1/8 恋愛童貞達の愚考
【第二章】
「……マジで?」
「マジなんですよねえ…」
つい昨日あったやり取りを再現してみせ、豊島は盛大に溜め息をつく。
用のない喫煙室に連れ込まれた茂松は、最初のうちは早く帰りたいとぶつくさ文句を言っていたが、昨夜の豊島の体験談を聞かされるうちにすっかりおとなしくなった。
茂松が出張を終え、日曜で誰もいないであろう会社に戻ってきたのは昼過ぎのことだった。出張先から自宅に直帰した部長と違い、明日までに仕上げなければならない書類整理の仕事を一人寂しくやるつもりでいた。
ところが、誰もいないはずの社内に私服の豊島が待ち構えていた。茂松のデスクと向かい合った自分のデスクで、彼は黙々とパソコンに向かって作業を続けていた。
驚いた様相で何故会社にいるのか尋ねる茂松に言葉少なに返答し、豊島はさっさと自分の仕事を済ませるよう促した。自分と同じく、急ぎで済ませないとならない仕事でもあるのだろうかと茂松は思ったが、こともあろうか彼は茂松が一人で済ませるはずだった書類整理を代わりに進めているのだという。
どういう風の吹き回しなのかさっぱり理解が及ばず困惑する茂松だったが、普段の仕事の時よりもどこか深刻な面持ちで作業する豊島を見て何かを察し、口をつぐんで彼も自分の仕事に取りかかった。
二人がかりで取り組んだおかげで、作業は数十分とかからずに終わった。颯爽と帰り支度を進めながら手伝ってもらった感謝を述べ、晩飯でも奢ろうかと提案しようとした茂松の手を引き、豊島は会社の外ではなく喫煙室へと彼を問答無用で連れ込んだのだった。
「なんか…大事件に巻き込まれた、ってことな」
「アバウトすぎるな」
「人が休日返上で出張行ってる間にお前らときたら…」
「お前と一緒に、俺も会社を恨んでやるよ」
「…だいぶ参ってんな」
「そりゃあな…」
豊島が一部始終を茂松に打ち明けていた時間は、二人で作業を行っていた時間よりも長くなった。
いつもの定位置にあぐらをかく二人がそれぞれ置いた灰皿に、十本ほどの吸い殻。二人の灰皿を見比べると、豊島の灰皿の方がほんの少し吸い殻が多いように見える。
そこから察する必要もないほど、豊島は明らかに肩を落としていた。
「全然想像つかなかった…想像できるわけがねーんだよ。菜々ちゃんが、俺のこと好きとか…」
徐々に声のトーンを落としながら、俯きがちに豊島は新たな煙草に火を点ける。
当然のように茂松が何らかの返事をするものだと思っていたが、意外な間が開いた。どれほど深刻な話でも脊髄で言葉を返してくる男の珍しい沈黙に、豊島はその彼を横目で窺う。
心ここにあらず。そんな目で、背中を預ける壁の反対側を見つめる茂松。その視線の先に――かつての彼女の定位置に、彼の記憶の中の彼女の姿があるのだろうか。
だが、本物の菜々はここにいない。当たり前のことを自分に言い聞かせ、それを言い訳にして、豊島は口を開いた。
「……俺はさ、昨夜まで勝手に思い込んでたんだ。菜々ちゃんは、まだシゲのこと好きなんだろうな、って」
決して菜々に確かめることのできないその考えを、豊島は茂松に対しても言葉にしないつもりでいた。
彼の中で数年もの間留めていられたことが、昨夜の出来事ですっかり気落ちした豊島は、それを口にせずにはいられなくなった。
茂松の目線が豊島に向けられる。気配でそれを感じとってはいたが、自身の発言を受けた彼の反応を直視できなかった豊島は、向かいの壁を見据えながら煙を吐いた。
んなわけあるか、と頭ごなしに否定するだろうか。意外に思っているだろうか。よもや同じことを考えていた、そんなことはないだろうが。
茂松の本心を少しも想像できない豊島は、次に出る茂松の言葉に少しだけ期待を寄せていた。
「……その後、どうしたんだよ」
「は?」
「カラオケの後だよ。なっちゃん泣かせてから、お前どうしたの」
「人聞きの悪い言い方すんな」
「お前が泣かせたようなもんだろ」
「…そうだな。そう……なの、か?」
そうだろ、ときっぱり吐き捨てながら、茂松も新たな煙草に火を点ける。
自分が関わった件に触れるつもりはない。それが彼の答えだった。
思惑をうまいことかわされた豊島は、苦笑しながら仕方なく彼の問いかけに答える。
「ちょうど終了時間になったから、そこで解散。タクシーまで菜々ちゃん送ってって、俺も帰った」
「…え、そんだけ?」
拍子抜けする茂松の問いに、苦い顔で頷き返す豊島。
菜々が泣き止んだのは、思いの外早かったのだ。気まずい空気の中で鳴り出した、終了時間を告げるフロントからの電話を豊島が取った時には、彼女はすでに平然を装っていた。
当然、豊島は菜々を気遣う言葉を、カラオケ店から出てタクシー乗り場にたどり着くまで、しつこいほど彼女にかけ続けた。そのたびに彼女は笑ってみせ、ただ「気にしないでください」とだけ繰り返して応えた。
別れ際に、菜々が残した言葉を思い出す。
『迷惑かけて、本当すみませんでした。今日のことは…忘れてください』
泣いた跡が残る目で気丈に笑ってみせ、タクシーに乗り込んで彼女は帰った。
(んなこと、できねーよ…)
難題を課された豊島は、こうして無理矢理茂松を話に付き合わせることで、少しでも気を紛らわせたかった。
付き合わせる相手を間違えていることは、重々承知の上で。
そんな豊島の複雑な想いを正確に把握しているのかいないのか、ぼんやりと煙草をふかしながら茂松が正直に感想を漏らす。
「本気なのかな。なっちゃんが言ったこと」
その発言こそ、本気で言ってるのか。そう言いたげな目を真顔の彼に向ける豊島。
かつて彼女から逃げたお前が言えることなのか。どこまで彼女の本心を理解できていてそんな台詞を吐けるのか。
言い返したいことが山ほど溢れてくるが、言葉にする気力のない豊島は、力なく茂松を睨み続ける。
そんな彼の心情を察したのか、茂松はばつの悪そうな顔をしてみせる。
「なっちゃんてさ、男に免疫あるタイプじゃないじゃん。俺や裕太や野田なんかとは、仲良かったけど」
「…ああ」
「軽率な考えかもしれないけどさ、俺が駄目で、野田が駄目だったから…」
「その発想は軽率すぎるし、菜々ちゃんに失礼すぎる」
茂松の言葉を遮り、語気を強めて豊島が咎める。
だよな、と返して肩をすくめてみせ、それでも自身の考えを捨てきれない茂松は思いを巡らせた。
そして自身の軽率な発言に対して、茂松は横にいる豊島と自分自身に言い訳をする。
「誰かを好きになる感覚って、俺よくわかんねーからさ」
恋愛ドラマにでも出てきそうなその台詞を、よくもそんな真顔で言えたものだ。
そう思いながら彼に呆れかえりつつも、豊島はそれをあえて口にはしなかった。
豊島も、茂松と同意見だったからだ。
37にもなって恋愛経験がほとんどない。同い年の二人はお互いにそうであることをよく知っている。
そんな二人は、身勝手な願望を抱いた。
かつて彼女から告白を受けた茂松は、今の彼女の希望を叶えた方がいいと思った。
昨夜彼女の想いを打ち明けられた豊島は、かねてからの彼女の希望を叶えた方がいいと思った。
そして二人は、互いの期待に応えてくれるはずの、それぞれの相手に懇願する。
(裕太は――)
(シゲは――)
菜々を好きになってもらえないだろうか――と。
「…なんか、駄目だよな俺ら。人として」
「わかりきったことを言ってくれるなよ、相棒」
誰が相棒だ、とツッコまれることを茂松は期待していたが、豊島は何も返さなかった。
短いやりとりで終わったが、それぞれが何を思っていたのかはなんとなく想像できて、それ以上言葉を発するのをなんとなくやめた。