盲目の食事
12/9に修正しました。
あるところにエーテという少女がおりました。
エーテは目が見えません。しかし、エーテは自分を不自由と思ったことはありませんでした。
「今日は何を食べようかエーテ」
「お肉が食べたいわ、パパ」
エーテには父がいたからです。エーテの父は朝から晩までエーテの幸せに時間を費やしてくれる人でした。エーテの世界は父と食事、そして自分が寝て過ごしているこの部屋だけでした。
エーテが好きなものは父と、そしてお肉。エーテは自身の口の中で溶けていく肉の塊の味が特に好きでした。しかし食事に頻繁に肉がでてくるわけではありません。出てくるのは豆のスープに固いパンばかり。肉がでてくるのは本当に稀なときだけなのです。お祝いのときだけなのです。
エーテのお願いごとに、父は困ったのか大きな手でエーテの丸い頭を撫でました。
おっと、一つ言い忘れていました。そうですそうです。エーテの好きなものはまだありました。自分の小さな頭を包むほどに大きな父の手でした。多くのことからエーテを解放してくれる、優しくてスバラシイ手でした。
ザーザーと、雨が天井を叩く音が激しい日です。エーテと父の家にお客さんが来ました。お客さんは言いました。
「外は濁流に呑まれて出歩くことすら難しい。幸いここは安全なようだ。どうか雨が止むまで休ませてはくれないだろうか」
いいかいエーテ、と訊く父の言葉にエーテは頷きました。
お客さんがくるのは好きです。静かな家が少しだけ騒がしくなります。その日はお客さんがきたお祝いの日だったので、エーテの大好きなお肉が食卓にでました。もぐもぐぱくぱく。三人で仲良く食べます。一晩が過ぎても、まだ雨は止みませんでした。お客さんはまだお家の中にいました。
数日経つと、雨は止んで父が土を掘りました。野菜を作るのです。食べられない骨を砕いたそれを土に撒きます。お肉は美味しいけど、食べた後が大変です。でも、父はエーテが喜ぶならと毎日せっせと働くのです。
お客さんは雨が止むといなくなりました。また静かな家に戻りました。
家の外で飼っている山羊がめえめえ鳴きます。家の外はまだ騒がしいままです。人見知りなのか、お客さんが訪れた日の後は元気に鳴くのです。エーテは山羊の肉も好きでした。でも、エーテは山羊の姿を知りません。触れたことのある山羊は温かくて毛が軟らかでした。
その日の山羊の鳴き声は、いつもよりも少ないものとなっていました。
父がエーテの手を包みます。その手は温かでしたが、水に濡れたように湿っていました。
「悲しいことがあったんだよエーテ」
「どうしてしまったの、パパ」
「乞食に山羊を盗まれてしまったんだ」
エーテはたいそう驚きました。しかし、納得もしていました。山羊のお肉はとても美味しいのです。盗みたくなるのもわかります。
「とてもお腹が空いてたのね。とても食べたかったのね。なら仕方ないわパパ。わたしもお腹がくうくう鳴るもの」
「エーテはいいのかい? お肉がまた長いこと食べれなくなってもいいのかい?」
「だってかわいそうよ。わたしが我慢すればいいだけだわ」
「ああ、なんて優しい子だろう!」
父は感動のあまり涙を流しました。エーテの優しさに乞食も感謝しているに違いありません。父は涙を拭いながらエーテの頭を撫でてくれます。エーテのために必死に外を探し回ったのか、その手は湿っていました。きっとまた雨が降ったのでしょう。
「今日はお肉を食べようねエーテ」
「どうして? 今日はお祝いの日じゃないわパパ」
「山羊が逃げようとしているからさエーテ。乞食が持って行った山羊を見た他の山羊たちが、彼らを逃げたと勘違いしたんだ。羨ましいのさ」
それは大変です。逃げる前に食べなければいけません。
「でもパパ、それじゃ今はたくさんお肉を食べられるけど後々になって食べられなくなっちゃうわ」
「そうだね。それじゃ足のお肉だけ食べよう」
父の言葉は名案でした。逃げる足がなくなればお肉は新鮮なままでいられるからです。
その日の夜はカリカリに揚げたであろう肉でした。歯ごたえも良く、父が作ったソースが中に染み込んでとても美味しく感じました。日が経つにつれて、お外の山羊の声はだんだんと小さなものになりました。
ある日のことです。またお客さんがきました。
「この家から香ばしいにおいがする。鼻から胸にすっと溶けていくようだ。ああ、また叩いている。どんどんとお腹を叩いてくる。助けてください。お腹の中に怪物がいるのです。あなたの家で作る芳醇なにおいがわたしのお腹の中の怪物を刺激しているのです。しかし、食べれば怪物は納得してわたしのお腹から消えてしまうでしょう。どうかわたしに恵みをください」
それは乞食でした。父が言うにはガリガリに痩せこけた乞食でした。肉もすべて削り落としたような体をしていたそうです。
「怪物がいるの? それはどれほど大きいの?」
「わたしの腹を食い破ろうとするほどに傲慢で大きい怪物です。きっとあなたのお腹の中にも住んでいますよ」
なるほど。それは納得のいく言葉です。だからエーテは食べることが大好きなのです。エーテのお腹の中の怪物が、いつまでもいつまでもお腹が空いたと暴れまわっているのでしょう。その怪物の好物が、エーテも大好きなお肉なのです。今も怪物はくうくう悲鳴を挙げています。
己と同じ苦しみを抱えている乞食を哀れに思ったエーテは乞食を夕食に誘いました。乞食は感涙してエーテを讃えました。「おおなんと尊い方だろう!」
ぱくぱくもぐもぐ。三人は美味しい美味しいと言って野菜で包んだお肉を食べます。乞食はこんな肉は食べたことがないと、涙ながらにそれをお腹の中の怪物に捧げました。
乞食は大変感謝して家を立ち去りました。しかし、また次の日、次の日と乞食はやってきました。エーテは喜んで乞食と共に食事を摂りました。
しかし、父は喜びませんでした。
その日は乞食というお客さんがいるのに野菜ばかりの日でした。乞食は首を傾げて父に訊きます。
「家主さん、家主さん。今日は肉がないのですか?」
「乞食さん、残念なことにわたしの家にはもう肉がないのです」
「そんなことはありません。あなたの台所にまだ保存してある肉がありました。わたしは確かに見たのです。家主さん、あなたはどうしてわたしに意地悪をするのです」
「乞食さん、あなたならわかるでしょう。乞食であるあなたならわかるでしょう。肉は贅沢品なのです。毎日食べられるべきではない贅沢品なのです」
「しかし、わたしは肉が食べたいのです」
父が乞食に言葉を投げる前に、エーテが「乞食さんがかわいそうだわ」と言います。優しいエーテには、空腹に苦しむ乞食が哀れで哀れでたまらないのです。父はエーテが言うならば仕方がないと引き下がりました。乞食はまた肉を食べられる毎日に戻ったのです。その顔はエーテには見えませんでしたが、とても嬉しそうに感じたそうです。
しかし、肉はなくなっていきます。エーテの怪物に、乞食の怪物に食べられていきます。父は二人と自分のためにもせっせと肉とその他の具材を混ぜ込みます。エーテの笑顔を見るために。エーテの喜びをなくさないために。エーテは毎日毎日お肉が食べられて幸せでした。
「乞食さん、前よりもたくさん食べるようになったのね」
「ええ、お嬢さん。わたしはこんなに美味しい料理を食べることはめったにないのです。だから、今のうちにたくさん食べるのですよ」
「でも、それじゃわたしのお家のお肉はなくなっちゃうわ」
「それはいけません。わたしはこの家の料理が好きですからね。ええ、とても好きですから、なくなる前にしっかりと味あわないといけませんね」
乞食さんはそう言うと喋る口を食べる口に変えました。ぱくぱくもぐもぐ。エーテがお腹いっぱいになっても、乞食はまだまだ食べることをやめません。まるで、乞食の中にいた怪物が乞食に成り代わって口を動かしているかのようでした。ああ、本当に彼は乞食なのでしょうか。目の見えないエーテには何もわかりません。ただ食べる音のみが耳に届いて、何も知ることができないのです。
「ああ、おいしかった」
乞食の満ち足りた声に、エーテはそれこそ当然だと頬をほころばせます。
「おいしいに決まってるわ。だってパパの作ったお肉だもの」
「そうですそうです。一つ訊きたい事があったのですお嬢さん。わたしはこんな味の肉を食べたことがありません。これはどこの肉なのですか?」
「散歩が苦手な山羊の肉なの。パパが育ててくれたお肉よ」
「山羊なんてどこにもいませんよ」
「乞食さんには見えないだけよ。山羊はすぐに逃げるから、隠してるの」
なるほど、と乞食は頷きました。とても美味しいけれど、すぐに逃げる山羊は少し手間がかかると父も言っていました。エーテはそんな山羊をきちんと育てられる父を持って、とても幸せです。
「乞食さんはいつ逃げるの?」
「逃げる? どうして?」
「だってお客さんはいなくなるものだわ。いなくならないのはパパだけ。乞食さんはいつ逃げるの?」
「わたしはここにいますよ。わたしのお腹の中の怪物が満足してくれるまでここにいますよ」
それを聞いてエーテはあまりの嬉しさに飛び上がりました。乞食はずっとここにいてくれるからです。怪物は満足することはありません。エーテのお腹の中の怪物と一緒です。ぱくぱく食べて、どんどん大きくなるのです。もはや、エーテにとって乞食は家族同然の存在でした。
しかし、父にとって乞食はまだお客さんだから、乞食がいる食事の時間にはいつもお肉をだしていました。もぐもぐぺろり、乞食のお腹の中の怪物が大きくなっていくにつれて、乞食自身の身体も大きくなっていきました。
それから遠くない日のことでした。
乞食がぱったりと姿を現さなくなりました。エーテは、もしかして自分のことを嫌いになったのかと大粒の涙を流します。家族だと思っていた乞食の姿は、エーテの好きなものの一つになっていたのです。それはそれはとても悲しいことでした。
「違うよエーテ。乞食さんは帰ってしまったんだよ」
「帰る? どこへ帰ってしまったの? 乞食さんはずっとここにいてくれると言ってくれたわ。ずっとここでわたしと食べてくれると言ってくれたわ。あれは嘘だったの?」
「しかたないんだよエーテ。乞食さんには本当のお家があるんだ。そこへ帰ったんだよ」
「じゃあ、どうして嘘なんかついたの? 乞食さんの中の怪物が満足するわけないのに、なんでそんな嘘をつくの」
「そのときは嘘じゃなかったんだよ。だって、ここはとても安全で、満足のある場所だ。乾いていた頃のことなんてすぐに忘れてしまうのさ。だから、たまたま長居してしまっただけなんだ。だけど、彼は逃げたんだ。ここにはいられなかったんだよ」
気がつけば父も泣いていました。二人して、乞食さんがいなくなったことを悲しみました。さようなら、さようなら乞食さん。こうしてエーテは好きなものを一つ失いました。父の大きな手がエーテの頭を撫でてくれました。温かさを教えてくれる、唯一の手でした。
最後のお肉は、乞食さんがいなくなって数週間でなくなってしまいました。エーテのお腹の中の怪物はくうくうどころではなく、ぐうぐうと痛いうめき声を挙げています。
「パパ、わたしの中にも怪物がいるわ。どんどん叩くの。食べたいと言っているわ」
「ごめんね、エーテ。今はもうお肉はないんだ。山羊もすべていなくなってしまった。お肉は当分食べられない」
ごめんね、ごめんねと父はエーテに言葉をかけるばかりです。エーテのお腹の中の怪物は、その度に肉を寄こせと怒りをエーテにぶつけるのです。贅沢を覚えた怪物は以前よりも激しく暴れてエーテを傷つけます。エーテは度重なる苦しみに眉を寄せました。
怪物が、大きく大きく悲鳴を挙げていました。エーテにはそれが本当にお腹の中にいるのか、それとも自分よりも大きくなって外に出てしまったのかもわからなくなってしまいました。
エーテが苦しくて苦しくて日もわからなくなってしまったとき、香ばしいにおいが部屋に漂ってきました。お肉のにおいです。間違いありません。ああ! 怪物が叫んでいます! 食べたい、はやく食べたいと!
エーテは壁伝いに部屋から出ると、においの強い方向を頼りに歩きます。歩くときはいつも父が一緒でした。慣れていない一人歩きに、エーテの足は覚束なく、不安で胸が苦しくなりました。しかし、歩くことをやめることはありません。そこにはエーテの大好きなものがあるからです。
においのもとは台所にありました。いつも父が料理をするところでした。鼻腔に絡みつくような肉の芳醇な香りが、エーテのお腹を膨らませます。
エーテは慎重ににおいに近づきます。どんなに心臓が暴れても、怪物が走りたがっても、転がっては危ないからです。父が言っていたことでした。エーテがゆっくりと足を前に出していると、足先に何かが当たりました。それは、とても熱い台座のようでした。
目の前にあるものがエーテの道を塞いでいることがわかりました。それからは熱を感じます。それは焼き立ての肉の熱に似ています。いいえ、間違いありません。それは肉です。エーテは唾を少々喉元に流し込むと、それに手を伸ばしました。
エーテが触れたそれは、まさしく上質な肉でした。この数週間口にすることのできなかった肉でした。口の中が唾液でいっぱいになります。それもそうです。エーテはお肉が大好きだからです。毎日食べたいほど、エーテはお肉が大好きだったのでした。
恐る恐るかぶりついたその肉は今までの中一番素朴な味がしました。でも、とても美味しかったのも事実でした。もぐもぐごくり。小さな胃がお肉でいっぱいになっていきます。
ふと、エーテは思い出しました。父もお腹が空いているはずなのです。父にも別けてあげなければ。
ずるりと、手をお肉の上から滑らせた先には、覚えのある形のものがありました。いつも撫でてくれる手です。いつも握っていてくれる手です。エーテを優しく包んでくれる、大きな救いの手です。
「パパ、ここにいたんだね」
エーテは嬉しそうに微笑みました。父はずっと傍にいてくれたからです。乞食とも、山羊さんたちとも違って、父はずっとエーテの傍から離れることはありませんでした。
それから、エーテとそのお父さんは毎日一緒にいます。逃げることも、離れることもしないで、ずっと一緒にお肉を食べて幸せに暮らしているそうです。めでたしめでたし。
はじめての方ははじめまして。秋花と申します。今年も懲りずに冬の童話祭に参加させていただきました。三度目の参加となります。今年は私なりに少々趣向を凝らしてホラーチックにさせていただきました。では、楽しんでいただけましたら幸いです。




