そしてきっとわたしは、震えながらうなづくんだろう
ホラーです。軽くサイコパス気味です。
(ちょっと直しました)
鐘の音がする。この音が鳴り終わる前に席についてるやつらは、みんな『負け組』だ。
わたしは窓枠に腰かけながら、紙パックのココアを飲む。
「ねー利根ちゃん、次ってなんだっけ。サンスウ?」
机の上で携帯電話をいじる利根は、けたけた笑いながら「ちげーし、あんただけだよサンスウやってんの」と言う。
「じゃあ何。なんだっけ」
「スウガクだし。ずっとサンスウやってろバーカ」
「利根ちゃんサイテー」
教師はまだ、登場していない。数学科の教師が時間にルーズなことは、公然の事実だった。
鐘の音がする前に席についているやつは、負け組。だけれどそれには例外がある。
そう、例えば教室の後ろで震えているちっちゃい男子。あいつはただ、『勝ち組』の男子に絡まれているだけだ。このクラスで、一番の『負け組』だ。
またやってるよ、と利根が声を落とす。気分悪いよね、と。
そうかな、とわたしはつぶやいた。興味ないけど、と。
あいつの名前は確か、石田とか小松とかだった気がする。石田のほうがピンとくるから、たぶん石田だ。
絡んでいる方は、遠藤。この学校じゃ珍しく黒髪のままで、どちらかといえば幼い顔立ちだ。もっと性格が根暗であったり、自分勝手であったなら、きっと遠藤の方がいじめられていただろう。
そう、性格だ。人間は顔だなんてわたしは思わない。だって石田も遠藤も、大して変わらないし、どっちもタイプじゃないし。
「興味ねーわ」
わたしはもう一度言った。
「感じ悪ぅ。あと言葉きたない」
肩をすくめて、利根がそう言う。
その次の瞬間、引き戸の開く音がして利根は携帯電話をしまってから机から飛び降りた。
また、いつものようにわたしが一瞬遅れてしまう。それを見咎めた教師から「七瀬、行儀が悪いぞ」と小言を言われる。わたしの「さーせん」という言葉と、遠藤の「いつも遅刻されてちゃ、女の子もこうなっちゃいますよ」という真顔の発言がかぶり、うやむやになって消えていく。教師は嫌そうな顔で手を振った。
遠藤は、いいやつだと思う。
こっちを向いて、悪戯の共犯者みたいな笑顔をする遠藤が目に入り、わたしはそう思った。タイプじゃないけど、いいやつだとは思う。
石田にだって、別に一方的にいじめているようには見えなかった。どちらかといえば、遠藤がフランクに話しかけているのを、石田が上手く返せていないような感じだ。だから利根のように不快に感じる人は少なくて、むしろ『仲良くしてやってるのにいつも避けられる遠藤が可哀想』と思う人だって、少なからずいた。
わたしはそこまでは思わないけれど、いじめだとも思っていない。石田からすれば遠藤は確かにうざったいだろうし、遠藤からすれば石田はかなり感じの悪いクラスメイトだろう。おあいこなのだ、きっと。
イジメと優しさに、明確な境がないのがいけない。それが、全部悪い。
いっそ、警察でも弁護士でもいいから、『これはイジメですね』『これは悪意がありますね』とはっきり示してほしい。それだけを信じて、道を避けていきたい。そうできれば楽なのに。
遠藤と石田を見ていると、いつもわたしはそう思う。もっと簡単に、この状況を測れる物差しが欲しい、と。
ぼうっと黒板を見ていると、視界の中で光が乱反射した。少しずつ、風景がにじんでいく。眠りに落ちて、目覚めたのはちょうど授業が終わった頃だった。
#####
出された課題がさっぱりわからない。こっちは授業中寝ていただけなのだから、そこら辺も配慮してほしい、とわたしは無茶苦茶なことを思う。自分で無茶苦茶だとわかっている分、まだ理不尽とは遠いはずだ。
廊下を歩きながら、確実にわたしの時間を奪っていくであろう紙っぺらを見つめる。その時、開きっ放しの窓から風が吹いた。掴んでいたはずの紙が飛んでいく。
そのままどこかへ消えて行ってしまえばいい、とわたしはぼんやり思い、そのまま歩き続けた。
ふと、紙が何かにぶつかって止まる。ようやくわたしは歩調を早め、どこにぶつかったかを確認した。そこにいたのは、遠藤と石田だ。
「あ、ごめん遠藤。それわたしの課題」
わたしは思わずそう言って、それを回収する。遠藤はけらけら笑いながら、「まじ傑作」と言った。
「これ、見事に石田くんにぶつかってんの。ウケる。石田くんが優しくてよかったね、ねえ、石田くん」
「あ、うん、うん」
顔を赤くしながら石田は何度もうなづく。内心わたしは、遠藤にぶつかったんじゃなくてよかった、と思いながら笑った。
「あのさあ、今日」と遠藤が何かを言いかけたその時、廊下を歩いていた男子が二人、こちらを見て立ち止まった。
「あ、石田くーん、いいところにいた」
そう、軽薄に言ったのは泉だ。隣にいる大柄な男子は平田。この二人はいつも一緒にいる。典型的な、いじめっ子だ。
そんな二人に声をかけられた石田は、ずいぶんと小さくなってしまっている。
「ねえねえ、今日の鍵、お前がやってよ。俺、途中で抜けちゃうからさ」
あ、はい、と石田はまた何度もうなづく。
それで終わるはずが、口を開いたのは遠藤だった。
「えー? 今日の鍵当番、泉くんだろ。なんでも石田くんにやらせるなよ。イジメかっこ悪い、よ」
そんな遠藤の言葉に、泉と平田は鼻白む。
喧嘩になりそうだ、と思ってわたしは一歩退いた。
喧嘩になったら、どちらが勝つかは明白だった。ほとんど2対1だし、泉と平田は、遠藤よりもガタイがいい。
それなのに、
「勘弁してくれよ遠藤」
そう媚びるように言ったのは、平田だった。
「全然イジメじゃねえよ」
取り繕うように泉も言う。「石田のほうがちゃんとしてっから適任だってことだよ」と続けた。
ああそっか、と遠藤が破顔する。
「確かにそうかもね。じゃあ、よろしく石田くん」
今度こそ顔を真っ赤にして、石田は何度も何度も首を縦に振った。
「あ、はい。はい。オレ、ちゃんとやります」
それを見ながらわたしは、
なんだかわからないけれど、遠藤もちょっと性格悪そう、
とひそかに思った。
泉と平田が去って行ってから、わたしはようやく遠藤に、「なんか言いかけてた?」と尋ねることが出来た。
「あ、うん」
なんだっけ、という顔をした後で、遠藤はうなづく。
「七瀬さん、今日来る?」
「ああ、そりゃあまあ、やばいし」
そっか、と遠藤は笑う。
この学校では、期末試験の前の三日間だけ、三年生のみ夜の十時まで残って勉強会をしていいことになっている。中間試験では認められていない、期末試験だけだ。わたしの予想だけれど、この学校では、期末試験の結果のみで評価を決めているのではないかと思う。
先程の鍵当番の話も、この期末試験前の三日間だけだ。生徒が残るとはいえ、ほとんどの施錠は教員がする。ただ、昇降口と教室の鍵だけを生徒に任せるのが慣例なのだ。
「今日さ、うちのクラス全員残るよ」
「そうなの? みんな暇だね」
「ほら、今日さ、七夕でしょ。どうせ時間を奪われるんなら、星でも見ようかって話」
「へえ、確かにいい感じ」
恐らく遠藤がそう提案したのだ。そうじゃなければ、全員なんて集まるとは思えない。わたしは決して、遠藤をこわいとは思わないけれど、「遠藤が言うのなら」という気持ちには、なる。
今日は遅くなると親に連絡しなければ、あとでうるさいだろうとわたしはため息をついた。
#####
六時限目から教室に戻ってきたわたしたちは、みな一様に顔をしかめることになった。
「なんか、くさいね。なんだろうこれ」
「ニスじゃない? そんな感じのにおいがする」
ニス、といわれてもわたしにはピンと来ない。だけど嗅いだことは何回かある。この学校の美術部は、ニスなどを使う時に空いている教室を勝手に使うことがあるのだ。教師に訴えようと、部長に直訴しようとやめない。今回はうちのクラスだったのだろう。運が悪い。
そんな中でホームルームを終え、その頃にはもうにおいなど慣れてしまっていた。少なくとも、わたしは。
ホームルームが終わると、生徒たちは各々、教科書を開き始める。
いくら教えられても理解できないわたしに、利根はうちわをせわしなく動かしながらしかめ面をした。
「あんた、マジで算数からやり直したほうがいいよ」
「ひどい利根ちゃん」
「九九言える?」
「言えるよ。七の段も言える」
「バッカみたい」
ああ確かに、馬鹿みたいだとわたしも思う。でもそうやって馬鹿みたいに過ごしていることが、人生で一番楽なのだとわたしは思っていたから。きっと利根だってそうだ。その証拠に、利根だってわたしの課題を見ているだけで、自分の課題には手をつけようとはしていない。
ふと、利根は外を見る。
「星、まだ出ないね」
時刻は十八時半を回っていた。それでもまだ、空は薄い青色を崩していない。
まだだよ、と隣の女子が言う。比較的真面目に勉強をしている彼女は、三浦という名前だ。三浦は、うんざりという顔をしながら「まだ十八時半だもん。先生も帰ってないよ」
「だよね、テンちゃん今日帰るの二十時だって言ってたもん。早く帰んないかな」
そんな会話をどこか遠くの風景のように聞きながら、わたしは頬杖をつく。
テンちゃんというのは、いつも朝礼等で点呼係になっている体育の教師で、このクラスの担任だ。「後で顔を出す」などと言って、生徒たちから「保体は完璧だから帰れ」と言われていた。恐らく顔を出さずに帰るだろう。
暑いねえ、と言いながら窓を開ける遠藤の姿が見えた。確かに、吐きそうなほど暑い。風が通ってようやく、生き返った気持ちがした。
「あ、あれ、一番星かな」
遠藤が指さした先には、確かに小さな輝きが浮かんでいた。一番星が出れば、きっとみるみるうちに暗くなっていくのだろう。このうだるような暑さも、静まっていくかもしれない。
「遠藤とか」
ぽつりと、わたしはつぶやく。
「花火持ってきてそうだよね」
はあ? と利根がいぶかしげな顔をした。それから、どこか言いふくめるような調子で利根が口を開く。
「あのさあ、遠藤って、そんなにノーテンキなやつじゃないと思うよ。あいつ、頭いいもん」
「利根ちゃんって、遠藤に警戒心ありすぎじゃない?」
「いや、だってさ」
利根が遠藤を警戒しているのは、今に始まったことじゃない。最初から、そうだった。それは直感だから、どうしようもないのだと言うけれど。
「だってあいつ、さぁ……入学式の日、あたしに言ったんだよ」
「なに?」
「『お早う利根さん』って」
「は? そんなこと? なんならわたしだって言われたし。『七瀬さんおっはよー』って。確かに馴れ馴れしいなって思ったけど」
「そう……うん。でも、あたしまだ、クラスの誰の名前も覚えてなかった。中学が同じだったやつの名前も、怪しいくらいだった」
「あ、利根ちゃんわたしのことも覚えてなかったもんね」
「まあね。……やっぱり遠藤は、みんなの名前を覚えてきてたのかな」
「うーん、そうかもね、案外マメなやつだし」
「それならさあ、なんで」
「え?」
やっぱりなんでもない、と利根が肩をすくめる。それっきり、利根は遠藤のことは何も言わなかった。代わりにようやく自分の課題を開く。すぐに「英語なんて使わんよ」となげいた。
瞬きをするような一瞬で、夜は更けていく。月が輝くと、ようやく星は弾けるように広がっていった。
「あ、あれかな。織姫と彦星」
わたしが言うと、「知らない」なんて言いながら利根は教科書をめくる。どうも煮詰まってしまっているようだ。
「あんたはいいよね、評価捨てちゃってるから」
「そろそろ拾ってくるわ」
「そうした方がいいよ」
天の川らしい白いもやを目で追いながら、わたしはシャーペンを握りしめた。
点呼のテンちゃんが引き戸を開けたのは、それからすぐのことだった。時刻は、十九時半。
「おーい、先生はもう帰るから、お前ら頑張れよ」
「え、早いねテンちゃん」
「テンちゃんと呼ぶな」
扉から近い席に座っていた女子が、テンちゃんと話しているのが聞こえた。
「なんだ? 帰ってほしくないのか。最後までいてやろうか」
「いらなーい」
「だろ。もう先生たちみんな帰るから、お前らもそろそろ帰れよ」
「わかりましたー」
「あと鍵な。ちゃんとしめろ。なくすなよ」
「はいはーい」
テンちゃんはまだ何か言い足りないような顔をしていたが、最後に「気をつけて帰れよ」とだけ言って引っ込んでしまった。すぐに足音が遠ざかっていく。
一瞬の間があり、クラスが沸いた。
「先生いないってさ。酒パする?」
飲酒パーティー、それも別にいいけど。なんとなく、ありがちって感じでわたしは惹かれない。
「アルコールなんかなくても僕らなら楽しいって。一階で飲み物買ってくるよ。みんなカルピスでいい?」
そう言ったのは遠藤だ。
なんでカルピスなんだよ、と泉に突っ込まれている。
「遠藤、手伝うよ」
不意に三浦が手を挙げる。三浦は遠藤が好きなのだ。このクラスでは大抵のやつがそんなことは知っている。
「いいよ、僕、タダで自販機から飲み物出す方法知ってんだ。まだ誰にも教えるわけにいかないからさ。ひとりで行く」
「えー、遠藤わるーい」
「うそうそ、冗談。あとでみんなから百二十円回収しまーす」
じゃあ好きなもの買ってきてくれよ、と平田が笑う。「残念、カルピスです」と平然と言って、遠藤は教室を出て行った。
「なんか、焼肉くいてえよなー」
そうどこかの男子が言ったことをきっかけにして、みんながそれぞれただの雑談を始めた。もう、勉強などやっている者はほとんどいない。それなら帰ってしまっても同じなのに、みんな遠藤がカルピスを持ってくるのを待っていた。
「あー、わたしちょっとトイレ行ってくるわ」
別にそこまで行きたかったわけでもないけど、なんとなく腰を浮かせてわたしは言った。
「やべえ、女子がトイレという単語をそんなに堂々と」
にやにやしながら利根が言う。
「お花摘んで参りますわ」
「よろしくってよ」
そんな茶番を繰り広げたのち、わたしは教室を出た。
わたしは早々に事を済ませ、暗い廊下を教室まで歩く。ぼんやりと窓の外を見ると、天の川が思いのほかくっきりと見えた。
そういえば、特に願い事をしていない。一応何かをしておかなければ、損のような気もする。
『試験がなくなりますように』と、深く考えもせずに願っておいた。別に叶っても叶わなくても変わらない、そんな願い事だ。わたしはまだ、試験の点数やだれかの評価が、本当に自分の人生を左右するとは信じていなかった。
それより、遠藤はもうカルピスを買って教室に戻っただろうか、そうしたらみんなは少しずつ家へ帰っていくのだろうか、そんなことばかりを気にしながら、わたしは廊下を歩いていた。
少し遠くから見た教室は、賑やかに、朗らかに、わたしが出た時と何も変わっていない。わたしは心から『このクラスでよかった』と思う。
入学する前から、この学校にクラス替えがないことを知っていた。これから三年間、嫌でも一緒に過ごしていかなければならない人たちとの初対面。入学式の日はとてもこわかった。もちろんいい印象のやつばかりではなかったけれど、総じれば当たりだったとわたしは思う。
教室に近づいていくと、何やら人かげがうずくまっているのが見えた。気分が悪くなったのだろうか。昼間よりは暑くないが、確かに熱中症になってもおかしくはない気温だ。そう思って、わたしは声をかける。
「大丈夫? スポーツドリンク買ってこようか?」
影はまるで動かない。教室のなかのにぎやかさに、わたしの声はかきけされてしまったようだ。
もう少し近づいて、わたしはまた「大丈夫?」と尋ねる。ようやく、そいつは振り向いた。石田だった。
「なんだ、石田じゃん」
わたしはちょっと笑う。そういえば石田は、授業が終わってから、どこにいたのだろう。教室のなかにいたのかもしれないが、どうも思い出せない。
「先入るよ」と言いながら、わたしは引き戸を引いた。しかし、開かない。
「あれ? たてつけが悪いな」
「たてつけじゃないよ」
初めて石田が口を開いた。いつもとはまるで違うはっきりとした物言いに、わたしは少したじろぐ。
「オレが鍵をしめたんだ」
「え……なんでそんなことすんの? イジメ?」
唐突に石田は笑いだした。わたしは驚いて、開かない引き戸をまた開こうとする。
その時、石田が素早く手に持った何かを動かした。それはマッチだった。ぼうっと一瞬、炎がゆらめく。
石田は火のついたマッチを、足元にある教室の小窓から投げ入れた。次の瞬間には、ボン、という音と共に勢いよく炎があがっていた。
「ねえ、七瀬さん」
ゆっくりと立ち上がって、石田は笑う。
「なんでさ、今日。遠藤にだけ謝ったの?」
「え?」
「紙、ぶつかったの、オレだったのに」
「あ、ごめん……」
教室の中は紛糾していた。爆発は一瞬で、それが収まった今は、ただ美しいほどの炎がクラスメイトを包んでいるだけだった。
何か、油のようなものが敷かれていたのだろうか。それを燃料とする炎自身、何か液体のような動きを見せていた。火の上がっていない教室の中心に人が集まりつつあるが、いつまでもつのかわからない。
「それとオレ、石田じゃなくて小松だから」
そうつぶやいて、石田は背中を向けた。誰かの悲鳴が、静かな足音にまじる。わたしは、呆然とただその背中を見送ることしかできなかった。
教室の中で何かが割れる音がする。戸惑いを多分に含んだ怒声が響き、わたしはハッとしてまた引き戸を開こうとした。開かない。どうしても、開かない。
やがて、教室の窓際にいた泉が「窓から飛び降りろ」と叫んだ。どうだろうか、とわたしは思う。ここは三階だ。
恐る恐るというように窓から身を乗り出して下を見る泉を、そして平田が突き飛ばした。一瞬の沈黙が起きる。
人ひとりが落下した音が、わたしにも聞こえた。
「だめだ、飛び降りても死ぬ」
静かに、平田が言う。
それを試すために。
わたしは、自分がひどく震えていることに気づいた。
そんなわかりきったことを試すために、人を突き落としてみたんだ。
泉と平田は、仲が良かったと思う。いつも一緒にいたし、いじめっ子気質どうし、恐らくお互いしかいなかったのだろう。それなのに、殺した。事故じゃない。その手で、突き落としたのだ。
ふと、先ほどから力の限りという強さで殴られている扉をわたしは見た。叩いているのは、利根だった。
「七瀬、七瀬」
わたしはそっと、扉に触れる。わたしが気づいたことで満足したのか、利根は扉を叩くのをやめた。
「七瀬、あたし」
どこか冷静な顔で、利根は続ける。
「七瀬のこと、知ってたよ。中学の時、あたしこんなんだから友達いなくて、生意気だって先輩にいじめられてて、でも七瀬……あんただけは、何にも考えてないような顔して、あたしを仲間に入れてくれた」
利根が泣いているのを見るのは、初めてだった。わたしは笑う。頬がひくついた。わたしも泣いていた。
「だって何も考えてなかったんだもん」
「バッカだねぇあんた」
あのね、と利根はどこか嬉しそうに口を開く。
「中3の時、ジュースじゃんけんしてたじゃん。それで七瀬が負けてさ、女子全員のジュース買うことになって、あたしにも配ってくれたじゃん。普通みたいに。それが、すごく嬉しくて。ずっと言いたかった。ありがとうって」
「なに言ってんの? 普通じゃん」
「だってあたし、あの時じゃんけんに参加してなかったんだよ」
「気づかなかった」
「バーカ」
待ってて、とわたしは拳を握ってつぶやく。きっと鍵を持って帰ってくるから。それまでどうにか、と言いかけたその時だ。
利根が誰かに突き飛ばされて、目の前から消えた。焦りを含んだ、怒号が聞こえる。
「友だちだからって、利根だけ助けるのかよ」
そうして一気に、扉に人が押し寄せた。
利根は、利根はどこに行ったのだろう。慌てて視線を下にずらせば、何人もに踏まれて苦悶の表情を浮かべる利根の姿が見えた。
「待って、みんな。わたし、みんなのことまだ助けられない。だから、」
そうやって利根を踏みつけたりしないで。
わたしは半泣きの状態のままその場にへたりこんだ。ようやく、足元の小窓が目に入る。
「あ、利根ちゃ、利根……」
子どもが通れるか通れないか、そんな小窓をのぞきこむと、ちょうど油がまかれていたのだろう。炎でさえぎられて中が見えない。
手を突っ込むのを躊躇していた、その時だ。
炎から、液体のようなものが飛び出して、わたしの手首をつかんだ。思わず悲鳴を上げ、わたしはのけぞる。
液体だと思ったものは、人の腕だった。皮膚は剥がれ落ち、赤いものがぬるぬる光りながら流れている。
熱い。掴まれたところが、火を吹いているように熱い。そして少しずつ、中へ引きずり込まれていく。
「やめて、やめて。ごめんなさいわたし、」
そっちには行けない。行きたくない。
どうにか抗おうと身をよじる。その時、遠くから何かの音が聞こえた。床とゴムがこすれる高い音。足音だ。ゆっくりと、確実にその足音は近づいてきた。
いしだ、とわたしは呟く。
「いしだ、ごめん。謝るから。みんなのことを助けてあげて」
そう口走ってはみたものの、足音が近づいてくるたびに体が震えた。石田がわたしを殺しにくる。そうとしか、思えなかった。
「石田が、殺しに」
口に出せば、目に涙が浮かぶ。
掴まれた手首は、いつのまにか氷のように冷たくなっていた。
ついに足音が、わたしの真後ろで止まる。
「七瀬さん」
心臓が悲鳴をあげそうなほど激しく動いて、なんだか目眩がした。吐きそうだった。
「七瀬さん、大丈夫? なにしてるの?」
わたしはゆっくりと振り向く。そこにいたのは、遠藤だった。
わたしは力が抜け、そのまま声をあげて泣いた。遠藤は目を丸くしながら教室を見て、「地獄絵図ってこのことだね」と笑う。
それから遠藤は背負っていたリュックからカルピスを二本取り、リュックの方を教室に押し入れた。
「みんなー、差し入れ。これで試験勉強頑張ろうね」
はい、七瀬さんも。
そう言って渡されたカルピスは、すっかりぬるくなっているようだった。
「はあ、百二十円はどこから回収すればいいんだろう。四千円の損だ。まあいっか、行こうよ七瀬さん」
そう言って遠藤は、わたしの手首を掴んで離さない誰かの手を外した。外すとき、ぽきぽきと痛そうな音が響いた。
遠藤が何も言わずに歩いていく。わたしも一度だけ教室を振り向いて、遠藤の後に続いた。
「遠藤」
「なに?」
「石田が」
「うん」
「石田ってさ、名前……」
「小松だよね、知ってるよ」
そっか、とわたしは呟く。
わたしの心はきっと、教室の前で落としてきてしまったのだろう。そして、教室からわたしを見つめているのだ。わたしが、みんなが。その視線をぼんやりと感じながら、わたしは歩いていた。
「どうしよっか、七瀬さん」
前を歩きながら、遠藤がこちらを振り向く。
「どこから出られるかなぁ。どこも閉まっているみたいだ。先生たちが鍵をしめちゃったんだね。昇降口はあいてるかなぁ、どう思う?」
「開いてないと思う。石田が、鍵を持ってるから」
「僕もそう思う。じゃあ、石田くんに会いに行こうか」
わたしは立ち止まって、遠藤のことを見た。「コワイの?」と遠藤が言う。わたしは途方に暮れて、うなづいた。
「じゃあ、学校ぜんぶが火だるまになるまでそうしてれば? 僕は石田くんに鍵をもらって家に帰るから」
そう言って遠藤は歩いて行ってしまう。もう振り向かなかった。遠藤の背中が小さくなっていく。わたしは「待って、置いていかないで」と震える声で言い、遠藤を追いかけた。
まだ静かな学校を歩く。他のクラスのやつらは、みんな帰ってしまったらしい。きっと、鍵当番のクラスより長く残っていれば、そのまま鍵当番を押し付けられるからだろう。
ふと空を見れば、天の川が夢のように綺麗だった。あの空と、今のわたしたちの状況と。どちらが夢なのかわからない。どちらも現実だとは、とうてい思えない。
後ろを振り向くと、火は勢いを増して学校を飲み込もうとしていた。もう、あちら側には戻れない。
不意に遠藤が立ち止まる。わたしも立ち止まって耳をすませると、進行方向から、だれかの走る音が聞こえてきた。
「遠藤」
「誰かいるね」
しばらくそのまま息をひそめていると、曲がり角から、女子生徒が飛び出してきた。隣のクラスの、斎川だ。わたしたちをみて、泣きだしそうな顔をする。
「え、遠藤、七瀬……これ、どうなってんの」
たすけて、と斎川は戸惑いながら言った。わたしは顔を引きつらせて「ごめん」と呟く。冷静なのは、遠藤だけだ。
「うちのクラスはみんなこっちにいるけど、二組とか三組は? そっちにいるの?」
嘘と真実の間のようなことを平然と言って、遠藤は斎川の向こう側を見る。
「あ……うん。うちのクラスは三人しかいなくて、他のクラスも三人とか四人とか。みんなあっちにいるよ、どの窓もあかなくて、一階に降りようと思ってたの」
「小松くんのこと見なかった?」
「え? 見たよ。あっち」
「小松くんが鍵をもってる」
「ほんとに? じゃあ、追いかけてみるね」
そう言って斎川はわたしたちに背中を向け、来た道を戻り始めた。
まだ残ってるクラスがあったんだね、と遠藤が独り言のように呟く。
「じゃあ、誰かが通報しているかもしれないね」
そんな遠藤の言葉に、わたしは「そうか」と思った。助けを呼びたくて仕方がなかったのに、通報するなんて考えは浮かばなかった。誰かと通信するという考えさえ、出てきはしなかったのだ。
「じゃあ、助かるかな」
「その前に学校ぜんぶ燃えちゃうかもしれないけど」
「……わたしたちも、小松を追いかけよう」
恐る恐る足を運ぶわたしに、遠藤が「待って」と声をかける。
「こっちから行こう」
「なんで? 小松はあっちにいるんだよ」
「そこ、床が濡れてるからさ。危ないよ、こっちから行ってもきっと石田くんに会えるよ」
「いしだ? ああそっか、石田だね、間違えちゃった」
確かに、よく見れば床が濡れているようだった。それくらいで、とわたしは思ったが、うなずいて大人しくついていくことにする。
そうして後ろを向いたその時、突然背中に熱気を感じた。驚いて振り向くと、わたしの背中スレスレに炎が上がっている。先程まで、わたしたちが立っていたところだ。
遠くから、斎川やだれかの悲鳴が聞こえる。
「遠藤! 遠藤!」
振り向きもせずに歩いていく遠藤を、わたしは呼び止める。遠藤は、立ち止まらない。
「行こう、七瀬さん。二階はもうだめだ。石田くんも一階にいると思う」
床にまかれていたのは、油だったのだろうか。わたしは自分の靴に油がついていないか確認して、遠藤を追いかけた。「そうだね、そうだよね」と、自分を納得させるように唱えながら。
どうにかわたしたちは、階段まで歩いていった。手すりが熱かった。
とん、とん、とこぎみ良く階段を降りる音。わたしたちの足音ではなかった。わたしたちよりも先に、この階段を降りているやつがいる。わたしたちは顔を見合わせて、階段をかけ降りた。
「石田!」
足音が、止まる。
丸まった、小さな背中が見えた。
「石田、待って」
ようやく、石田が振り向く。手には小ぶりなナイフが握られていた。わたしは躊躇して立ち止まる。
「七瀬さんは知っていたけど、遠藤もいたんだ。教室の中にいるんだと思ってた。でも、そうだよな。遠藤がみんなと死ぬわけないよな」
失敗だ、と石田はひとりごちた。「七瀬さんだけなら絶対に来ないと思ってたのに」と。
「どうしてこんなことするの」
わたしは気が動転していて、そんなどうでもいいことを聞いた。石田は薄い笑みを浮かべる。
「チャンスだと思ったんだよ。これが、元に戻れるチャンスだって。オレに戻れる最後の」
「何言ってるの?」
「七瀬さんもわかるよ、そのうち」
それから思い出したように、石田は遠藤を見た。
「ぜんぶお前のせいだよ、遠藤」
「僕の?」
「ひとつ教えてくれよ。どうして、オレだったんだ」
遠藤は首をかしげて「何が?」と言う。しかしすぐ、馬鹿馬鹿しくなったかのように笑った。
「入学式の日、石田くんってすごくいい顔してたから。『一発ドカンと笑わせてやろう』みたいな、そんな風にソワソワしていて、僕、君と仲良くなれそうだなぁと思った。だから声をかけたんだよ」
わたしも、入学式の日の記憶をよみがえらせる。確かに遠藤は石田に声をかけていた。どんな風に? 『石田くん、携帯持ってる?』と、そう言っていた。石田は、初めから『石田』だった。
それから、遠藤はクラスのほぼ全員に声をかけていたけれど、連絡先を聞いていたのは石田にだけだった。気に入ったから、それだけだろうか。否、そんなことはどうでもよくて。
『オレ、石田じゃなくて小松なんだけど』
出鼻をくじかれたように、当惑したようにそう言う石田の顔を思い出す。なぜ忘れていたのだろう、こんなに印象的な出来事を。
『あ、そうなの? ごめんね。本当にごめん。でも、なんか石田のほうがしっくりくるよね、それで、石田くんの名前はなんでしたっけ?』
『そういえば石田だったかも……ってそんなわけないだろ』
その時石田は、困っていたのかもしれない。だけれど話を合わせてへらへら笑っていた。その日から三年間同じ教室で過ごす人間に、強く当たれなかったのかもしれない。もしそれが石田ではなく、泉や平田であったなら。遠藤は確実に孤立していただろう。
しかしわたしたちはその時、急速にはっきりした線引きがなされるのを感じた。『いじめるかいじめられるか』の前段階、『いじるかいじられるか』という線引きだ。わたしたちは、どうしても遠藤の方に行きたかった。
『ウケる、石田と小松じゃ全然ちがうじゃん。あだ名にしちゃえば?』
そう言ったのはだれだっけ、わたしだっけ、ほかの誰かだっけ。
『あだ名つけようよみんな』
そう言ったのは、遠藤だったと思う。そんな提案をするのはいつも遠藤だ。あだ名なんてつけたって、それから呼ぶことはほとんどないのに。それでも『石田』だけ残ってしまったのは、遠藤がそう呼び続けたからだ。
入学式の日、わたしたちは遠藤のおかげで、少しだけ仲良くなることが出来た。それは、事実だ。
意識がようやく、現在に戻ってくる。先ほど、もうずいぶん昔のように思えるけれど、つい先ほど教室で利根が言っていた。
『……やっぱり遠藤は、みんなの名前を覚えてきてたのかな』
『それならさあ、なんで』
なんで石田の名前だけ間違えたんだろうね。
その答えは簡単だ。石田は、クラスの不平や不満をため込む袋に、選ばれたのだろう。それによって遠藤は、クラスを間接的にコントロールするすべを得たのだ。
石田はもともと、明るくて調子のいい生徒だった。ようやくそう思い出して、わたしは顔をゆがめる。人の人格は、三年間でここまで変わるものなのだ。
「ああそうだ」といきなり遠藤が声をあげる。驚いた石田はナイフを構えた。
「石田くんのこと、すっかり忘れてたよ」
「は?」
「カルピス、僕と七瀬さんの以外教室に投げてきちゃった」
「カルピス?」
「ごめんね、石田くん。そもそも石田くんのカルピスって、買ってなかったかも。いらないかなって思ったから」
一瞬、石田が気の抜けた顔をするのがわかった。不安そうな、情けない顔だ。しかしすぐにナイフを持つ手に力を込めて、悲鳴のような奇声をあげた。わたしは思わずその場で尻餅をつく。
石田が、遠藤を刺した。わたしからはそう見えた。
「ぜんぶ僕のせいだなんて、悲しいこと言わないでよ」
遠藤の声は相変わらず落ち着いている。その場から逃げ出そうとする石田を突き飛ばして、彼はナイフを片手にもてあそんでいた。その手からは血があふれていたが、他のどこも怪我をしている様子はない。
「僕のことが大好きだったんだよね、石田くん。僕しかいなかったんだよね。僕がどこかに行こうとすると、すぐについてきたもんね。たくさん僕が守ってあげたよね」
石田はもう、立ち上がる気力もないようだった。そんな石田に、遠藤は近づく。石田がひどくうめいた。
動こうとしない石田の胸ぐらを掴み、遠藤は微笑んだ。わたしは、とっさに目をそらす。
「お疲れさま、石田くん。僕らとってもいい友達だったよね」
音は、聞こえなかった。ただ怯えたような呼吸音が、死にかけのねずみのように「きゅう」と言ったあとで、苦しげなものに変わっただけだ。
「七瀬さん」
遠藤に呼ばれて、わたしは恐る恐る振り返る。遠藤は頭から血をかぶって、笑っていた。
ちらりと石田を見る。階段の隅で転がりながら、わたしを恨めしそうに見ていた。首のところがざっくり裂けていて、肺にたどりつけなかった空気が血と一緒に穴から吹き出している、そんな音がした。
「鍵、あったよ」
血にまみれた金属をかかげて遠藤はそう言う。
迷っている時間など、わたしにはなかった。
立ち上がったわたしは、遠藤に向かって突進する。赤く染まったナイフが見えた。それでもこわばった体はそのまま遠藤にぶつかる。落ちた鍵を拾って、わたしは走った。
逃げなければ、走らなければ、殺される。あんなふうに、簡単に。首を二つに裂かれて、殺されるんだ。
走った。気づけば辺りは真っ赤に燃えていて、それに気づいた瞬間に汗が吹き出す。
「先生、おかあさん、いやだいやだ死にたくない、いやだたすけて」
いつもは気にしたことがない昇降口への距離が、何よりも鬱陶しい。遠い。
熱風の中を走る。転びそうになって床に手をつけば、火傷しそうになって目に涙が浮かんだ。
心臓が体の中を暴れ回っているみたい。体育館の中を、弾んで止まらないバスケットボールみたい。どこかがたまらなく痛い。走らなきゃ、逃げなきゃ、走らなきゃ。
ようやく昇降口が見えた。わたしは立ち止まって肩で息をする。酸素が足りないと思った。頭がくらくらした。
鍵を見る。昇降口は扉が三つあって、この鍵でどれかが開くはずだ。試す時間が惜しいけれど、どこの鍵だかわからなければ使えない。右から順に試していく。なぜか、全て開かない。パニックになりながら、わたしはもう一度、左の扉の鍵穴に鍵を突っ込んだ。
「ダメだよ、もっと丁寧に入れないと。古いんだから、鍵も扉も」
遠藤の声だ。わたしは振り返らずに、必死で鍵を回し続けた。
「一番右の鍵だよ、それは」
そう言われてようやく、わたしは左の扉から離れる。うめき声が、自分からもれていることに気づいた。
「ねえ七瀬さん」
あまりにも、優しい声だった。
「そんなに逃げたいの?」
逃げたいに、決まっている。死にたくなかった。もっとやりたいことがたくさんあった。
「みんなを置いて、ひとりで?」
おさまっていたはずの心臓が、また早鐘を打つ。罪悪感を大さじ一杯入れた、焦燥感だ。
「『どうして無事に帰ってきたの』」
そう、誰かの真似をして遠藤は言う。
「『お前だけひとりで、みんなを見捨てて、どうして帰ってきたの』」
わたしは鍵を握りしめて、立ち尽くしている。そんな遠藤のだれかの真似は、わたしの耳には確かに、特定の誰かの声で聞こえた。
親、教師、遠くの友達、死んでいったクラスメイトの家族、顔も名前も知らない善良な一般人。
わたしが、悪いんじゃないのに。
「利根さんも」
唐突に遠藤が出した親友の名前に、わたしの肩は震えた。
「仲がよかったんでしょ? 今ならもしかして、間に合うかもよ」
間に合うわけがない。そんなことは遠藤だってわかっているはずだ。それなのにそんなことを言う、意図がわからない。
だけれどその言葉が、わたしの体の動きを止めていた。もっと言えば、利根とした約束が、『必ず鍵を持ってくるから』というあの約束が、わたしの逃避を許さなかった。
「どうすればいいの」
わたしは振り向いて、遠藤を見る。
「ねえ遠藤、わたしどうすればいいの」
「死んじゃえば?」
もう、火は遠藤の後ろまで迫っていた。パチパチと燃える音だけが響く。
「死にたくない」
「みんな、死にたくないけど死んだ」
わたしは荒い呼吸を繰り返しながら、足を動かす。それは遠藤の方に、確実に死の方向に動いていた。
「あんたが、ぜんぶあんたが悪い」
「ちがうよ、僕はなにもやってない。学校を燃やしたのは石田くんだ」
「そうさせたのは、」
「僕だけじゃない、みんなだ」
そうだ、そんなわかりきったこと、だれも気づかなかった。
また一歩、わたしは踏み進める。
「みんな、みんな頭がおかしい」
石田も遠藤も、友達を実験的に突き飛ばした平田も、利根を押しのけて自分だけ助かろうとするクラスメイトも。
その目は、人間じゃなかった。
「そうかなぁ、七瀬さん。みんなかなり正常だったと思うよ。僕と同じくらいに、君と同じくらいに」
わたしも、みんなを見捨てて逃げようとした。そんなわたしはだれと同じ目をしているだろう。きっと、みんな等しく濁った目をしているのだろう。わたしは、鏡を見たくないと強く思った。
また一歩、足は動く。
「ひと殺し、クズ、死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ! あんたさえいなければ、こんなことには……」
「ならなかった? 本当に?」
「やめてよ! やめて……」
わたしは遠藤の目の前に、たどりついてしまった。
遠藤が静かにわたしを抱き寄せる。耳元で、規則正しい呼吸音が聞こえた。
「お疲れさま、七瀬さん。ここまでよく頑張ったね」
わたしは泣きながら「殺したい、死にたい」と言っていた。それからもっと何かを口走りながら、わたしは段々と眠りについた。遠藤はそれまでずっと、わたしを抱きしめたままでいた。
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わたしは利根を裏切らなかった。約束は守れなかったけれど、裏切ることはしなかった。
『嘘だよ、七瀬だけ助かったじゃん』
そうくすくす笑うのは、確かに利根だ。
ちがう、わたしは逃げなかった。逃げようとしたけれど、踏みとどまった。それは、利根が、みんながいたから。
『なにが違うの? 死にたくなかったんじゃん。よかったね、七瀬。助かったんだよ』
違う違うちがうちがうちがう。
わたしは耳をふさぎながらうずくまった。見たくなかった。
皮がはがれおちて、どろどろのままわたしの足をつかむ利根が、そこにいる。
『あんただけ、助かったじゃん。よかったね』
わたしは、目を開けた。その手にはいつのまにかナイフが握られていて、わたしは。
ナイフを握りしめて、わたしは、利根を。
わたしが悪いんじゃないのに。そう叫びながら、わたしは。
利根を、刺した。
「七瀬さん」
そう呼びかけられて、わたしは本当の意味で目を開ける。横になったまま息が上がっていた。目の前は薄汚れた天井で、点滴の落ちる音が聞こえた。
「おはよう」
そう声をかけるのは、遠藤だ。元気そうでよかった、とクラスメイトだったころのように笑う。
わたしは震えながら首を横に振った。汗がじっとりまとわりつく。
「ねえ七瀬さん」
不意に遠藤は立ち上がり、わたしの顔をのぞき込んできた。
「僕のことは嫌い?」
なにも言えなかった。こわかった。
無言のまま震えるわたしを見て、遠藤はにっこり笑う。じっとりしていて冷たそうな、夏の夜空を思わせる笑顔だった。
「もっともっと遊ぼうよ、七瀬さん」
わたしは何も言わない。遠藤も、もう何も言わない。
ただ点滴の落ちる音だけが、規則的に聞こえるだけだった。
遠藤「お疲れさま、読んでくれたみんな。ここまでよく頑張ったね」
オバケが出ないのに七不思議のほうにも参加しようという厚かましい作者が一番の恐怖では。