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『君は答えを創ってるんだね』

「この猫の名前はコペルニクスだ」


 呆気にとられた僕を見て、まるでおぼえが悪い生徒に九九を教える時のように、ルダは困ったように笑って繰り返した。部屋に戻った途端、そんな台詞で出迎えられた僕はとりあえずベッドに座り込んだ。

「それはわかった、けど、ここはペット禁止じゃないか」

「それは問題ない」

 あっさり言ってのけた彼が恐ろしいのは、本当にどうにかしてしまうところだ。これまでの経験から充分学んでいた僕は、それ以上追及しなかった。ルダの腕の中で、痩せこけた仔猫がヤニだらけの目を薄く開いて、また閉じた。明らかにコペルニクスは栄養失調だった。揺らめく命の灯火を守ろうと不可視の敵に一匹で闘いを挑んでいるのだろうが、勝算がほとんどないことは明らかで、僕は思わず眉間に皺を寄せた。

「イレクは猫嫌いか?」

「いや、好きだよ」

「それはよかった」

 仔猫を抱いたまま、ルダは視線を巡らせた。

「じゃあまずタオルを取ってくれ。……粗相をされた」

 その宣言にはじまり、コペルニクスが勝利を収めるまで、ルダは出来る限りの助勢をした。ルダだけでは手一杯の時には、僕も。

 そうして成長したコペルニクスは、人間ばかりに育てられたせいか一風変わった猫になった。夜の汽笛が鳴る頃に僕等の部屋に戻って、ルダの隣で眠る。朝は餌を食べてから学校へと向かう僕達と共に部屋を出る。賢いといってもいいのかも知れないが、僕等に都合のいい規則正しい行動を取ることは、猫として正しいことなのか僕にはわからない。現在でも、幼い頃の栄養不良がたたって、コペルニクスはかなり小柄だ。きっと人間に面倒を見てもらわなければ、生きていけないだろう。


「頼みがあるんだ」

 黙りこんでいた僕に、ルダは声を掛けた。

「僕がいない間、コペルニクスの世話をしてくれないか」

 ちょうど考えていた事への言及に、僕は今夜何回目になるかわからない驚きを体験した。それを押し殺して、わざと渋面を作ってみせる。

「……最後まで面倒を見られないなら、最初から拾うべきじゃない」

「これは、手きびしい」

 ルダはふざけた様子で言ったが、困惑した表情が口調を裏切っている。僕を説得するために頭を一生懸命回転させているのが見えるようだ。彼の無駄に良い頭脳でも、こういう局面ではあまり役に立たないらしい。何も知らないコペルニクスが喉を鳴らす音が聞こえた。

「一ヵ月後に迫った僕の誕生日に免じて、とか。プレゼント代わりに」

「いいよ。冗談だよ。しかもあんまりうまくない」

 言うとルダは眉をしかめた。文句をつけたいが、それで僕が腹を立てたらすべてが水泡に帰してしまう、とこらえる様子が可笑しくて、僕は他の住人を起こさぬように声を殺して笑った。

「なんだよ」

「猫に名前を付けてしまうほど、地動説の提唱者に心酔しているのに《オリエント》でうまくやっていけるのかと思って」

 彼の留学について話していたことを思い出して、僕は気付かれないように会話を元に戻した。

「違う、オマージュとかじゃない、そうじゃなくてもっと……」

 むっとしたように言いかけて、ルダは悪戯を思いついた時のように唇の端を上げた。

「さっきの台詞だけど。センチメンタルだね」

 記憶をたどって、今度は僕が顔をしかめた。汽笛についての言及だ。聞いていなかったかと思ったが、しっかりと憶えてさえていたらしい。

「物語の出だしにいいんじゃないか」

 僕が物語を書くということを知っているのは、ルダだけだ。これまでずっとひた隠しにしてきた。理由は簡単、恥ずかしかったからだ。あれこれと想像し、紙の上に自分の夢想を書き記していくことが好きだなどと、とても人には言えない。ルダにだって知られた時は最悪の反応を予想した。もしもそれに少しでも近い反応を彼が示したとしたら、僕は物心ついた頃から続く友情を一方的に打ち切っただろう。

 つまり僕は大変厄介な人間なのだ。

 汽笛に呼び起こされるのは、さびしい、と言い切れるほど強い感情ではない。うまく表現できるほど大きな感情の揺れではない。ただあの音が聞こえると、ひとりだ、と思う。どうしようもなく、ひとりだ。

 天地の間を一直線にひた走る列車は、星へ届けとばかりに汽笛を響かせる。誓いのように、合図のように。それでも、受け取ってくれる者がいなければ静寂に消えていくだけだ。それは、僕だ、僕だ、と懸命に叫ぶのにも似て。

 時にはまったく逆しまに、あの汽笛が鳴らされているのは誰のためだろう、とも考える。きっと他の誰かへの挨拶、それを受け取るだけの価値のある誰への。そして、それは僕ではない。

 何の意味もない音ひとつに、揺さぶられる。いろいろと想像してしまう。そうするのが習い性の癖に、それを隠そうとする。

「物語の謎は、そうだな……」

 勝手に喋り続けるルダを、僕はどうにか押しとどめようとした。

「僕にはミステリーは書けないよ」

 トリックが考えられない、と弁解すると、ルダは意外にも真剣な顔で僕を見た。

「どんな物語にも謎はあるんだ」

 ある人物の一日を追った物語だとしても、どうして主人公は出掛けたのか、とか、どうして怒りをおぼえたのか、とか。どうして彼は窓の外を眺めたのかとか、彼女はどんな夢を見ているのかとか、猫が何を考えているかとか。

「世界は謎に満ちている。気付かないだけだ」

 たとえば、と僕のルームメイトは言葉を紡いだ。

「どうしてこの猫はコペルニクスという名前なのか」

 名前を呼ばれて、毛布からわずかに覗く黒猫の耳がぴくりと動いた。

「僕はその理由を知っている。名付けたのは僕だからね。でも君はそれにどんな解答を与えてもいい。自分なりの答えを創りだせるじゃないか。……君にはそれが出来るんだ」

 僕が物語を書いていると知った時、ルダが口にした言葉の意味がやっとわかった。枕に顔を半分埋めて、僕はランプの柔らかな光に照らされた部屋を眺める。あの日もここは居心地の良い雑然さに満ちていて、その様子は今とまったく変わらなかった。


『君は答えを創ってるんだね』



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