“着たい”じゃなくて、“見てほしい”の
「兄さん、ちょっと……こっち、来て」
わたしが呼んだのは、自室じゃなくて、廊下の奥にある“衣装の間”の前だった。
兄さんは少し驚いた顔をして、でも何も言わずに歩いてきてくれた。
「……この部屋、開けるの久しぶりだな」
そう言った兄さんの声が、少しだけ遠くに聞こえた。
この部屋は、母さんが生きていた頃、わたしのために衣装を仕立ててくれていた場所。
でも、母さんがいなくなってから、ずっと鍵をかけたままにしていた。
わたしは、そっとドアノブに手をかける。
指先が、少しだけ震えていた。
ゆっくりと扉を開けると、そこには変わらない景色が広がっていた。
壁一面の衣装棚。吊るされたローブやドレス。未開封の箱には、王都の仕立て屋の紋章が刻まれている。
「……ぜんぶ、母さんが選んでくれたんだよね」
「うん。小さいころ、“似合う”って言って、たくさん……でも、わたし、ずっと着られなかった」
兄さんは黙って頷いた。
わたしは、衣装棚の前に立って、そっと指を伸ばす。
「いまでも……これを着るのが“正しい”のか、よくわからない」
「正しいかどうかなんて、関係ないよ。リュミナが“着たい”なら、それでいい」
「……違うの。“着たい”じゃなくて……“着てるところを、兄さんに見てほしい”の」
言ったあと、すぐに視線をそらした。
でも、兄さんは何も言わずに、ただ頷いてくれた。
それだけで、少しだけ、安心した。
わたしは、いくつかの衣装を選んで、試着を始めた。
兄さんは部屋の隅の椅子に座って、静かに待ってくれている。
一着目は、黒地に銀糸の刺繍が入ったシャツローブ。
細身のシルエットで、今のわたしにぴったりだった。
「……どう、かな」
「すごく、似合ってる。魔導舞台に立つリュミナが、見えるよ」
その言葉に、わたしは少しだけ息を吸って――小さく、笑った。
「……よかった。これ、母さんが最後に選んでくれた衣装なんだ」
「そっか」
「着るのは、初めて」
「初めての一歩が、これっていうのは……きっと意味があるよ」
二着目、三着目と着替えてみたけど、やっぱり最初の黒のローブがいちばんしっくりきた。
「……やっぱり、これにする」
「うん。俺もそう思う」
「兄さんが見てくれたから、決められた。ひとりだったら、たぶん……また閉じ込めてた」
衣装の間の中で、わたしはそっとローブの裾を握った。
「母さんが、着てほしかった衣装。やっと……着てあげられる気がする」
兄さんは何も言わなかった。
でも、その沈黙が、いちばん優しかった。
ライブ――魔導音楽祭に向けて、準備は少しずつ進んでいる。
そして、わたしも少しずつ、“人前に立つ自分”を受け入れようとしている。
その一歩を、兄さんが見てくれている。
それだけで、今は――十分だった。