3/8 彼女の強がり
「菜々ちゃんが昨夜俺に野田の話や離婚の話をしてる時は、精神的に参ってる感じなんて全然見せなかった。でも話す内容があまりにも重すぎて、とてもあの子一人で全部耐えられるわけないと思った」
「精神が全然参ってないなんてこたねーだろうよ。少なくとも誰かに愚痴聞いてもらわないと駄目だと思ったから、裕太を飲みに誘ったんじゃないか?」
「かもしれないな。たぶんだけど、あの子の話を一番聞かされたのは、俺だろうから」
「うまいことなっちゃんに利用されたな、裕太」
「だからお前は言い方がいちいち…」
皮肉めいたことを言う茂松に反論しようとして、豊島は途中で何かに気づいた。
利用された。
その一言が、豊島の中で山積みになっていた問題の一つを、ほんの少し解いた気がした。
急に口をつぐんで逡巡する豊島を、茂松は不思議そうに見つめる。
「……裕太?」
「利用…か」
「は?」
「……利用されるべき、かな、このまま…」
断片的に言葉を選び出す豊島に、茂松は咄嗟に返答しようとする。
が、彼は躊躇った。簡単に答えていいことではないと慎重に判断した。
菜々に利用されること。それが菜々にとって、豊島にとって、何を意味するのか。
茂松は危惧した。そのことを豊島にも気づいてもらおうと、慎重に口を開く。
「…それってさ、ただの同情じゃねーの?」
「同情…?」
「なっちゃんの本心はこの際置いといて、本当にあの子が裕太を好きになったと仮定する。なっちゃんの気持ちに同情するだけのお前が、あの子に利用されるままになるって決めたら、その後どうなると思う?」
珍しくすこぶる真剣な問いかけをする茂松に戸惑いながら、豊島は逡巡する。
豊島を好きになっては駄目だ。これまでにどんな葛藤を経てそこに至ったのか、想像などできるはずもないが、菜々はそう言って自分を戒めていた。
そう戒めることの辛さに涙を見せるほど耐えられないでいる彼女に、彼女の望むまま利用されるということ。
そうなったら、彼女はおそらく豊島の見せる優しさに甘え、己の戒めを解く。
「……告白されると、思う」
「で、恋人として付き合うようになる。でもお前はなっちゃんに同情して、利用されるがまま付き合っているだけだ。そんな男と付き合って、あの子は満足すると思うか?」
「…思わない」
「なっちゃんが今度こそ、幸せになれると思うか?」
「……きっと、なれない」
警告したかったことが、うまく伝わったようだ。
深く息を吐いて胸をなで下ろし、茂松はうなだれる豊島の肩に手を置いた。
「…俺らには難しすぎた。なっちゃん一人が抱えてる問題を、代わりに悩んで答えを出すには」
「…無理だったか。二人がかりでも」
「なっちゃんは強くないかもしれねーけど、少なくとも俺ら二人よりずっと強い。そういうことだ」
「だからって…」
彼女を一人にさせていい理由にはならない。そう言い返したくても、もう豊島には言葉を続ける気力がない。
決して強くなどない彼女は、自分の支えとなる存在を求めている。
豊島の前で見せた彼女の涙が、彼らにそのことを確信させた。
その存在に値するのは豊島なのか、茂松なのか、あるいは彼らの見知らぬ誰かなのか。
彼女が誰を選んだとしても、これ以上彼女の笑顔を曇らせるようなことにならないよう、彼らは切に願った。
暗がりつつある視界は憂鬱のせいかと二人は思ったが、ただ窓の外がすでに日を落とし始めていることを、彼らに告げているだけだった。
* * *
「――確かにあんたは頑張った。誰だってあんたのこと、強い子だって思うだろうよ」
俯いたまま力なく首を横に振り、彼女は対面に座る親友の言葉に否定を示した。
「強くなんてないよ…」
「確かにね。だからあんたは、その豊島さんの優しさを利用した」
「利用だなんて…!」
咄嗟に否定しようと思わず顔を上げたが、彼女の言葉で自分の後ろめたさに合点がついてしまった菜々は、再び下を向いた。
「…そう思うよね、普通」
どん底に沈む菜々の姿を哀れみの目で見つめながら、彼女はやりきれない思いで溜め息をつく。
豊島と茂松が、かつて菜々がいた会社で彼女について話していた頃、渦中の彼女は幼なじみで仕事仲間でもある奈津美を自分のマンションに招いて、昨夜の出来事を打ち明けていた。
奈津美は土曜の夜から、菜々は日曜の夜から、それぞれ夜勤のシフトを週に一度だけ任されている。日曜でこれから仕事を控えている菜々からの呼び出しに、夜勤明けで疲れているのにと最初に文句を挟みながらも、奈津美は菜々の話に付き合った。
煙草を吸わない奈津美が、おもむろに菜々の前に置かれていた灰皿に手を伸ばす。たまった吸い殻を傍のゴミ箱に落とし、空になった灰皿を彼女の前に戻した。
「ほれ」
「…ありがと」
奈津美の厚意にか細い声で応え、菜々はテーブルに置いていた煙草に手を伸ばす。
慣れた手つきで煙草に火をつける菜々が手にしたライターと、空にした灰皿を交互に見る奈津美。
菜々が好んで選びそうな物じゃない。そのことを彼女は改めて感じさせられた。
そこまで広いわけでもないが、一人で生活するにはスペースを持て余しがちな部屋。そんなマンションの一室で菜々が一人暮らしをするようになったのは、ほんの数ヶ月前からのこと。
それ以前は、この同じ部屋で生活する人間が、もう一人いた。
室内にはまだ、その男がいた跡がそこかしこに残されていることが窺える。
(あんた、こんなんじゃ忘れられないよ。前の旦那のこと)
奈津美がそれを菜々に言って聞かせるのは、もう少し先と決めていた。
今の弱り果てた菜々にとって、追い打ちにしかならないことが明らかだったからだ。
奈津美は、彼女の弱さをよく知っていた。
「好きになるのも無理ないと思うよ。あんたがあたしに言った、豊島さんの話聞いてれば」
「でも…」
疲れ切った様相で煙と言葉を吐き出し、目を泳がせながら菜々は続ける言葉を探す。
昨夜の出来事を奈津美に打ち明けた反動で、喋り疲れたのだろう。それを察した奈津美は、構わず自分の意見を続ける。
「本当に優しい人なんだね。なんで彼女できないのか不思議なくらい。昨夜だって、その最後のカラオケ以外は、お互いめちゃくちゃ楽しかったんでしょ?やっぱり相性がいいんだって」
「でも」
二度目の短い言葉で、今度は強い語気で奈津美を遮る菜々。
彼女を制したものの、やはり後が続かない。
自分の意思をうまく言い表せないことに苛立ち、そんな自分を菜々は情けなく思った。
『俺、何も見てなかったから』
不意に菜々の頭の中で、いつかの豊島が告げる。
『何も見てなかったし、聞かなかった。菜々ちゃんはいつも通りずっと笑ってたし、そのことしかもう覚えてない』
そんな風に言ってくれたのは、昨夜のことだ。
別れ際に「忘れてください」と菜々が懇願した後に、豊島は柔らかな表情を湛えてそう答えた。
何故か、彼の口から初めて聞いたような言葉じゃなかった気がした。
初めてそう言われたのはいつだったか、思い出そうとして、やめる。
思い出す代わりになるはずもないが、目の前で心配そうに見つめる幼なじみに向き直って、自嘲気味に笑ってみせた。
「…豊島さんは、きっとあたしを好きになったりしないから」
あからさまな強がりに悲しくなってしまうその告白に、奈津美は返せる言葉がなかった。
沈黙する二人の空間で、菜々は深く長い溜め息をつく。
彼女は豊島一人を指した言葉で奈津美に告げたが、その言葉の裏にもう一人の男の存在を隠していた。
菜々が「カナちゃんさん」と呼び慕っていた茂松も、自分を好きになることなどない。
彼女は一度、茂松本人の手でその想いを断たれている。
どのみち、彼女は二人のどちらにも頼るべきではなかった。