魔導詠唱なら、もう慣れてるはずだったのに
「……ほんとに行くの?」
わたしは、兄さんにそう聞いた。
魔導音楽祭のリハーサルが、明後日に迫っている。
場所は王都近郊の魔導演奏スタジオ。
見学だけでもいいって言われたけど――
「うん。午後から。
音の調整と、軽い打ち合わせだけだってさ。
リュミナは横に座ってくれてれば、それでいい」
少しだけ、間があった。
「……じゃあ、兄さんの横……絶対に離れちゃだめだから」
「了解。俺の片腕、くっつけとく」
「ばか」
ちょっと強めに言ってから、わたしはローブのフードを深く被った。
照れてるときのクセだって、兄さんはもう知ってる。
その日、わたしたちは初めて“ユニットとしての外出”をした。
魔導馬車じゃなく、転移石でもなく、普通の馬車。
わたしは後部座席で魔導イヤホンをつけたまま、小さく丸くなっていた。
「大丈夫か?」
「……魔導音でごまかしてるだけ。だから話しかけないで」
「了解」
イヤホンから漏れる小さな音は、わたしが作った魔導譜のプレイリスト。
兄さんの仮詠唱が混ざってるのがわかる。
わたしなりに、心の準備をしてるんだと思う。
それがちょっと嬉しかったのは、たぶん兄さんが単純だからだ。
スタジオに着いた瞬間、足が止まった。
「……思ってたより……本物っぽい……」
「魔導スタジオだからな。王都の楽団も使うところだし」
「……うう。帰っていい?」
「着替えてすらいないだろ」
「もう帰りたい」
「だめ。手引っ張ってでも連れていくぞ」
「……兄さんが触るなら、まあ……ちょっとだけ我慢する」
「それって照れてるの? 開き直ってるの?」
「……どっちでもない。ばか」
ぶつぶつ言いながらも、わたしはちゃんとついていった。
兄さんのローブの裾を、指先でつまむみたいに。
スタジオの中は、ほの暗くて、乾いた空気が漂っていた。
壁には吸音魔法が施されていて、声がやけにクリアに響く。
魔導技師らしい人が、わたしたちを見るなり軽く頭を下げた。
「今日はありがとうございます。
リリカ・ノクティスのお二人ですね。
立ち位置の確認と魔導マイクの出音だけお願いできれば」
兄さんが答えると、わたしは黙って頷いた。
言葉がなくても、これでいい。
「じゃあ、『Always You』のイントロでチェックしましょうか」
「了解です」
魔導譜の再生魔法が発動し、トラックが流れ出す。
異世界から召喚した、The Sundownersの名曲『Always You』――
柔らかくて切ない旋律。
わたしの魔導アレンジで、懐かしい質感を加えてある。
この一曲で、わたしたちの音楽の方向性が自然と伝わる気がした。
あの音は、いつも部屋で聞いていた音。
でも、魔導スピーカーを通して空間に広がると、まったく違って聞こえる。
本物の音楽になった、そんな気がした。
兄さんは魔導マイクを持ち、いつもより少し丁寧に歌い出した。
そのときだった。
となりから、かすかに声が漏れた。
兄さんが振り向く。
わたしはイヤホンを外して、口を動かしていた。
小さな声で、兄さんの歌に合わせて。
自分の曲に、自分の声を重ねている。
ステージでもない、録音でもない、ただ、隣で――。
なんか、ずるい。
兄さんが笑ってる。
それがちょっとだけ、悔しかった。
でも、わたしも――
ちょっとだけ、気持ちを込めて、次のフレーズを口ずさんだ。
魔導スタジオの空気が、音で満たされる。
少し離れたところで、技師が「……すごいな」と呟いたのが聞こえた。
そして――
兄さんの袖口を、そっと引いた。
顔は見えなかったけど、たぶん赤くなってる。
その手の温度だけで、全部わかってしまうのが、ちょっとだけ悔しい。
帰りの馬車で、わたしはイヤホンをしていなかった。
「……兄さん、今日の歌……よかった」
「ありがとう。リュミナの魔導譜がよかったからだよ」
「……うそつき」
「ほんとだって」
窓の外を見ながら、小さく言った。
「じゃあ……本番も、そばにいて」
「ずっといるよ」
「……じゃあ、もうちょっと、がんばってみる」
それは、わたしが“魔導詠唱”じゃなく、“自分の声”で伝えようとした、
初めての一歩だった。