豊島は首を傾げた。
「もうすぐ休憩だって言ってたから、そんなにかからないと思ってたけどな」
「先にトイレでも行ってんじゃねーの。すぐ来るだろ」
そうだな、と返して豊島は二本目の煙草を取り出した。茂松も吸うだろうと思い、自分の煙草に火を点けてすぐに彼の前にライターを差し出す。
が、茂松は受け取らなかった。豊島のライターを見向きすらせず、訝しげに眉をひそめて、少し離れたところにある何かを目で追うような仕草を見せる。
「…どうした?」
不審に思った豊島も彼の視線の先を見やると、ちょうど一台の黒いミニバンがコンビニの駐車場から車道へ出ていくところだった。
車そのものか、運転手に見覚えでもあったのだろうか。死角で運転席を窺えなかった豊島は、走り去る車を目で追ったまま茂松に問いかける。
「知り合いか?」
「…たぶん。よく見えなかったけど」
営業で色んな会社の社員と面識をもつ茂松のことだ。おおかたそこまで頻繁に会うことのない、顔に覚えがある程度の人間が運転席にいたのだろう。
深く追求する気もない豊島が再び煙草に口をつけたところへ、不意に声をかけられた。
「すみません。御崎のお知り合いの方、ですよね?」
畏まった物言いの声に振り返ると、店の制服姿の女性ではあったが、そこにいたのは彼らの待ち人ではなかった。
御崎、と菜々を苗字で示した彼女は、先ほど豊島が店に入った時に奥から顔を覗かせて菜々に声を掛けていた、菜々の友人だった。
確か、菜々が「奈津美」と呼んでいたと記憶していた豊島が「そうですけど」と短く答える。
「あの、ここで待ち合わせてるって御崎から伺ったんですけど、その…彼女、今ちょっと電話対応中でして…」
歯切れの悪い奈津美の言葉に、豊島と茂松は引っかかりを覚えたが、ともかく彼女の言うことに自身を納得させる。
「少々長くなるとのことだったので、待たせてしまっていたのに大変申し訳ないのですが…」
「わかりました。彼女と少し話せたら幸いと思って寄っただけなんで、今日はこれで失礼しますね。彼女によろしく伝えといてください」
言いあぐねる奈津美の言葉を遮ったのは、勤務中で言葉を畏まらせる彼女に合わせて、営業モードに切り替わった茂松だった。
実にあっさりと、しかも真摯な言葉で彼らがこの場を引き取ることを意外に思ったのか、奈津美は目を丸くしながら答えた。
「あっ…はい。伝えますね」
「わざわざありがとね」
今度は菜々と同世代の彼女に対し、年下へ向けた砕けた口ぶりで、茂松は爽やかに笑ってみせる。それを受けた奈津美も、緊張を解いて彼に笑顔を見せる。
(…こいつの話術の使い分けはおそらく、ギャルゲーか何かの影響だな)
横でそのやりとりを見ていた豊島は、冷静にそう分析した。
「だとさ、裕太。会社戻るぞ」
「あいよ」
分析結果の報告は車内に戻ってから茂松に言ってやることにして、豊島は彼と連れだって車に戻ろうと煙草を揉み消した。
「…あの、すみません!豊島さん、ですよね?」
今日初めて顔を合わせたはずの奈津美の口から出た自分の名前に驚き、豊島は彼女に振り返る。
どこか思い詰めているようにも見える神妙な面持ちで、彼女は豊島を見据えて言葉を続ける。
「あたし、菜々から色々と話聞いてて。豊島さんのこととか、そちらの茂松さんのこととか、色んな相談受けてるんです」
畏まった言い方をやめ、奈津美は自分自身の言葉で二人に告げる。
「あの子に頼まれたりなんてしてないけど…あたし、どうしてもお二人に言っておきたいことがあって」
どちらからともなく、豊島と茂松が顔を見合わせる。
決意を固める準備を整える奈津美が次に出す言葉を、二人は不安な心境で待った。
「あの子と…菜々と、また仲良くしてやってください。あの子が、あなた方の会社にいた時と同じように」
そう静かに告げて、奈津美は深々と頭を下げる。
どれほどの衝撃を受ける言葉が出てくるのか。相当な覚悟で待ち構えていた二人が呆気にとられるほど、その願いは安易なものだった。
あの頃と同じように、菜々と接すること。飲み会なりカラオケなり、様々なやり方で遊びに誘うことは簡単だ。
だが、彼らがそれを邪魔する想いを抱いてしまったことで、彼女の期待に応えることを躊躇わせた。
顔を上げた奈津美が仕事に戻る旨を告げて踵を返すと、意を決した茂松が口を開く。
「ごめん。俺も何個か、聞きたいことあるんだけど」
呼び止められて奈津美は振り向き、茂松を見る。
「俺らのこと、なっちゃんから色々聞いたんだよね?」
「…はい」
「俺らと…どういうことがあったかも、聞いてるよね?」
「…はい」
「俺らと色々あったこと知った上で、なっちゃんと仲良くしてもらいたいって思うのは、なんで?」
「……」
「君が望むとおりに仲良く遊ぶことはできるだろうけど、その相手が俺らで本当にいいのかな…って、思ってさ」
「……」
俯いて黙りこくる奈津美を見かねて、豊島が茂松の肩を掴む。振り向いた彼を目で咎めて、彼の言葉の後に続けさせたかったことを彼女に向かって代弁する。
「悪い。行き過ぎたことを聞いた。気にしなくていいから」
「……」
「今度こそ帰るから。君も早く仕事に…」
「大丈夫ですよ」
おもむろに豊島を遮った奈津美の言葉は、茂松の問いかけに対しての答えだった。
「相手があなた方でも、菜々は大丈夫です」
断言してみせる奈津美の微笑みは、裏に何かを隠していることがはっきりとわかってしまうほど、悲しい笑みだった。
「今の菜々には……誰かを好きになったりする余裕なんて、ないですから」