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届けもの

作者: suzudeer
掲載日:2026/07/24

届けもの

ふわりと鼻をかすめた蚊取り線香の香りが、ぼやけていた私の意識をそっと引き戻した。


どこかの家から漂う夕食の匂い。遠くで鳴くヒグラシの声。

16時。パートの仕事を終え、スーパーで夕食の食材を買い込んだ私は、茜色に染まるいつもの帰り道を歩いていた。


今年で50歳。提げた買い物袋がいつもよりずっしりと腕に食い込み、足は鉛のように重く、腰もひどく痛む。


(こんなにも体力がなくなってしまったのかな。これもやっぱり、歳のせいね……)


息が上がり、足取りはひどく重い。

それでも、家には私が作る夕食を待ってくれている家族がいる。


今頃、何をしているだろうか。

息子は部活から帰って、またゲームに夢中かな。

娘は、自分の部屋で友達と長電話でもしているのかしら。


子供たちが高校生になると、小さかった頃よりもずっと会話が減ってしまった。少し寂しく感じることもあるけれど、夕食の時間になれば、必ず四人揃って食卓を囲む。夫がその日の出来事を話し、子供たちが笑う。

そんな平凡な日常が、私にはもったいないほどの幸せだった。


カンカンカンカン——。


電車が来ますよ、という無機質な警告音とともに、私は踏切の前で立ち止まった。

強い風圧を残して電車が勢いよく目の前を通過し、ゆっくりと遮断機が上がる。


「あら? ねぇ、お嬢ちゃん!」


踏切の向こう側から、赤いランドセルを背負った女の子が走ってきた。すれ違いざま、彼女の小さな手からポロリと一冊のノートがこぼれ落ちる。咄嗟に声を掛けたが、瞬きをしたほんのわずかな間に、女の子の姿は夕暮れの景色に溶けるように消えてしまっていた。


不思議に思いながら中腰になり、アスファルトに落ちたそれを拾い上げる。

表紙には『嬉しいことBOOK』と書かれていた。学校で配られる、親へ感謝の気持ちを書いて贈ろうという企画のものだ。


名前の欄には、ミミズが這ったような辿々しい平仮名で、一生懸命に書き殴ってある。


『まりな』


うちの娘と、同じ名前だった。


「ふふ……そういえば昔、うちのまりなもこんな字を書いてたわね」


懐かしさに頬が緩む。学校名も書いてあるし、明日にでも交番か学校に届けてあげよう。そう思いながら表紙をめくると、ふいに強い風が吹き抜け、ノートのページをパラパラと捲った。


『おかあさんへ。うちはおかあさんが作るおみそしゅるが大好きです。

おとうふと、じゃがいもが入っています。

お兄ちゃんはまーぼーとうふがスキだそうです。からいのにねぇ』


見ず知らずの子供のノートを読むのは悪いと思ったが、最初の数行に釘付けになり、私は息を呑んだ。


「どうして……」


豆腐とじゃがいものお味噌汁。麻婆豆腐。

かつて、幼い日の娘が私にプレゼントしてくれた『嬉しいことBOOK』の内容と、一言一句同じだったのだ。


私は踏切の前に立ち尽くしたまま、震える手でページをめくった。

家族で行った温泉旅行の話。

みんなでケーキを囲んだ誕生日パーティー。

浴衣を着て歩いた夏祭り。


そこに書かれているのは、間違いなく私と娘が経験した思い出の数々だった。

そして、最後のページをめくった瞬間、私の心臓が大きく跳ねた。


そこから先は、幼い鉛筆の字ではなかった。

赤いボールペンで、大人びた綺麗な字が綴られている。


『お母さん。いつもおいしいご飯を作ってくれてありがとう。

本当は感謝しているのに、反抗期で素直になれなくて、恥ずかしくて伝えられなかった。

ひどいこと言って、ごめんなさい……』


それは、高校生になったまりなの字。


『母さん。俺のことを思って言ってくれていたのに、うるせえって突き放してごめんなさい。

でもさ、俺、第一志望の大学に合格したんだぜ! 母さんと同じ大学なんだ。

生きてたら、泣いて褒めてくれたよな』


それは、少し乱暴な息子の字。


『みさと。よく頑張ったな。

お前が遺してくれたレシピのおかげで、あいつらにも美味い飯を食わせてやれてる。

俺はお前と出会えて、家族になれて、本当に幸せだ。

心から愛している。ずっと見ていてくれ』


力強い、夫の字。


——じわぁっ。

ノートのページに水滴が落ち、赤いインクが滲んでいく。

ポタ……ポタ……と、自分の目からとめどなく涙がこぼれ落ちていることに気づいた。


息が苦しい。胸が張り裂けそうに痛い。

私はノートを胸に抱きしめたまま、その場に崩れ落ちた。


どうして? どうしてこんなに涙が出るの?

どうして、こんなにも悲しくて、愛おしいのだろう。


嗚咽を漏らして泣いていると、視界の端に、誰かの靴が見えた。

ゆっくりと顔を上げる。


そこには、喪服のスーツを着た私の家族が立っていた。

夫も、息子も、娘も、みんな目を真っ赤に腫らして泣いている。夫の腕の中には、微笑む私の遺影が抱かれていた。


その瞬間、急激な頭痛とともに視界が大きく歪み、すべての記憶が濁流のように押し寄せてきた。


あの日。

夕飯の買い物帰り、この踏切の前で突然倒れたこと。

そのまま二度と、目覚めなかったこと。

足の重さも、息苦しさも……すべては私が現世に残した「未練」だったのだ。


「あ……あぁ……っ、あぁあぁ!」


私は、声の出ない喉から叫び声を上げた。


「嫌だ! まだ行きたくない! 生きていたい!」

「まだ、子供たちにご飯を作ってあげないといけないの! これからは、お父さんと夜にゆっくりお酒を飲んで過ごすはずだったのに……っ」

「どうして……どうして私なの……!」


地面にすがりつき、泣き叫ぶ私の声は、誰の耳にも届かない。

けれど、涙を流す家族の目は、確かに『私』のいた場所を見つめていた。


きっとこれも、運命なんだ。

死んでしまった私でも、まだこんなに熱い涙がこぼれるなんて。


手の中に残る一冊のノート。

それは、私の初めてのお盆に、家族が涙とともに送り届けてくれた『お供え物』だった。


夕暮れの風が優しく吹き抜け、私の体を光の粒のように溶かしていく。


(……ありがとう。ごちそうさま)


彼らの愛でお腹いっぱいになった私は、最後に一度だけ笑って、茜色の空へと還っていった。

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