貴女を愛していました。ずっとずっと愛していました。
もうイヤ、死んでしまいたい。
雨音だけが響く部屋で一人、貴女は小さく呟いた。その白く小さな両手に隠された顔は、僕には見えない。それでも、貴女が泣いていることくらいずっと一緒にいた僕にはわかる。貴女は傷つきやすくて、とても泣き虫だから。いつだって、課長がお尻に触れてくるが怖くて何も言えないとか、同僚の下田がミスを自分のせいにしただのと言って、泣きながら持ち帰った仕事をしていた。
それでも、死にたいなんて一度も言ったことがないのに。僕はイヤな予感がして、貴方に気づかれないようにカッターナイフを隠した。貴方は泣いているときいつも、そのカッターナイフで自分の右腕を切り落とそうとするから。今日はそれだけじゃ終わらない気がして、恐ろしくなった。貴女が傷つくのはイヤだ。貴女が悲しむのもイヤだ。何とか励まそうとするけれど、言葉が出てこない。ずっと昔なら、背中を優しくさすってなんとか言っていたはずなのに。そういえばもうここ半年ほど、貴女とまともに話を出来ていない気がする。
なんで!? どこにあるのよ!!
そうしてる間にも貴女は、カッターナイフを探して部屋を散らかし始める。その白く不健康そうに肉のそげた頬には、涙の跡が筋になって見える。やっぱり、泣いていた。そういえば僕は、貴女の泣いていた理由を聞いていない。あぁそうだ。最近、貴女は滅多に僕と話してくれなくなったんだった。まるで、忘れてしまったかのように。そのことを認めたくないから、すぐに記憶の端に追いやってしまう。
よく考えれば、帰りも遅くなった。何があったのかなぁ、ともう自分でも何がしたいのかわからなくてパニックになっている貴女の背中を眺めながら、暢気に考える。だって貴女は、本当に死んだりはしないはずだから。ふ、と右腕に刻みついた傷跡をみる。ケロイド状になっているけれど、浅くて小さなカッターナイフの傷だ。貴女につけられたものだけれど、いつどこでつけられたかがもう思い出せない。
がしゃん!
しばらく右腕を眺めていたのだけれど、ガラスの割れる音がして、ハッと我に返った。台所の方から響いていたから、皿か何かが割れた音だろう。なんで、そんな音がするんだ? おかしくないか?
『……?』
やけに静かな貴女を呼ぼうとするんだけれど、声が上手く出ない。ぱくぱくと、ただ口を金魚のようにするしかできない。半年くらい喋っていなかったから、驚いた。どういうことだろうと考えるよりも、もう貴女と話せないのではないかという不安のほうが大きくて。もしかしたら、自分は……
違う!
とっさによぎった考えを振り払うように、激しく首を横に振る。僕のことはどうでもいい。どうでもいいから、貴女の様子を見に行かなくては。僕なんかより、貴女の方が大切だ。早くしないと、どうなるかわからない。そう思うと、いてもたってもいられなくなって台所へと走り出していた。久しぶりに踏んだフローリング。感覚のなくなっている足には気がつかないフリをする。
台所なんかで貴女は、いったい何をしているんだろうか。イヤな予感で、背筋がぞわぞわとする。なにもなければいいけれど。……なんて、淡い願いははあっさりと裏切られて。僕の目に飛び込んできたのは、台所のシンクの下にうずくまる貴女。その右手に握られているのは……
『……!? ……!』
なにやってんだ!? 馬鹿かお前! とっさにそう叫んだつもりだったのに、やっぱり声は出ずにただひゅーひゅーと空気の抜けていく音が微かにするだけ。そんな僕に気がつく様子は微塵もなく、貴女はうずくまったまま、血走った目で包丁を見つめている。そんな貴女の姿を見て不意に、“あの日”のことがフラッシュバックした。息がつまって、意識が飛びそうになる。
ダメ、だ。ダメだダメだダメだダメだ! 貴女が死んだら、僕の意義はどうなってしまうと思っているんだよ! 貴女を守った僕は、どうしてくれるんだよ! 届かない叫びを、僕は紡ぎ続けるけれど、貴女には伝わらない。“あの日”と同じだ。
三年前のあの日、僕は確かに死んだんだ。貴女を守るために、なんてカッコいいことはけして言えない。それでも、貴女を死なせないために死んだということは確かだ。
自分の右腕を切り刻んでしまう貴女。僕の腕に印を刻もうとする貴女。どの貴女も好きだった。だから、死んでほしくなんてなかった。だから、貴女が貴女を殺してしまう前に僕は、貴女の右腕に握られた包丁で自らの腹を犠牲にしたというのに。
僕を刺した時の貴女の顔は泣きそうに歪んでいて、僕は自分がしたことが正しかったのかと後悔した。それでも、生きている貴女を見て心の底から安堵した。生きていてくれてよかったと。守ったとは言わない、言えない。結局はすべて、僕のエゴだ。貴女を死なせたくないという、僕のわがまま。
『…………』
ハナミ、と幾日かぶりに小さく貴方の名前を呼ぶんだけれど、やっぱり貴女には届かない。空気に溶けて消えていく。届きっこないさ。だって僕は、もう。
不意に、玄関でチャイムが間抜けな風に鳴った。その音に貴女はハッとした表情で、包丁を手放した。きっとその拍子に、小さく床に傷がついてしまっただろう。貴帳面な貴女はきっと、後でその傷を見てとても後悔するんだろうと思うと、なんだか愛しかった。
廊下から騒々しい足音がする。なかなか出てこない貴女に痺れを切らして、チャイムを鳴らした主が入ってきたのだろう。無断で家に入れてしまう。それだけ親しい間柄のその人物が何者かくらい、もうわかっている。ずっと貴女の傍にいたのだから、わからないほうがおかしい。
彼は、台所でうずくまる貴女を見ると、顔色を変えて走り出した。と、思うとぎゅっと貴女を抱きしめた。貴女は、僕とは違いたくましいその腕に甘えるように、そっとすりよった。その、泣きそうに歪みながらも幸せそうな顔を見て、僕もそろそろ終わりだなと確信した。もう、ここにはいられないなぁと。
死んだあの日からだいたい三年。ずっと貴女に寄り添ってきた。一年目。貴女はまだ僕が見えていて、いっぱいいっぱい旅行に行った。生きていた時と変わらない幸せが、そこにあった。二年目。貴女が僕を探すことが増えた。だいぶ見えなくなっていたんだ。そのせいで会話もめっきり減った。三年目。貴方は僕がすっかり見えなくなって、僕は過去の人になって、新しいパートナーを見つけた。それは、貴女が生き続けるかぎり仕方がないことだと理解していた。理解していたけれど、辛かった。苦しかった。でも僕はもう、貴女を守れない。貴女を守るのは、生きている人間の役目だ。
ため息をついて、もう感覚のなくなった足をそっと浮かせてみた。案外簡単に、ふわりと宙に浮かんだ体はもう、昔みたいな重さを感じることができない。そこで改めて自分は死んでいたのだと、思い知らされた。貴女と別れるのが寂しくないと言ったら、嘘になるけれど。でも僕はもうとっくに死んでいて、いいかげんに行かなくちゃいけない。貴女にはもう、僕はいらないから。
じゃあね、ばいばい。
そっと呟いて、小さく笑った。どうか、どうか。世界中の人が僕の大切な人を守ってくれるようにと、そう願いながら。心配症で過保護で有名だった僕が、死んでもなお貴女を思うことくらいは許してくれと願いながら。ゆっくりと貴女に背を向ける。
「よぞら?」
光の階段を上りながら、ゆるゆるとなくなっていく意識。そのどこかで、貴女の声が僕を呼ぶのが聞こえた気がした。もしかしたら、幻聴だったのかもしれないけれど。でも、貴女を抱きしめている彼は、不思議そうな顔で貴女を見ていたから現実だったのかもしれない。
ねぇ僕の大切な、人生でたった一人だけの愛しい人。僕はもう死んでしまったけれど、僕をどうか忘れないでね。記憶の奥底にでもいいから、とどめておいてね。僕がいつか、貴女の傍へと生まれ変わるまで。だから、それまで
どうか、しあわせで。