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小隊長殿がくれたもの

作者: 明宏訊

丸太が輪切りにされる。

ごく当たり前の光景が、

目の前で展開している。

男は頭髪や無精ひげに白いものが混じりはじめた年齢。

周囲にばらまかれる木の粉とともに、

鋸が引かれたり、押されたりする。

その動きは堂に入っているとはとうてい言い難い。

気を鋸で切れば音がするはずなのに、無音とはいったいどういうことだ?

ぼんやりとした目つきでその有様をじっと視ていた。

まるで世界がすでに終わっているのに、

その神経の図太さのせいで、

まだ気付かないかのように。



自分はいったい、何処にいて何をやってきたのだろう。

そして、どうしてここにいるのだろう?

丸太は相も変わらずに輪切りにされつつある。

無音なのは、彼を思いやって神様が物理法則を換えてくれたのか。

それにしても同じことが繰り返される

まるではるか太古からそれが行われていたかのように。

当時からこの土地が存在して、

この、

激しく乾いた音を発する行為が、

いつの間にか、無音ではなくなっていたが、そもそもそういう記憶は捏造された結果かもしれない。

行為は、

日常茶飯事に起こっていたというのか?

彼はまだ青年と呼んでいい年齢だった。

彼はその音を、

耳に収めているうちに、

なにかとんでもないものを思い出して、

両耳を覆って、

人とは思えない声を出した。

それを奇声と呼ぶのは簡単なことだ。


それは自分の記憶でありながら、自分の体験ではないような気がした。




そうだからといって、まさか他人のものではありえない。

時系列の、未来や、過去に、何処まで行っても、遡っても、自分は自分だ。

だが当時といまの自分では完全に開きがありすぎる、人格という意味合いにおいて。

べつ人格とさえ断言できそうな、まさに異人種、心のありようという意味合いにおいて。

そのときのことを考えるだけで突如として、激しい頭痛と目の前に起こる火花によって、

人格が不明となる。

もしくは、人間が不明になる。

白いものが混じり始めた男がなにやら声をかけてきた。

そろそろ、昼食にしないかと言いたいらしい。

青年は不思議な気分にかられた。

もう食糧は残っていないはずだ。

それなのにどうして?

青年の無反応に、

相手は眉間に、

かすかなしわを寄せた。

それがかつて体験した誰かのことを彼に思い出させた。

そうだ。

たとえ、糧食が底を尽きようとも、

食事の時間には食器を用意しなければならない。

それが決まりごとというよりは、

自分たちが人間であることを忘れないために。

あの白いものが混じった男よりもずっと若い人だった。

いや、自分よりも若い。

あのお方はどうなったのだろう?

それにしても決まりごととはなんだろう?

何処の世界の、

どのような職業の、

決まりごとなのだろう?

突如として、さきほどの苦痛と火花が再燃した。

まるで治ったと思った傷から血が吹き出すように…。






それはかつて青年が食べていたものと同じものなのだろう。


白いものが混じった男か供与した食糧、というよりは、それにしてはあまりにも整然としすぎている。


彼はその経緯について説明を始めた。




「お母さんがお前のために、なけなしの食糧庫から用意してくれたのだよ」


何とこの男性の母親ならば、かなりお年を召しておられるに決まっている。そんな人物に兵站を担わせているとは、いったい、どんな軍隊なのか?


軍隊?


自分は軍隊にいたのか?


軍隊とは行列のこと。


各員は組織だって誰かを攻撃するために武装している。


誰か?


決まっている。


べつの軍隊だ。




いきなり、男性の頭を俯瞰していることに気付いた。


どうやら頭頂部らしい。


自分は立ち上がったらしい。


どうやら軍隊という単語を独白したらしい。


白いものが混じった男は、


それに敏感に反応する。


彼も立ち上がって、


じっと見つめてきた。


男同士で見つめ合う趣味はないのだが…。


しかも、かなり年上の男性を・・・


かすかに開かれた口から覗く歯は黄ばんでいる。


その目は血走っていて、


瞳孔はわなわなと震えて、


苛烈だが、さみしい光を放っている。


彼は自分の肩を摑んで何事かと叫んでいる。


彼の爪ごと指が食い込んでくる。


それがもたらす苦痛よりも、そこまでして訴えたいと言う心の方がよほど気になった。


彼は必死だ。


そんな眼差しを向けられると記憶は、


記憶の川をひたすらに遡上していく。


戦況は一進一退の状況を呈していた。


あのお方は、ちょうどいまの態勢で青年に訴えていた。


どうにかわかってほしい、


西の進軍経路を確保できなければ、友軍ばかりか、




我が軍、全体がこの地から駆逐されるだろう。


だからなんとかして、目の前の敵を撃破しなければならない。


相手が年上の場合、敬語を使う変な小隊長殿だった。


たまたま巡察しにやってきた高級将校が、


そんなことはだめだと激しく叱りつけていたことを思い出す。


たまたま足を痛めていて姿勢の悪かった二等兵がいた。


高級将校は、彼を見つけるや、


こうして躾けるのだと、罵りながら拳を振るったのだろう。


銃声のような鈍い音がしたし、


その後、彼は地面に転がっていたので、


おそらくはその通りになったのだろうが、青年は恐怖のあまり瞑目してしまった。


小隊長が制止する声も、


さらなる高級将校による怒鳴り声でかき消されてしまった。


自分も彼と同じ運命をたどるかと思うと恐怖の海に溺れそうになった。


やっと浮かびあがったときには、


いつのまにか、


青年は変な態勢になっていた。

ちょうど圧力に負けたように腰を折っていた。

小隊長殿はいつのまにか白いものが混じった男に戻っていた。

その双眸は激烈なまでに何かを訴えている。

それにしても、

やけに鳥の鳴き声が美しい。

こんな鳥はあの土地にはいなかったはずだ。

そうだ。

いつのまにか、

軍隊は何処かに移動したらしい。

自分は負傷でもして、意識を失ったのだろうか?

鳥類の生態が異なるほどに、

遠いところまで連れてこられたらしい。

いや、この鳥は、

幼いころに、

青年がよく追いかけたやつだ。

幼いころ?


ということはこの地は自分の故郷なのか?

撤退した先が故郷とは?

こんなところまで敵が攻めてきているということか?

いや、懐かしいような気はするがここはけっして故郷ではない。


敵といえば、

自分はいったいどこの国と戦っているのか?

しかし、

自分がそもそもどこの国に属しているのか、

それすら曖昧なままだ。

言葉によって激しく罵っていた記憶があるが、

記憶が定かではない。

記憶の川を遡上しようとしたが、

どこかの洲にでも打ち上げてしまったのだろうか?

たしか、ナント王国とか言う国の首府、ナルヴォンヌには大きな川が流れていて、

その中に形成された洲が有名な観光地になっているとか、なっていないとか・・・。

それにしても、それしても、だ。

どうしてこんなことを自分は知っているのだろう?

誰かから聴いた話だ。

あの小隊長殿だ。

自分はあの方に、大事なものをもらったような気がしてならない。

そのことが理由でいまだに頭がぼんやりしているのだ。

戦争はとっくの前に終わったというのに、いまだに、

何だと?

戦争はもう終わったのか?

勝ったのか?

それとも?

ここで一応は勝ったという可能性も考慮しなければならなくなったのは、あの高級将校のせいだ。彼のせいで階級の上下が必ずしも人間の品格の高低を意味しないことを教えてくれた。彼の拳。あれは彼個人の力というよりは、背後に、軍隊、国家という巨大な猛虎を背後に控えていた。いわば、彼は虎の威を借る狐にすぎなかったのだ。それは帰還船がほうぼうの体で故国にたどり着いたとき、いや、その寸前に小舟で逃げ去った無様な様子から、容易に知れることだった。彼のような人間はいの一番に死ぬべきだったのだ。


思い出したくないことが、次々に脳裏をよぎる。

それもこれも新しい一歩を踏み出すには必要なことだ。

あるいは古い自分は、

あの灼熱のジャングルのなかで死んだのかもしれない。

本来、

緑というものは人に安らぎを与えてくれるもののはずだった。

それが彼の地では、

人の行方を妨げる、

あるいは、妨げるものを攻撃するのを妨げる あるいは、激烈なる苦痛を感受せざるをえない、

それは人を殺すこと、

殺されること、

双方を含む、

最悪なる象徴でしかなかった。

そうだ。

小隊長殿に誓ったはずだ、

いずれ故国に帰ったら、

文字を学んで、

ここで起こったことを具に、

みなに知らせると。

彼の身体からはあまりにも美しい青い血が流れていた。

それを見て、驚いた青年は思わず口をつけたくなった。

そのとき、小隊長殿は言った。

「苦しゅうない。我が身体に口をおつけなさい。これはそなたたちにとってみれば血ではありません。我は、かつて、そなたたちに火を授けた眷属の末裔。よって、そなたらの言うところの人にありません。よって、人食に非ず…わからないのか?さっさとやりたいと思うことをせよ!私は人間ではない」

彼が何を言っているのかわからないままに口をつけて、青い液体が迸る孔に口をつけていた。それはちょうど乳首の下辺りだったかもしれない。

このような時が来るとは夢にも思ったことはなかった。青年は一度、死にかけていた。そのときに助けてくれたのは、彼だった。


そのときに吐いた言葉はよく覚えていない。

ただ、誓いとはうらはらにそれほど勉学に励んだという記憶もないのに、

太陽国語の文字はかなり覚えた。

自分が喋っていた言葉が、

こんな文字になるとは、

なんという感慨か。

新聞も、

簡単なものならば読めるようになってきた。

どうやら戦争は、

敗北ではなく、講和、といことらしい。

いや、大講和。

大きい講和とはどういうことだろう?

隣の、

大学出の兄ちゃんに聴いたら 神皇陛下は、退位、

どうやら止めるということらしいが、

そして、譲位、

新しい陛下に身分を譲るらしい。

先生によると、皇位というものは神様と同じことらしいが、

それを譲るとか、譲らないとか、できるのか、

青年には難しくてわからなかった。

とにかく、新しい陛下は、女の人らしい。

人間とは思えないほど美しい方らしい。

彼女が太陽国を滅亡から救い、

有利な条件で敵国とその軍隊と、

こうわを結んだと、

大学出の兄ちゃんが説明してくれたが、

その美しい神皇さまを仰ぐまで、

青年は理解できなかった。

ほんとうに美しい人だった。

もっともわかい伯母よりも10歳も年上だなどと、

まったく想像できなかった。


そのことよりも、小隊長殿だ。

文盲の青年に文字を教えてくれた。

命を失う寸前の彼に、

こう言ってくれた。

「死んではいけません。来世で大学に行きたいなどと言ってはなりません。現世で行くのです。いいですか?これから生きて、太陽国に戻って、大学に行くのです。私が勉強をみてあげましょう」


ところが、逆の立場になったら、彼は生きようとはしなかった。

生きようとはしてくれなかった。

青年が銃弾を身体に受けて、

血まみれになった。

これでもう戦わずに済むという直観が働いて、

苦痛の海に沈みながらも、少しは楽になった。

死という底なし沼に沈めるならばこれほど楽なことはない。

何となれば、

もう地獄の行軍をしなくてすむからだ。

ところが、

小隊長殿は、

情け容赦ないことに、

青年をその海からむりやりに引き上げたのだ。

かつて、彼に語ったことがあった。

字が読めることがうらやましいと、

大学に通うことができたことがうらやましいと、

もちろん、

小隊長殿の境涯のことだ。

そのときのことを引き合いにして、

青年ができもしないことをエサにして、

哀れな魚を釣り上げたのだ。

これから溺れて、

魚であることを止められると思ったのに、

泳ぎ続けることから解放されると思ったのに、

今度は、

呼吸すら満足にできない場所で、

エラを進化させて、

肺をつくりだせとまで命令する。

文字さえ読めぬ青年が大学に行くことなど、

それほど難しいことだとわかっていながら、

小隊長殿は残酷な人だった。

しかしもっとひどいことは、

青年の目の前で死のうとしていたことだ。

けっして、生きようとはしてくださらなかった。

けっして、生きようとはしてくださらなかった。

最後の力を振り絞って、

彼が、

その青い血で濡れた手で差し出したのは、

いちまいの手紙とコインだった。

最後の言葉は、

「誰か、文字の読める者にここまで連れていくように頼むように。そなたにとって大事なことは、すべて書かれています・・・」

最後まで雑兵にまで、

敬語を使っていたことが哀しかった。

手紙だとわかったのは、

文字のわかる戦友がそれを目にしてからだ。

彼はそれを手にしたとたんに喜んだ。

もしも言葉通りに実行してくれたならば、

彼に一時金と生涯の仕事を保障する、という内容だったからだ。

港についた彼と青年は、

彼の勧めに従って、

一路、手紙に添えられていた住所にまで向かった。

彼は親切という形容からはるかに遠い人間だった。

行く先のことを全くと言っていいほど教えてくれなかった。

小隊長殿がどのような家の出身だと、

彼は知っていたはずなのだ。

その手紙を渡されたとき、

それこそ心臓を吐きだしそうなくらいに驚いていた。


到着したとき、それは大変に辺鄙な山の中だったが、

巨大な門構えは、

かつての封建諸侯のそれを思わせるくらいに、

壮大なものだった。

まさに夢心地という感じで、

それからまるで雲の上に住んでいるという気分になっていたことを憶えている。

それからまるで雲の上に住んでいるように、

意識が曖昧になっている。

たしかに何かを勉強しているような気がする。

文字が目の前に走っていく。

それがかつてのように、

単なる線の組み合わせではない。

石ならば、ちゃんと硬くて、それを誰かに投げつけたら傷を負わせてしまう危険なもの、

水ならば、喉が渇いていればすぐに口を持って行きたくなるようなもの、

という風に、ちゃんとイメージがわいてくるのだ。

どうやら、自分にそういうものを教えてくれるのは、

小隊長のおじい様とおばあ様らしい。

前者は後者のことを「母親」と呼んでいた。

いまは引退して、

気ままな生活を送っているのだと、

先生は教えてくれた。

彼はこうも教えてくれた。

「そなたは、息子の血を飲んだのだ。だから、しばらくはそういう気分が続くが、そう長いものではない。生まれ変わりつつある」

視覚だけではなく、聴覚もぐわんぐわんとなっているので、彼の言葉もかなり曖昧にしか受け取れなくなっていた。

しかしわかることは、

おかしなことがある。

時系列的におかしいのだ。

どう考えても小隊長殿がその手紙を書かれたのは、

亡くなる直前よりも前のはずだ。

ならば、自分の死を予めわかっておられたということか。

あるいは、自死を計画なさっていたのか?

青年はどうしても前者だと思いたかった。

どうやら自分は生き残ったらしい。

だが小隊長殿は亡くなってしまった。

それだけが、

この世で唯一、確かなことのように思えてならない。


コインは・・・

老人が言うには、

孫が卒業するはずだった大学の校章らしい。

校章という言葉を理解するまで、

それほど時間は必要なかった。


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