届けもの
届けもの
ふわりと鼻をかすめた蚊取り線香の香りが、ぼやけていた私の意識をそっと引き戻した。
どこかの家から漂う夕食の匂い。遠くで鳴くヒグラシの声。
16時。パートの仕事を終え、スーパーで夕食の食材を買い込んだ私は、茜色に染まるいつもの帰り道を歩いていた。
今年で50歳。提げた買い物袋がいつもよりずっしりと腕に食い込み、足は鉛のように重く、腰もひどく痛む。
(こんなにも体力がなくなってしまったのかな。これもやっぱり、歳のせいね……)
息が上がり、足取りはひどく重い。
それでも、家には私が作る夕食を待ってくれている家族がいる。
今頃、何をしているだろうか。
息子は部活から帰って、またゲームに夢中かな。
娘は、自分の部屋で友達と長電話でもしているのかしら。
子供たちが高校生になると、小さかった頃よりもずっと会話が減ってしまった。少し寂しく感じることもあるけれど、夕食の時間になれば、必ず四人揃って食卓を囲む。夫がその日の出来事を話し、子供たちが笑う。
そんな平凡な日常が、私にはもったいないほどの幸せだった。
カンカンカンカン——。
電車が来ますよ、という無機質な警告音とともに、私は踏切の前で立ち止まった。
強い風圧を残して電車が勢いよく目の前を通過し、ゆっくりと遮断機が上がる。
「あら? ねぇ、お嬢ちゃん!」
踏切の向こう側から、赤いランドセルを背負った女の子が走ってきた。すれ違いざま、彼女の小さな手からポロリと一冊のノートがこぼれ落ちる。咄嗟に声を掛けたが、瞬きをしたほんのわずかな間に、女の子の姿は夕暮れの景色に溶けるように消えてしまっていた。
不思議に思いながら中腰になり、アスファルトに落ちたそれを拾い上げる。
表紙には『嬉しいことBOOK』と書かれていた。学校で配られる、親へ感謝の気持ちを書いて贈ろうという企画のものだ。
名前の欄には、ミミズが這ったような辿々しい平仮名で、一生懸命に書き殴ってある。
『まりな』
うちの娘と、同じ名前だった。
「ふふ……そういえば昔、うちのまりなもこんな字を書いてたわね」
懐かしさに頬が緩む。学校名も書いてあるし、明日にでも交番か学校に届けてあげよう。そう思いながら表紙をめくると、ふいに強い風が吹き抜け、ノートのページをパラパラと捲った。
『おかあさんへ。うちはおかあさんが作るおみそしゅるが大好きです。
おとうふと、じゃがいもが入っています。
お兄ちゃんはまーぼーとうふがスキだそうです。からいのにねぇ』
見ず知らずの子供のノートを読むのは悪いと思ったが、最初の数行に釘付けになり、私は息を呑んだ。
「どうして……」
豆腐とじゃがいものお味噌汁。麻婆豆腐。
かつて、幼い日の娘が私にプレゼントしてくれた『嬉しいことBOOK』の内容と、一言一句同じだったのだ。
私は踏切の前に立ち尽くしたまま、震える手でページをめくった。
家族で行った温泉旅行の話。
みんなでケーキを囲んだ誕生日パーティー。
浴衣を着て歩いた夏祭り。
そこに書かれているのは、間違いなく私と娘が経験した思い出の数々だった。
そして、最後のページをめくった瞬間、私の心臓が大きく跳ねた。
そこから先は、幼い鉛筆の字ではなかった。
赤いボールペンで、大人びた綺麗な字が綴られている。
『お母さん。いつもおいしいご飯を作ってくれてありがとう。
本当は感謝しているのに、反抗期で素直になれなくて、恥ずかしくて伝えられなかった。
ひどいこと言って、ごめんなさい……』
それは、高校生になったまりなの字。
『母さん。俺のことを思って言ってくれていたのに、うるせえって突き放してごめんなさい。
でもさ、俺、第一志望の大学に合格したんだぜ! 母さんと同じ大学なんだ。
生きてたら、泣いて褒めてくれたよな』
それは、少し乱暴な息子の字。
『みさと。よく頑張ったな。
お前が遺してくれたレシピのおかげで、あいつらにも美味い飯を食わせてやれてる。
俺はお前と出会えて、家族になれて、本当に幸せだ。
心から愛している。ずっと見ていてくれ』
力強い、夫の字。
——じわぁっ。
ノートのページに水滴が落ち、赤いインクが滲んでいく。
ポタ……ポタ……と、自分の目からとめどなく涙がこぼれ落ちていることに気づいた。
息が苦しい。胸が張り裂けそうに痛い。
私はノートを胸に抱きしめたまま、その場に崩れ落ちた。
どうして? どうしてこんなに涙が出るの?
どうして、こんなにも悲しくて、愛おしいのだろう。
嗚咽を漏らして泣いていると、視界の端に、誰かの靴が見えた。
ゆっくりと顔を上げる。
そこには、喪服のスーツを着た私の家族が立っていた。
夫も、息子も、娘も、みんな目を真っ赤に腫らして泣いている。夫の腕の中には、微笑む私の遺影が抱かれていた。
その瞬間、急激な頭痛とともに視界が大きく歪み、すべての記憶が濁流のように押し寄せてきた。
あの日。
夕飯の買い物帰り、この踏切の前で突然倒れたこと。
そのまま二度と、目覚めなかったこと。
足の重さも、息苦しさも……すべては私が現世に残した「未練」だったのだ。
「あ……あぁ……っ、あぁあぁ!」
私は、声の出ない喉から叫び声を上げた。
「嫌だ! まだ行きたくない! 生きていたい!」
「まだ、子供たちにご飯を作ってあげないといけないの! これからは、お父さんと夜にゆっくりお酒を飲んで過ごすはずだったのに……っ」
「どうして……どうして私なの……!」
地面にすがりつき、泣き叫ぶ私の声は、誰の耳にも届かない。
けれど、涙を流す家族の目は、確かに『私』のいた場所を見つめていた。
きっとこれも、運命なんだ。
死んでしまった私でも、まだこんなに熱い涙がこぼれるなんて。
手の中に残る一冊のノート。
それは、私の初めてのお盆に、家族が涙とともに送り届けてくれた『お供え物』だった。
夕暮れの風が優しく吹き抜け、私の体を光の粒のように溶かしていく。
(……ありがとう。ごちそうさま)
彼らの愛でお腹いっぱいになった私は、最後に一度だけ笑って、茜色の空へと還っていった。




