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11月24日。腕時計を確認すると時刻は午後1時30分になろうとしていた。私は駅に併設している小さな駐車場に車を停める。
車から降りると、警備員だろうか、制服姿の男性がチラリとこちらを見たがすぐに視線を逸らした。こんな小さな駅に警備員が必要なのかと少し疑問に思ったが、私は目的の場所に向けて歩き出す。
日中とはいえもうすぐ12月、季節は冬である。風に当たると肌寒く、目的の場所はすぐそこだと考えてコートを車の中に置いてきたことを少しだけ後悔した。
目的の場所は蔵町駅近くの喫茶店。
蔵町駅というのは前崎駅から2駅離れたところにある。蔵町自体それほど栄えている町ではなく、平日のこの時間は駅前の人通りもほとんどない。
目的の場所である喫茶店は相手が指定してきた。その店には何度か訪れたことがあるので場所はわかっていたが、残念なことに駐車場が併設していない。
電車でくることも考えたが、この後に別の場所で人と会う用事があったので仕方なく車で来た。駅に無料の駐車場があったことはラッキーである。
店には1分程で着いてしまった。約束の時間は午後2時。少し早く来すぎたか。
まだ時間があるのでホットコーヒーでも飲んで温まりながら待とうと店に入ったのだが、そう広くない店内を見渡してみると相手と思われる女性は既に来ていた。
店内はカウンターが10席程で、その後ろに小さなテーブル席が3つある。その一番奥のテーブル席に彼女は座っていた。サングランスを掛け、姿勢良く座っている。
彼女と私の他には、カウンターにお客が2人、従業員が1人いるだけである。
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」若い女性の従業員がカウンターの内側から笑顔で話す。私はその従業員に軽く会釈をし、一先ず奥のテーブルへ向かう。
近くまで行くと気付いたのか、彼女がこちらへ向いた。
「こんにちは。千代早百合さんですね?」私は彼女の傍に立ち、ゆっくりと話した。「初めまして、真希史です。お待たせしてしまい、すみません」
「いえ、私が早く来すぎたのです。お気になさらずに」彼女は私のほうへ小さくお辞儀した。
私は彼女の対面の席に座る。ふと見ると、彼女の傍に杖が立て掛けられていた。
店員がこちらへ注文を訊きにきたので、ホットコーヒーを頼んだ。
「千代さんは何かお飲みになりますか?」彼女の前には既にコーヒーカップが1つ置かれていたが、中身が少なくなっていたので訊いてみた。
「いえ、結構です。ありがとう」彼女は口元を少し緩めて微笑んだ。
彼女の服装はジーパンにセーターというラフな格好である。少しウェーブがかかった髪の毛は、肩にかかるくらいの長さに伸ばしており、茶色に染められている。今はサングラスを掛けているが、それほど目立った容姿ではない。
どこにでもいそうな普通の女性。
しかし、凛とした佇まいからは何処となく気品が感じられる。
私の目の前にいる女性、彼女が今回の依頼人である千代早百合だ。
彼女については、以前から名前は聞いたことがあり、画家として活躍していると記憶していた。
調べてみると、その筋では有名な人物らしい。私は絵にはそれほど興味はないので価値はよくわからないが、彼女の作品は数百万円で取引されることもあるという。彼女は私より年下であり、まだ20代のはずである。実際、こうして会ってみるとよくわかるが彼女はまだ若い。そんな彼女の作品に数百万という値がつけられるのである。恐ろしい世界だ。
彼女を有名にしたのは、今から4年前に発表された「歪」という題名の自画像である。彼女の出世作にして、最大の代表作であるこの作品は、当初、それほど話題にはならなかったという。業界内においても、ほぼ無名の若手作家が書いた自画像、という認識でしかなかったらしい。しかし、とある事件と作者である彼女とのつながり、そして彼女自身のことが明るみに出てから急にこの作品の評価が上昇していった。その事件というのは、彼女の婚約者である男性が殺されるというものであり、「歪」が発表される1ヶ月前に起こった。そして、彼女は作品を描き上げると、自分の両目を潰してしまったというのだ。
当時の雑誌やワイドショーはこぞって彼女の事を報道したらしい。私が彼女を記憶していたのもそのせいだろう。婚約者を殺され両目を自分で潰してしまった盲目の画家、というセンセーショナルな話題である、仕方ないかもしれない。大衆が求める下世話なゴシップにはぴったりだ。
彼女にとっては幸か不幸か、それによって作品が注目され、評価されるきっかけになったという訳である。
この女性が、そんな凄惨な過去を背負っているとは、おそらく誰もが想像できないだろう。自分で両目を潰したという話の真偽はわからないが、婚約者が殺された事件については過去の記録に残っている。
私はそっと周りを見渡してみた。注文を受けた従業員がカウンター内でコーヒーの用意をしている。他のお客はというと、1人は若い男性でなにやら携帯電話をいじっており、もう一人は中年の男性で新聞を読んでいる。こちらに関心はないようだ。
「こちらの喫茶店にはよく来られるのですか?」私は頼んだコーヒーが来るのを待ちながら、少し気になっていたことを彼女に確認する。
「たまにですけど、ここのコーヒーが飲みたくなるんですよ。落ち込んだ時とか、作業に行き詰まったときとか。気分転換をしたいときはここへ来てコーヒーを飲むんです」
彼女は自分の分のコーヒーカップを手に取りながら話す。その自然な様に、本当は彼女は目が見えるのではないかと私は疑ってしまった。
「そうすると身が引き締まるというか、シャキっと出来るんです」彼女は話しながら微笑む。「飲めばわかると思いますが、とても苦いんです、ここのコーヒー」
「そうなんですか...。ちなみに、今日はお一人で来られたんですか?」
やはり一人で来るのは大変だろう、どこかで人が待っているのではないかと思った私は訊いてみた。
「今日は兄に送ってきてもらいました。今は時間を潰しに外へ出ています。自分でしたことですけど、やはり目が見えないというのは不便です。誰かの手を借りないと、買い物にも出掛けられません」彼女は一口コーヒーを啜る。
ああそうですか、私は相槌を打ちながら考えた。
確か、彼女に兄弟はいないはずである。一体誰のことだろう。
それに、今彼女が言った「自分でしたこと」という言葉、やはり両目を自分で潰したというのは事実なのか。
「失礼を承知でお訊きしますが、ご自分で、その、両目を潰されたというのは、本当なのですか?」私は思いきって訊いてみた。
その質問に、彼女は全く動揺する気配はない。
彼女はカップを元の位置に戻す。彼女の一連の動作はやはり自然で、盲目とは思えない。
「ええ、本当です。自分の手で潰しました」
彼女は先程と変わらない口調で話す。そして、片方の手でサングランス越しの右目を指差した。
「まず最初にこちらの目を。そして...」今度は左目を指差す。「次に、こちらも潰しました」
彼女は挙げていた手をゆっくりと下ろし、そして、白い歯を見せて笑った。「私って、おかしいでしょう?」
彼女のその笑顔に一瞬体が硬直したが、思考を切り替え、私は愛想笑いを浮かべた。しかし、それは彼女には意味の無い行為だとすぐに気付く。何か話そうと考えたが咄嗟にいい言葉が見つからず、しばし沈黙してしまった。
「...そういえば、先程、気分転換をしにこちらへ時々来るとおっしゃってましたが、ご自宅はここから近いんですか?」話題を変えるため、先程話した内容から無難な質問をしてみる。
「はい。車で10分程のところにあります。自宅というか、もともとアトリエとして使用していた建物なんですが、今はもうほとんどそこで生活してます。私、生まれは東京ですけど、5年くらい前にこっちへ引っ越してきたんです。真希史さん、蔵の森ってご存知ですか?」
蔵の森といえば、県営の都市公園である。東京ドームの5倍程の広さをほこる、県下では一番の大きい公園だと聞いたことがある。そういえばこの近くだったか。
私が知っていると返答すると、彼女は嬉しそうに続けた。
「そのすぐ近くにアトリエがあるんです。自然に囲まれて、四季を感じながら絵を描くことができる最高のロケーションです。私、目は見えませんが、その分、視覚で感じること以外の変化に敏感なんです。春の訪れを感じさせる花の香りや、初夏の風にざわめく若葉の音。この時期だったら、渡り鳥なんかも来るので、羽音や鳴き声なんかも聞こえてきます」
「ああ、そういうのは都会では珍しいかもしれませんね」私は頷く。
「それと、私、静かな場所じゃないと描けないんです。集中出来ないというか、イメージが沸いてこないんですよね。あの辺り、というかこの町自体がですけど、都会の喧騒というか、そういう煩さがないので環境としては最高なんです」
周りの環境にも左右されてしまう、やはり絵を描くというのはそれほど繊細で、神経を使う作業なのだろう。
「私は自分で描いたものを確認することが出来ません。描くときは一発勝負、イメージしたものをどれだけ筆にのせて走らすことができるか、それが勝負なんです」
私は昨日のことを思い出す。インターネット上ではあるが、彼女が描いた絵を見ることが出来た。代表作の『歪』については確認できなかったが、何点かの風景画がアップされていた。
私は絵については全くの素人だが、彼女の作品がどれも素晴らしいということは納得が出来る。
キャンパスに描かれた木々や花々は、まるで彼女によって命を与えられたように瑞々しく、活き活きと描かれている。鮮やかに彩られたその花弁からは、今にも可憐な香りが漂いそうな程だ。
驚くべきことは、どの作品も細部にまでこだわっている点である。まるで自分の目で見たものを、寸分の狂いもなく写し出しているかのように、リアルに描かれている。
目が見えていないというのは本当に信じられない。彼女の絵を見てしまうと、なおさらそう感じてしまう。
店員がコーヒーを運びながら近づいてきた。私達は話を一時中断する。
「お待たせしました。コーヒーになります」
私が砂糖とミルクを断ると、店員は小さくお辞儀しながら「ごゆっくりどうぞ」と一言残し、カウンターの方へ戻っていった。
そろそろ頃合だろうか。
絵の話はこれくらいにしておき、私は今日の目的である話を切り出すことにした。
「千代さん、それで、ご依頼の件なんですが。電話でもお話した通り、調査対象である人物について情報が少なすぎるのです。はっきり言いまして、まともに調査してもご期待に沿えることが出来るかどうか、難しいところです。素直に警察の捜査を待ってみては?」
私の問い掛けに、彼女は少し考えた様子で俯く。
少し離れた場所で誰かのくしゃみが聞こえた。見ると若い男性がティッシュペーパーを取り出して鼻をかんでいる。
「真希史さんは煙草を吸われるのですか?」振り向くと彼女が少し首を傾げていた。
「ええ、吸いますが・・・。どうしてそんなことを?」
「煙草の香りがしたんです。私が今日、ここに来てから周りの方は誰も吸っていないので、真希史さんかなって」彼女はテーブルに置いてあった灰皿を私の方へ差し出す。
「私は吸わないからよくわかりませんが、我慢するのは辛いんじゃないんですか、喫煙家の方は。どうぞ、気にせずに吸ってください」
なんとなく断りにくく感じたので、私は彼女の厚意に素直に応じることにした。
「すみません、ではお言葉に甘えて」言いながらポケットから煙草を取り出し、口に咥えて火を点けた。
一口吸い、煙を吐き出す。ぼやけた照明の光に照らされながら煙は天井に昇っていった。
「昔読んだ小説に書いてあったんです。煙草を吸う人は信用出来るって」彼女は微笑んだ。
「調査の事、やっぱり真希史さんにお願いします。前に話した通り、費用はいくら掛かっても構いません。すべてお任せします」




