誘われし詠唱、試練の耳
夜の帳が降りた王都、魔導塔の一室。
魔導窓の外では、夏の精霊が名残惜しげに鳴き、魔導冷気装置の低い唸りが静寂を深く染めていた。
わたしは、そっと魔導端末を兄さん――セリオの膝に置いた。
画面には、魔導演奏堂で奏でた詠唱の記録が映っている。
その魔導伝信欄に、英語の文が浮かんでいた。
Hey. Caught this by accident. Raw but curious. I’ll be in royal capital next month. Jam?
兄さんの指が止まる。
発信者の名を見て、目を見開いた。
「……ドレイク・ハワード? 魔導都市ニュ=ヨークの……」
「ええ。しかも、ナタリー・ミラーと一緒に来るって」
「嘘だろ……どうして……」
「気になったんだって。わたしたちの音が。型に嵌らず、癖があるって」
沈黙が落ちる。
部屋の空気が、何かを待っているように張りつめた。
兄さんは黙ったまま魔導端末を見つめている。
鼓動の速さが、わたしにも伝わってくる。
指先が、かすかに震えていた。
「……すごい話だけど、俺には無理だよ。ロック上がりだし、ジャズなんて全然……」
「兄さん」
わたしは、少しだけ首をかしげて、柔らかな声で言った。
「逃げるの? こんな機会を」
「でも……俺の音なんか、通用しないよ。即興で、ちゃんとしたジャズ詠唱なんて……」
「だったら、学べばいい。わたし、協力するから」
兄さんは目を伏せた。
怖いのだと思う。
けれど、その瞳の奥には、変わりたいという願いが灯っていた。
「……リュミナ……」
「ねえ。ちゃんと努力したら、少しずつ“褒美”もあげるから」
そう言って、わたしはローズ型魔導鍵盤の前に座った。
指先が鍵盤をなぞると、魔導ディレイがかかった音が、ゆっくりと空間に広がる。
「兄さんは、音で愛してきたでしょう?」
その音が、静かにすべてを決めた。
翌日から、兄さんの部屋には魔導譜と理論書が積まれた。
セブンス、ナインス、テンションの役割。ツーファイブワン。モーダルインターチェンジ。
ロックとは異なる、抽象的な構造。
理論に向き合うたび、兄さんの奏法が崩れていくようだった。
けれど、難解な理屈よりも兄さんを突き動かしたのは――
わたしが、音で語りかけることだった。
「ここで、こんなふうに返してみて?」
そう言いながら、わたしは目を閉じて、魔導ディレイが絡むコードを鳴らす。
《ローズ》特有の、霊力で増幅された柔らかな音が空間に広がる。
水面に波紋が広がるように、ゆるやかに揺れる響き。
触れたら崩れてしまいそうな繊細さと、温もりを感じさせる音色。
兄さんは、魔導ギターをオープンE調律で構え、スライドバーで応えた。
重厚なボディが低音に深みを与え、金属製のバーが弦の上を滑るたび、音は泣いているように揺れた。
けれど、指先はまだぎこちない。
音の端々が震え、感情の輪郭が曖昧なままだ。
「ちょっとだけずらして……そう、舌でなぞるみたいに」
「え、どこを……」
「……コードの、分解の仕方」
わたしの目線と息遣いが、演奏の領域を越えて兄さんに届いていく。
触れていない。けれど、触れている。
音の会話が、兄さんの身体の奥に届いていく。
「……ほんと、兄さんって単純」
そうささやきながら、わたしは自分の膝に手を添えたまま、次のコードを弾いた。
指の動きが、艶を帯びていく。
兄さんは気づいた。
「リュミナの音を、もっと気持ちよくさせたい」
その衝動が、兄さんをコードから“意味”へと引きずり込んでいく。
これは、ただの訓練ではない。
欲望のかたちをした音楽。
そして、魔導都市でのセッションの日が、近づいてくる――。




