音の刃が、わたしを試す
昼過ぎ。
魔導録音室は、静かだった。
わたしと兄さん――セリオは、それぞれの魔導ノートパーチメントに向かって作業をしていた。
ふたりとも喋らないのは、いつものことだったけど――この日は、少し違っていた。
「……兄さん、ちょっと」
わたしが袖を引くと、セリオは顔を上げた。
「ん?」
困ったような、でも少しだけ楽しそうな目をして、わたしを見てくる。
「来る、と思う」
「誰が?」
そのとき――
魔導窓の外から、軽快な足音。
次の瞬間、閉じていたはずの魔導扉が、外側から「カチャ」と音を立てて開いた。
「やっほー、ふたりとも♪」
ひらりとスカートを翻して、ルナが部屋に現れた。
「……鍵、かけたはずなんだけど」
セリオがぼそっと言うと、わたしはふぅ、と静かに溜息をついた。
「おかしいのは今さらでしょ?」
ルナは当然のように部屋の中央まで進んできて、わたしのベッドに腰を下ろした。
「ねえ、リュミナ。最近のあんた、ちょっと調子いいんじゃない?」
わたしは言葉を返さず、無言でルナのほうを見た。
その瞳は、少し警戒しているようにも見えた。
「“恋も、音楽も、負ける気ない”って言ったの、忘れてないわよね?」
ルナは髪を指でくるくると巻きながら、あっけらかんと言う。
「それ、今日わざわざ言いに来たのか?」
セリオが聞くと、
「まあ、それもあるけど……」
ルナは魔導ノートと魔導タブレットを取り出した。
「今週末、あんたたちがいつも使ってる魔導スタジオ、私も予約したの。
わざわざ時間かぶせておいたから。よろしくね」
「……勝負、するってこと?」
わたしが静かに聞いた。
「勝負、なんて大げさな言い方やめてよ。リハーサルに乱入するだけ。
あんたの歌と私の歌、どっちが“届くか”……それだけの話よ」
わたしは少しだけ顔を伏せた。
だけど、すぐにセリオの袖をぎゅっと掴んだ。
「兄さん。……わたし、負けたくない」
その声は、震えていなかった。
「リュミナが歌いたいなら、俺は全力で曲を書く」
「うん。……うん」
わたしの眼差しは、ルナの方へ向けられる。
その視線には、明確な“敵意”ではなく、“覚悟”が宿っていた。
「……いい目してるじゃない。ちょっと安心した」
ルナはにこっと笑って、魔導タブレットの画面をこちらに向けた。
そこには、自作の新曲タイトルと、作詞者名に“Luna”と書かれていた。
「ちなみに、この曲。恋人の隣を奪う女の子の歌。ちょっと、刺激的でしょ?」
わたしは何も言わずに立ち上がり、部屋の奥の魔導鍵盤に向かって座った。
指が鍵盤に触れると、音が空気を震わせ始める。
「……やってやる」
わたしは、小さくそうつぶやいた。
ルナはそれを見て、くすっと笑った。
「その調子。あんたが本気出してくれないと、張り合いないから」
そう言って、ルナは魔導窓から再び出ていった。
カーテンが揺れ、音が止まる。
セリオが、静かに呼吸を整えて言った。
「リュミナ。ルナのこと……どう思ってる?」
わたしは鍵盤に手を置いたまま、ほんの少しだけ考えるような顔をした。
「……たぶん、わたし。彼女がいて、ちょっと、安心してる」
「安心?」
「だって……誰も来なかったら、“この声”がどこにも届かないって、思ってたから」
セリオはその言葉に、一瞬、言葉を失った。
そして思った。
“届かない声”に向けて歌うわたしが、誰かに届き始めたこと。
それが、今のわたしにとって、怖さよりも……喜びになっていること。
でも、セリオは気づいていた。
リュミナの魔導ノートの端に、そっと書かれた“霊出席日数”の欄。
そこには、空白が多すぎた。
記録されなかった日々。
誰にも見られなかった時間。
それでも、今――
わたしは、誰かに見られている。
誰かに、届こうとしている。
その夜、ユノから魔導伝信が届いた。
『声が重なってきたね。どちらが主旋律になるのか、楽しみにしてる』
わたしは画面をじっと見つめたあと、セリオに言った。
「……この人、ほんと、何者なんだろ」
セリオも答えられずに、ただ魔導窓を見つめ返すしかなかった。




