『もう書き出しは決まっていた』
『コペルニクスは、夜の切れ端のような猫だ。』
それだけをノートに書いて、僕はペンをおいた。
その一文しか書けなかった。
影の、と言ったほうがよかっただろうか、と考えて、やはり夜が適切だという結論に達した。コペルニクスの喉元には小さな白い毛の斑があって、それがちょうど三日月の形をしている。
ノートの上の青いインクはなかなか乾く様子がない。窓を開けた際に侵入してきた外の大気は耳鳴りがするほど冷たかった。寒波がふたたび到来するようであれば、明日は出さない方がいいかもしれない、と黒猫を見やると床の上でせっせと身繕いしている。
僕の視線に気がついたのか、ニャオン、と掠れた声でコペルニクスは鳴いて立ち上がった。そのままこちらに優雅な足取りで寄ってくる、と思ったが、急に方向転換をして地球儀へと向かう。腰を低くしてタイミングを計ってから、後脚のバネを利用して枠の上に飛び乗った。緑の目を細めて、球体の側面に身体をこすりつける。僕はまるで魅入られたようにそれを眺めていた。
そして、黒猫は前脚で当たりをつけるように数度叩いてから、地球儀を回転させつつ、その上に駆けのぼった。
地球儀を回す猫だから、コペルニクス。
青天の霹靂のように、熟しきった梢の林檎のように、突然落下してきた答えに僕は自分の目を疑った。それでも、これが正解だ、と心のどこかで理解していた。
コペルニクスはバランスをうまく取り、突き出した地軸を利用して、北極の上にうずくまっている。長い尻尾の先が《オリエント》の辺りでぱたぱたと揺れた。
汽笛が聞こえた。
高く長く響く音は、近づくにつれて、ポワン、と柔らかくぼやけた。そして誰でも知っているあのメロディを奏ではじめた。
Happy Birthday to You,
Happy Birthday to You……
「…………また音が狂ってるよ」
つまずいた高音に、僕はどうしようもなくなって笑った。コペルニクスを抱き上げて窓の外を見る。青白い星々が、雪解け水のように清冽な光を地上に投げている。
僕の書く物語は、内側の世界であると同時に僕自身でもあった。書いた物語を否定されることは、僕を否定されることだ。それが怖ろしい。それでも書くことをやめられない。書いたなら誰かに読んで欲しくなる。でも否定はされたくない。
僕は、僕は、とあてどなく物語を紡ぐ自分に誰か気付いてくれるだろうか。誰か受け取ってくれるだろうか。誰か僕に合図をくれないだろうか。
『イレクの誕生日は……どうにかする』
もう汽笛は物悲しい音ではない。
堂々巡りをしていた思考に切れ目が入ったのがわかった。
臆病な僕の相反する願いに気づいていたのか、どうなのか。ルダは、寝言混じりの約束を守ってくれたらしい。
もうすぐ彼が帰ってくる。
書ける、と僕は思った。
つたないながらも、自分の言葉で。一ヶ月後の彼の誕生日までに、答えを。
地球儀を回す猫の名前について、朝晩聞こえる汽笛の音について。音痴で、口笛がうまく吹けない、かけがえのない魔法使いの友人について。
『いつか』はもうすぐやって来る。
耳を澄ましても、もう汽笛の余韻はどこにも残っていない。黒猫が喉を鳴らしつつ、前足で僕の腕を柔らかく押した。
世界が再び回りだす。
もう書き出しは決まっていた。
『汽笛の音は物悲しい気分を呼び起こす』