第二章 4
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不思議な感覚だった。自分は走ってるだけなのに、勝手に知っている事が増えて行く感覚。むずがゆいような軽い頭痛を味わいながら洞窟を全速力で疾走する。現実の俺、梶原望なら100メートルも走れば失神するほど疲労してしまいそうだが、今の俺はイクトだ。先ほどから200メートルほどを走り抜けて来たが、息一つ切れない。やはりこの体はすごいな。
不意に視界が開けた。ルーシアと始めてあった水辺だ。湖の澄んだ水は相変わらず美しい三日月を反射している。俺がそこまで認識したところで、
何の前触れも無く数メートル右にあった岸壁に何かが突っ込んだ。
あまりの速度で急増された威力によって岩肌がめくれ、アクション映画のようにその何かが岸壁にめり込む。見ればそれは、
「ルーシア!」
「・・・イクト、君?・・・」
力なく俺の声に答えたのはボロボロに変わり果てた蒼い少女だった。体のあちこちに擦り傷や切傷が出来、赤色に淡く光る結晶(NFOでの血で、出血にはダメージカウントがある)が漏れ出ている。顔を覆うアイシールドは欠け、タンクトップやスポーツパンツは何カ所も破れている。彼女の頭上に表示されている、プレイヤーである事を示す緑色のカーソルの脇のライフバーを見れば、既に二割を切って危険状態まで落ちていた。改めて決断が遅い自分を責める。
「・・・なん、で。戻って、来たの?」
俺は岩盤から滑り落ちるルーシアを受け止め、地面に寝かせる。
「やっぱ、助けてもらった借りを返さなきゃな」
俺は朦朧とした目で見上げてくるルーシアに出来るだけ優しく笑ってみせると、
「良かったな。生きてまた会えた」
ルーシアはぽかんと口を開けていたが、急に顔を赤くすると視線をそらしてしまった。俺も顔が赤くなる前に視線をそらし、代わりに顔を上げ、前方に目をやる。
顔を上げた先に見えたのは、一人の少年。例の湖の中央にある、小さな島のようになった部分に、悠然と君臨するように佇んでいる。黒いパーカーに紺のジーンズ。フードは脱ぎ、腕はぶらんと垂らしている。髪は異常なほどに黒く、目は青い。年は俺よりも少し上だろう。背丈も俺よりいくらか高い。武器も持たない素手なのにも関わらずルーシアとは対照的にその体には傷一つない。身構える俺に対し、少年は不敵に笑う。
「・・・くだらない友情ごっこは終わったかい?」
少年が無造作に、右手で空を凪いだ。俺は冷たい戦慄を感じ、慌てて脇腹を庇うように左腕を構える。それは、なんと呼べばいいともわからない、何かしらの第六感の働きだった。それはさておき、
直後、予想通りに左脇腹を狙って虚空から衝撃が襲い掛かった。
腕で受けたとはいえ、体に伝わる衝撃は並ではない。少なくとも現実に居たときには経験もした事の無いような物だ。真横に向かって20メートルほども吹き飛び、バウンドしながら地面を転がる。だが、俺はすぐに立った。立つ事が出来た。ゴロゴロと回転する体を、回転中に両手を使って跳ねるように起こし、靴底を減らしてドリフトしながら体勢を取り戻す。現実の自分では考えられない。
(違う。今の俺は、『龍王の司書』イクトだ!)
地面を滑った姿勢のまま一気に前に向かって駆け出す。黒いコートが風を掴み、羽のように広がる。全身に力がみなぎる。目に映ったのは、驚愕で目を丸くするパーカーの少年だった。その理由を、イクトは知っている。それはイクトが20メートル吹っ飛んでもすぐに立った事、ではない。
20メートルも吹っ飛んだという事実、そのものに対して、だ。
目の前の現象を処理できない敵に対して、『魔術のすべてを知る司書』が猛然と迫り行く。




