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『コペルニクスは、夜の切れ端のような猫だ』

「君は答えを創ってるんだね」


「……うん?」

 僕は唸り声のような声を出した。秘密を知られたショックを処理するのに夢中で、あまりルダの言葉に耳を貸していなかったのだ。思い悩むうちに襲ってきた暴力的な睡魔に抗うのも、もう限界だった。

「いつか、読ませてほしいな」

 僕の表情を見て、「いつかでいいから」とルダは慌てて繰り返した。いつか君が見せてもいいと思ったら。そんな物語が書けた時に。

「わかった」

 言いながら僕は寝返りをうち、頭から毛布をかぶった。寒気のような緊張感と、期待とも怖れともつかない気持ちも、眠りが訪れるにつれて波が引くように失われていく。

 意識を手放す直前、『いつか』はいつ訪れるのだろう、と思った。


 それからもずっと少しずつ物語を書き溜めていたけれど、ルダにも誰にも見せたことはない。『いつか』は僕にとって、まだ未来の時点だ。

「そろそろ寝ようか」

 ルダはそう言って、僕の返事を待たずに自分から明かりを消した。途端に広がる暗闇の中、窓から差し込む微かな星明りを反射してコペルニクスの目が光る。僕はそれを目印に彼の方を向いて、本当はもっと先に言わなければいけなかったことを声に出した。

「ルダ」

「何」

「おめでとう」

 ありがとう、とルダが答えてから、あくびするのが聞こえた。

「来年の今頃には戻るよ。イレクの誕生日は……どうにかする」

「どうにかするって何を」

 僕の質問には、寝息だけが返ってきた。

 そうして、その後汽笛が二回響く間にルダは荷造りを終え、まるで嵐が通り過ぎたような有様の部屋には僕とコペルニクスだけが残された。彼が乗りこんだ列車が三回目の汽笛を鳴らして遠ざかるのを、僕は生まれて初めて駅から見送った。ルダが物悲しい気分になったかどうか、僕にはわからない。

 コペルニクスと僕はといえば、お互いしかいない緊張感に慣れるまでしばらく時間がかかった。猫は最初僕の寝床にはもちろん、近くにさえ寄ってこなかったし、恋の季節には何日も帰ってこなかった。ようやく戻ったと思えば、がつがつと餌を食べ、また憑かれたような目で飛び出して行った。

 僕はその間に、窓からいつも外を眺めている貴婦人の話を書いた。それから同じ夢ばかりを見る少年の話を書いた。日々はめまぐるしく過ぎていった。雪の消えた平原に緑萌える春、地平線の彼方から入道雲が湧きあがる短い夏、黄金色に輝く草の波が風に揺れる秋。寒くなるにつれ、黒猫は僕の寝床にもぐりこむようになった。

 本当に、どんな物語を書いても、かならずそこには謎があった。書くということは、それに僕が僕なりの答えを与えることだった。それにより世界は定義され、その通りに運行した。

 世界には二種類あるのだ。自分の内側と外側に。内側の世界は、僕によって支配されている。外側は、それこそルダの追い求めるような真理で。二つはまったく別のものでもあったけれど、密接に繋がっていた。

 僕は自分が知らないことについては書けなかった。たとえ地球儀をくるくると回して見知らぬ地に思いを馳せ、その描写を作り上げたとしても、いつも自分の知識や経験が地下水脈のように、大気のように、見えなくてもそこに存在していることを認めないわけにはいかなかった。

 それでも、いや、それだからこそ、僕はルダの残した謎の答えがわからなかった。何度も挑戦しては、最初の一文で挫折した。そのうちに、僕は他の物語を書くことも出来なくなった。まるで世界が静止してしまったかのごとく。

『どうしてこの猫はコペルニクスという名前なのか』

 僕は消燈前のわずかな時間を机に向かって過ごす。

 こんな呼びにくい、実在した人物の名を選んだ理由。ルダのことだ、尊敬の意を示しているのではないということは、きっとシンプルな訳があるのだ。事実に基づいた、単純明快な。

 最初は顔が似ているのかと考えてみたりしたが、違った。といっても人間のコペルニクスの写真などないから、本の挿絵と比べるしかなかったわけだけれど。調べた結果わかったのは、コペルニクスが天文学者であると同時に聖職者でもあり、その他にも色々な職業に就いていたこと。肉眼による天体の観測と古代の思想に基づいて地動説を唱えたということ。これは、天動説を信じていた当時の人々に大打撃を与えたらしい。それをもとに『コペルニクス的転回』という言葉が作られたくらいだ。

 ルダは大丈夫だろうか、とふと思う。見知らぬ土地に一人飛び込んで、今までの常識からかけ離れた環境で暮らして。《オリエント》との間では私的な手紙のやりとりは不可能だから、彼がどうしているか知る術はない。心の片隅にルダの事が気泡のように浮かぶ度に、僕はそれを打ち消した。強いて考えないようにした。

 履修する科が違うために、ここ二、三年は朝と夜にしか平日は顔を合わせなかったけれど、それでも家族のいない僕等にとって、お互いは実際に血を分けた親族より近しかった。それでも、時間的な、もしくは空間的な距離が増加するにつれ、人々の間には周波数の合わないラジオのような雑音が混じる。共通の話題が減れば、何を喋ればいいかわからなくなる。近くにいても、遠い存在となる。

『……最後まで面倒を見られないなら、最初から拾うべきじゃない』

 僕があんなことを言ったのは、コペルニクスのためではなかった。ただ単に僕が嫌だったのだ。置いていかれることが。認めたくはなかったが、僕はさびしかったのだ。

 さびしさと眠気はとても似ている。どうしようもないときに襲ってくる。

 この一文は何かに使えそうだと目を閉じて思った。

 創作する者の業はどこまでも深い。自分の感情を素直に表現しているのか、それともより効果的な表現を模索するために自己暗示を掛けているのかわからなくなる。

 とりあえず、二つの差異は、眠気には睡眠という即効薬があるけれど、さびしさには解決法がすぐには見当たらないところだ。寝よう、と決めたところで、窓枠を引っ掻く微かな音に僕は立ち上がった。

 早めに帰って来たコペルニクスが窓の外からこちらを見つめている。

 そうしているとまさに、暗闇の中で黒猫を探す、という慣用句を具現化したようだ。解決の糸口さえないまま、がむしゃらに答えを探す、という意の。


 コペルニクスは、夜の切れ端のような猫だ。



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