夜の魔導スタジオ――未来を奏でる霊律
夜の魔導スタジオ。
魔導録音装置のランプが淡く灯り、魔導鍵盤から紡がれるローズの音が、静かに空気を撫でていた。
ローズは、金属音叉の振動を魔導増幅して響かせる魔導鍵盤で、その音色は柔らかく、曖昧で、夜の静寂に溶け込むようだった。
奏汰――兄さんのスライド奏法が、わたしの魔導鍵盤に寄り添うように響く。
スライド奏法は、魔導金属のバーを弦の上で滑らせ、音程を連続的に変化させる。まるで声のように揺れるその音は、言葉にならない想いを伝えてくれる。
音だけで、会話ができる。
でも、今夜の音には、わずかな揺れがあった。昼間から続く、わたしの焦燥が、それを裏打ちしていた。
「……魔導学園に行くことが、音楽にどうつながるの?」
ぽつりと、わたしは口を開いた。
兄さんは魔導鍵盤に指を置いたまま、短く息を吸った。
「直接じゃない。だけど、魔導音楽は、遠回りから生まれることも多い」
その声は低く、でも熱を帯びていた。
「偶然出会った魔導詩が、歌詞になる。すれ違った誰かの癖が、リズムを生む。……そういうことだよ」
わたしは目を伏せた。濡れた前髪が頬にかかる。
「でもさ……教室って、息が詰まるんだよね。ずっと誰かと一緒ってだけで、胸の奥がざわざわして……」
その声は、まるで囁くように、魔導スタジオの闇に溶けていった。
兄さんは、隣に座り直す。
すぐ近くで、わたしの呼吸が微かに聞こえた。
「だったら、合う場所を探せばいい。週に数回だけ登校して、他は魔導通信で学べる学園もある」
「そんなの……あるの?」
わたしは、少しだけ振り返る。距離が、ほんのわずかに縮まる。
「あるさ。リュミナには、たぶんその方が向いてる」
兄さんの声が、低く落ちた。
「無理に“普通”に合わせる必要なんてない。リュミナは、リュミナのリズムで生きればいい」
その言葉に、わたしのまつげがわずかに揺れた。
視線が重なった。
しばらく、お互い何も言わない。
張り詰めたような、でもどこか心地いい空気が漂っていた。
「……ねえ」わたしは、ぽつりとつぶやく。
「“進学”ってさ、結局、なに?」
兄さんは軽く笑った。
「未来への投資、ってとこかな。今のままじゃ届かない場所に、届くための魔導切符」
わたしは魔導鍵盤に指を置いた。
ひとつ、コードを鳴らす。
ほんの少しだけ、音が揺れた。まるで、迷っているみたいに。
「わたし、怖いよ。進学のことも、将来のことも。でも……魔導音楽だけは、捨てたくない」
言葉の端が、かすかに震えていた。
そして同時に、どこか甘えてもいた。
兄さんは、ローズから手を離して、わたしの指にそっと触れた。
驚いたけれど、拒まなかった。
指先から伝わる、かすかな熱。音じゃない、生の体温。
「その気持ちがあれば、十分すぎる理由になる」
兄さんの声が、やけに近くて低かった。
「怖いのは、踏み出す証拠だよ。リュミナは、ちゃんと進んでる」
わたしは目を伏せて、小さく笑った。
「……わたし、ちょっとずつでいい?」
その声には、さっきよりも確かな響きがあった。
「うん。リュミナのテンポでいい」
兄さんがそう言うと、再びセッションが始まった。
コードとメロディが、ふたたび絡み合い、少しずつ熱を帯びていく。
夜の魔導スタジオ。
音と沈黙のあいだに、ふたりの距離が少しずつ近づいていく。
“進学”なんて言葉が、妙に遠く思えた。
今、この空間で確かに生まれているのは、もっと生々しくて、曖昧で、それでいて——逃れがたい「関係」だった。




