2/8 どれほど彼女を哀れんでも
沈黙が続き、互いに煙草を吸い減らす。窓の外はまだ明るいが、もう夕方に差し掛かっていることが窺えた。
さすがに話を続けることが出来ないと察し、もう帰るか次の煙草を吸うか逡巡し始める豊島の横で、不意に茂松が口を開く。
「なんで浮気なんかしたんだ、野田は」
実に端的な疑問だったが、確かにその根本的な問題を豊島は失念していた。
間を繋げるためだけの煙草を思考を巡らせるためのものに切り替え、豊島は一呼吸置いて茂松の問いに答える。
「さすがに浮気のことは詳しく話してもらえなかったけど、とにかく菜々ちゃんは慰謝料について納得いかないって言ってた」
「額が低すぎたとか?」
「いや、高すぎたからだって」
「意味がわからん」
確かに、と聞く側の立場を汲んで、豊島は詳細を付け加えて言う。
「野田が提示した額は、菜々ちゃんと付き合い始めてから離婚するまでに、菜々ちゃんに借金してた額全部、プラス菜々ちゃんに精神的苦痛を与えたことに対しての相当額」
「まあ、浮気側が払えるつもりで提示してるなら、充分だな」
「それに対して菜々ちゃんが提示した額は、野田に貸した金の半分以下」
「マジかよ。てか、なっちゃんどんだけ野田に貸してたの」
「そんなことまで菜々ちゃんが言うわけないだろ」
「そりゃそうだけど…半分以下って、なんだよ」
彼女の考えに合点のいかない茂松に、溜め息をつきながら豊島が答える。
「考えてもみろよ。相手はあの野田だ。必ず返す、完済するってあいつに言われて、お前は簡単に信じるか?」
「……信じないな」
「菜々ちゃんの立場で考えたら、なおさらだ」
「そういうことな」
ともに職場で働いていた頃の野田は、先輩達をよく慕っているいい後輩の一面を見せていた。
だが彼の同期や、後に付き合うようになった菜々は、時々彼のよくない一面を豊島や茂松に密かに漏らすことがあった。
目上の立場の者に対しては、己の本性をひた隠しにして親しみやすい後輩を演じてみせ、それ以外には隠していた本性を垣間見せることを恥としていない。
野田はそういう男だと、二人は印象づけるようになった。
「どっかから借金してでも一括で全額返してもらえたら、なっちゃんも一安心なんだろうけど」
「野田は色んなところの消費者金融からまだいくらか借りてて、有名所からのローンじゃ野田の提示額で組めるところはもうないって」
「ひでー話」
「酷い時は自分の名義でローン組めなくなったからって、菜々ちゃんに名義だけ借りて、野田が返済してたこともあったらしい。…その借金も、後から菜々ちゃんが立て替えるようになって、ほとんどあの子のお金で完済したらしいけど」
「かわいそすぎんだろ、なっちゃん…。何でそんなクズと結婚できるんだよ…」
「野田のクズっぷりは、それだけじゃない」
まだ何かあるのかよ、と歪みきった顔を向ける茂松。豊島も苦い顔で、菜々から伝え聞いた事実を口にする。
「慰謝料は月一で少しずつ菜々ちゃんに支払うことが決まって、それ用の口座を菜々ちゃんが用意した。野田は『何万かずつ』とか『その時に支払えるだけの額』とか、具体的な額を言わなかったそうだ」
「なんか、詐欺くせー言い方。絶対それ最初だけ真面目に払って誠意見せてるフリして、少し経ったら払わなくなってきて、気がついたら蒸発してるパターンだろ」
「菜々ちゃんもまったく同じこと言ってた。…で、野田が決めた支払日になって菜々ちゃんが口座を確認したら、金はちゃんと振り込まれてたって」
「いくら振り込まれてたんだ」
「1万」
馬鹿か、と思わず声を漏らす茂松。
開いた口がふさがらない様子の今の彼と同様、この話を菜々に聞かされた時の豊島も、野田に心底失望して絶句した。
「…野田の提示額も菜々ちゃんの提示額も聞くわけにいかなかったけどさ、月に1万だと菜々ちゃんの提示額でも十何年かかるんだと」
「それなのに、実際の慰謝料はその倍以上…」
「慰謝料用の口座をわざわざ作って正解でした、って言ってたよ。どうせ続かないって高を括ってるらしいけど、普段使いの口座に毎月振り込まれる野田の金で、野田を思い出したくない。それが何十年も続くかと思うと精神的にきつい、って」
「じゃあ、なっちゃんはその口座に手をつけない、ってこと?それじゃ慰謝料受け取ってないのと同じじゃんか」
「菜々ちゃんはそもそも慰謝料を受け取りたくないんだ。野田に支払い能力がないことは、最初から知ってるから」
「知ってるったって、要はなっちゃんから借りた金を慰謝料って名目で返すんだろ?受け取らなかったら、あの子の貸し損になるだろうが」
「貸した金は返ってくると思ってなかった。野田は約束通りの額を返せる男じゃないから、最初からそのつもりで金を渡していた。菜々ちゃんはそう言い切った」
「なんで、そこまで…」
「夫婦の助け合いのつもりでそうした、ってさ」
強烈なチェックメイトを豊島に決められ、怒りの収まらない茂松の反論が強制的に終局する。
立て続けに菜々を中心として起こる出来事を確かめるのに精一杯で、二人はこうして悩み言い争うことに夢中になるあまり、一つの事実を忘れかけていた。
野田と菜々は恋人同士になり、夫婦となった。
互いに相手を本気で好きになっていた時期は、確実にあったはずなのだ。
「野田に渡したキャッシュカードは金を預け入れるためのものだけど、もちろん金を引き出すこともできる。暗証番号さえあれば。菜々ちゃんはその番号をわざわざ野田に教えて、金が必要になったら引き出しても構わないとまで言った」
「…甘やかしてんな」
「野田のことは全て忘れたい。野田が菜々ちゃんに誠意を見せたくてやってることも、自分の知らないところで好きにやらせて、勝手に野田だけが満足していればいい。だから菜々ちゃんは自分の名義の『定期預金口座』を野田に作ってやったんだって」
『頭いいと思いません?これで野田に一切関わらずに済みますし』
とっておきの思いつきを自慢する、菜々の声が悪戯に豊島の頭の中で甦る。
本気で好きになったはずの相手に対して、出来ることなのだろうか。
笑って豊島に話せる菜々に対しても、菜々を顧みずに浮気に走った野田に対しても、同じ問いかけをしてその気持ちを知りたかった。
「……離婚したいって考えるほど、つらい時期もあったんだって」
「…だろうな。なっちゃんからしたら、少しでもいい結果になったんじゃないか?」
「そう思うけどさ、いくらなんでも野田がやったことは簡単に許したら駄目だって、俺も菜々ちゃんに言ってやったんだよ」
「そりゃ誰だって言うわ。俺だってもう野田を全力で殴りたくて仕方ねーし」
「夫婦仲なんてとっくに冷め切ってて、そう遠くないうちに別れるだろうなって、覚悟は決めてあったんだって。それがよりによって浮気がきっかけになるなんて思ってもいなくて、しかも浮気した側から別れを切り出されたもんだから菜々ちゃんは…」
「ちょっと待てよ裕太」
菜々から聞かされた時の怒りの再燃に任せてまくし立てる豊島を、茂松が遮る。
今まで自分の中で勝手に思い込んでいた前提と、彼の話の食い違いに気づいたのだ。
口にしないと気が済まない大事なところで中断させられて恨めしそうに睨む豊島を、まじまじと見つめ返しながら茂松はその矛盾を確かめる。
「…離婚の話を切り出したのは、なっちゃんじゃなくて……野田?」
「そうだよ」
吐き捨てるように告げた豊島の一言で、茂松のボルテージが一気に上がった。
「ざっけんなよ!なんでそれ先に言わねーんだ!そこ大事なとこだろうが!」
「…悪い。話したつもりで進めてたよ」
いらぬ誤解を与えていたことを知り、豊島が正直に詫びる。
やり場のない怒りを拳に込めて、後ろ手に背後の壁を思い切り殴り付け、苛立ちの収まらない様子で茂松は新たな煙草に手を伸ばす。
「野田が浮気して離婚したって言うから、てっきりなっちゃんから野田に言ったもんだと…」
「普通そう思うよな。悪かったよ、言葉が足りなくて」
「…お前は別に、悪くねーけど」
説明不足の豊島が悪いのではない。
一方的に別れを告げられただけの菜々に至っては、何も悪くない。
あまりにも悪いのは、野田という男だけだ。
「じゃあなっちゃんは、今まで金にだらしねー野田を支えて、その恩に報いてもらうどころか浮気されて裏切られて、浮気した側の野田から離婚してほしいって言われて、素直に受け入れたってこと?」
「……その現実に、一人で耐えてきた、ってこと」
茂松の結論に付け加え、豊島は遠い目をして向かいの壁を見つめた。
「…つえーな。死にたくなるわ、俺だったら」
「俺だってそう思う。確かに、菜々ちゃんは強いよ」
豊島が素直に本音を表したその言葉は、確か彼女本人に対しても口にしたことがあった。
『あたし全然強くないですっ!』
よくよく記憶を呼び起こす必要もなく、つい昨夜交わしたやりとりだ。
あれはその場の照れ隠しのつもりで言ったのか、それとも彼女の本音が口をついた言葉なのか。
その真相を確かめる術はない。
「…いや、強くはないらしい」
「あ?」
「菜々ちゃんが自分で言ってた」
確かめられないから、豊島は茂松の意見を聞こうと思った。