6/8 ラッキースケベの潜在能力
…さすがに運転の集中力が切れてきた。
会社まで10分もかからない場所まで来てはいたが、どうしても煙草休憩がしたくなった豊島は周囲を見渡す。
開けた停車スペースに車を停めて、車外で吸うことも視野に入れていたが、運良くコンビニの看板を見つけてそれを目指すことにした。
「シゲ、なんか飲むか?」
「んー…コーヒー」
「微糖でいいな。煙草は」
「…一応要る」
「了解」
的確に短い言葉で尋ねる豊島と、間延びした返事を返す茂松。
(本気で寝るつもりだったな…)
茂松の声には、眠気と疲労の色がありありと窺えた。やりとりしているうちに駐車場に着き、豊島一人が車から降りる。
買い物を軽く済ませたら、一緒に煙草休憩を取るか声を掛けることにしよう。誘いを受けるかそのまま寝るか、茂松の意思に任せることにして豊島は店内へ入る。
「いらっしゃいませー」
はきはきとした女性店員の声に出迎えられ、豊島は無意識にその声の方向へ目を向けた。
無防備に向けた視線の先で、豊島の見知った顔が驚きの表情を彼に向けてさらに声を上げる。
「あれっ、豊島さんじゃないですかー!」
予期せぬ知人の来店に顔を輝かせて駆け寄ってきた制服姿の女性は、紛れもなく菜々だった。
コンビニで働いているという情報しか知らず、たまたま立ち寄った店が菜々の勤め先であることを想定していなかった豊島は動揺を隠せなかった。
「びっくりしたあ。急に来ると思ってなかったですよ。カナちゃんさんから店の場所聞いたんですか?もう今日は仕事は終わり?」
「あ、いや、場所は全然聞いてなくてさ。菜々ちゃんいるの知らなくて、こっちも驚いたよ。さっき契約先の保守作業終わって、これから会社戻るとこ」
饒舌に質問を繰り出す上機嫌の菜々に合わせて、豊島は何とか落ち着き払って言葉を返す。
そうなんですね、と菜々がにこやかに返したところへ、店の奥から別の制服姿の女性が顔を覗かせる。
「菜々ー。あたし裏で商品整理してるから、レジ混んだらコールしてー」
「わかったー。…あ、ごめん奈津美ー。終わったらついでにお菓子の在庫持ってきてくれるー?」
「え、今日カップ麺の納品じゃなかったっけ」
「カップ麺はさっきやったから。ついでにお菓子も品出ししたくて。頼むねー」
りょーかーい、と告げて女性は奥へ姿を消す。
慣れたやりとりが何故だか微笑ましく思えて、豊島のさっきまでの戸惑いがすっかり緩んだ。
「仕事、だいぶ慣れたみたいだね」
「そこそこです。今の子、この店に一緒に入った友達なんですよ」
そこまで言って、何かに気づいたらしい菜々が豊島に向き直る。
「そういえば、豊島さん一人ですか?契約先から戻る途中なんですよね」
「ああ…一応、車ん中にシゲ待たせてるけど」
名前を出すか一瞬躊躇った豊島の反応など気にも留めず、菜々の顔がさらにぱっと輝きを増す。
「やっぱりー。今でも二人で会社回りしてるんですねー」
「あー、まあ。今日は結構遠征したから疲れたみたいで、会社戻るまで寝てるってさ」
「そっかあ。カナちゃんさん、お疲れモードなんですね」
そう言って菜々は不意にレジの方に向き直り、あの元気な「いらっしゃいませー」の声とともに駆けていく。
豊島と普段通りに対話しながら、彼女はちらちらとレジを気にしていた。客の動きを常にチェックしていて、いつでもレジに向かう用意をしている様子が見て取れた。
レジの前に商品を置く客の前に立ち、いつものあの笑顔で接客する菜々を見届け、豊島も目的の品を探し始める。
缶コーヒーが並ぶ棚の中から、微糖とブラックを適当に手に取る。自分と茂松の好むコーヒーは大体決まっていたから、迷う必要もなかった。
それだけ選んでレジに並ぶ。豊島の前にいる客は一人だけで、しかもどうやら常連客らしく、菜々は親しげにその客と言葉を交わしているが、しかしレジを打つ動作を滞らせることもない。
瞬く間に会計まで終わったところで、豊島ははたと気付いて菜々の後ろの棚に目をやった。手際よくレジを打つ菜々の仕事ぶりを眺めるのに夢中で、自分と茂松の煙草を探すことを失念していた。
が、その必要はなくなった。豊島がレジの前に立って視線をさ迷わせているところへ、菜々がその視線の方向へ振り返りながら言う。
「豊島さんの煙草、これですよね?あと、カナちゃんさんは…これでしたっけ?」
無駄に品揃え豊富な煙草の棚から、豊島の目当ての二箱をぱぱっと取り出し、彼に差し出す菜々。
すごいでしょう?と言いたげな彼女の顔は、笑顔と言うよりドヤ顔に近い。
「よく覚えてたね。それに動きもかなりプロだ」
「コンビニなんかでプロになっても、自慢できないですよ」
自嘲しながら肩をすくめてみせ、煙草とコーヒーの合計額を豊島に告げる菜々。
豊島が財布の中を漁っていると、小ぶりのレジ袋に商品を詰めながら、菜々は思いついたように口を開いた。
「そうだ。あたしそろそろ休憩なんで、外で一緒に煙草吸いません?」
「ああ、構わないけど」
けど、の先に続けるか迷った豊島の言葉を、菜々が代わりに言う。
「カナちゃんさんも一緒に煙草休憩の予定なんですよね?」
「まあ車でそのまま寝てるって、あいつが言わない限りな」
「相変わらず豊島さんは、カナちゃんさん甘やかしてるんですね」
「…菜々ちゃん。未だに俺らで掛け算妄想してない?」
「そんなあー。してないですよおー」
「棒読み過ぎるぞ、隠れ腐女子め」
「腐女子は卒業したんですっ」
またあの軽口の掛け合いで、二人は笑い合った。
じゃあまたあとで、と笑顔で手を振る菜々に応えて、豊島も小さく手を振り返しながら店の外へ向かう。次の客に対応する菜々の声を背中で聞きながら、豊島はさっきのやりとりを思い返して思わず苦笑を浮かべた。
豊島と茂松の掛け算妄想。つまり二人が恋愛関係にあると仮定して妄想することだ。
冗談か本気か、時折彼らが親密な姿を見せたりすると、菜々は平気で彼らにその妄想を漏らしてからかうことがあった。
妄想の材料に利用されるくらいなら、別にいいか。豊島がそう独りごちて店を出ると、妄想材料のもう一人が社用車の助手席から姿を消していた。
それに気づいて店の前で立ち止まる豊島の腕が、不意に横から強い力で捕まれる。何事かと彼が事態を把握する暇もなく、腕を引かれるまま店外の端に置かれた吸い殻入れのところまで連れてこられる。
「いたの?」
「…いたよ」
誰のことかなど聞く必要もないと知っていた豊島は、寝起きを全く感じさせない茂松の真剣な眼差しに短く答える。
お前は誰から追われる身なんだ。思わずそう言いたくなるほどの焦りすら感じさせる彼の目を呆れたように見返し、そのツッコミをしまい込んで豊島は続ける。
「立派な働きぶりだったよ、菜々ちゃん」
報告しながらレジ袋から茂松の煙草と缶コーヒーを取り出し、彼に渡す。それを受け取るも、茂松は盛大に溜め息をついてみせた。
「なんでよりによってこの店なんだよ…」
「仕方ないだろ。菜々ちゃんが働いてる店知らなかったし、休憩したかったし」
恨みがましく呟く茂松に素っ気なく返し、豊島は買ったばかりの煙草ではなく、胸ポケットから取り出した煙草に火を点ける。
どうやら車に煙草を置いてきたらしい茂松は、受け取った新品の煙草の封を切って、豊島に手を差し伸べてきた。その動作で彼の意図を察した豊島は、何も言わずに自分のライターを茂松に手渡す。
「…なっちゃんと、話できた?」
借りたライターで煙草に火を点ける茂松の質問の意図を、豊島は一瞬だけ理解しかねた。
二人で話せる時間はあったのか、ということだろうか。
そうだと仮定していて、彼女と普段通りに話せたのか、ということだろうか。
おそらくは後者だ。だが豊島はどちらともとれる言葉を選び、茂松が返したライターを受け取る。
「話せたよ。もうすぐ休憩だから、一緒に煙草休憩しませんかって」
ふーん、と豊島の言葉を受け流し、おもむろにコーヒーのプルタブに手をかける茂松。
そこでようやく気づいて手を止め、ばっと豊島の顔を見張った。
「なっちゃんここ来んの?」
「そう言ったろ」
遅すぎる反応に冷静に返す豊島。寝ぼけてまだ頭が覚醒しきっていないのだろうか。
マジかよ、と声を漏らしながら頭を抱える茂松の心境は、わからないでもなかった。
「そう緊張することねーって。思春期か」
「緊張してる訳じゃねーけどさあ」
「別に菜々ちゃん、気にしてる感じ全然なかったぞ。色々あったばっかの俺とも普通に接してくれたし」
「それは…相手が裕太だから、なんじゃねーの」
「んなわけねーよ。シゲとも話したがってたし」
「そうは言っても心の準備がさあ」
本当に思春期の男子のような葛藤を漏らす37の男を、豊島は軽く睨み付ける。
「俺だって心の準備なんかしてなかったぞ。どんだけ店の中で慌てたことか」
「そこはほらお前、ラッキースケベなとこあるから。慣れてんだろ」
「言葉の使い所が違う。せめてスケベをつけるな」
「裕太のスケベは自他共に認めるべきだと俺は思っている」
「ラッキーを勝手にとるな!」
喫煙スペースでいい大人がやりとりする会話のレベルは、思春期の子供程度に思われても仕方ないと二人は思った。