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フゼンメール共和国物語

お星さまになった夫が最期に贈ってくれたもの

作者: 柏井清音

 ――人はどんな状態を生きているとし、何をもって死んだと見做すのか。


 アマンダは椅子に腰かけながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。秋の風が大きく開け放たれた窓から吹き込んできて、彼女のオレンジ色の髪をふわりと揺らした。

 白い壁、白いシーツ、白いカーテンで統一された病室はどこか非現実的で、ここだけ日常から切り取られたような錯覚を覚える。


 大きな窓の近くに置かれた寝台の上に、ひとりの男が仰向けに寝かされている。うっすらと開かれた瞼からはとび色の瞳が覗いていて、濃い金髪が男の痩せた頬に影を落としている。鼻には胃に直接栄養剤を流し込むためのチューブが差し込まれていて、乾燥した唇からは規則的な呼吸音が聞こえてくる。


 アマンダの夫ミカエルだ。


 1年と少し前。彼は友人二人とキャンプに行き、そこで樹木の魔物に襲われた。友人のうちひとりは重症を負いながらも何とか逃げ、キャンプ場の管理人に救助を要請することができた。もうひとりは致命傷を負いその日のうちに死亡が確認されたが、ミカエルは心肺停止状態に陥ったものの、息を吹き返した。


 しかし、魔物の一部が傷口を通して体内に侵入し、ミカエルの脳の思考と行動制御を司る部分に根を下ろしてしまったのだ。部位が部位なだけに、医療魔術で寄生している魔物を攻撃・除去するにはあまりにも危険が伴うと判断され、薬剤を投与し続けて魔物が全身を浸食するのを防ぎつつ、魔力が枯渇して朽ちるのを待つことになった。


 魔物との見えない戦いは一進一退を繰り返したが、入院から3ケ月過ぎた頃には脳に張っていた根のほぼ全てが死滅したとの報告を受けた。


 しかし、ダメージを負った脳の機能が回復する兆しは見えなかった。


 以来、彼はこうして寝台に横たわったままだ。脳の一部が魔物に侵されているとはいえ、生命維持に必要な部分は無事だったため、心臓も動いている。自発的に呼吸することもできているし、今のように瞼を開いている時もある。


「生命維持機能が生きているので眠ったり覚醒したりしますし、目を開くこともありますが、ご主人は周囲の様子を把握していませんし、ご自分で何か考えたり、行動を起こしたりといったこともできません」


 当初、アマンダは医師に告げられた無情ともいえる宣告を受け入れることができなかった。


「そんな……だって、咳をしたり、わたしが手に触れると指が動いたりするんですよ!?」


 医師は首を横に振り、キッパリと言い切った。


「それは外部からの刺激に対する反射であって、決して彼があなたがそばにいることを認識していて、手に触れてくれたのに応えるために手を握り返そうとしたわけではないのですよ。生まれたばかりの赤ん坊が、手に触れた大人の指を握り返すのと同じ反射です」


「そんな……。でも、良くなりますよね? また以前のミカエルのように、話したり笑ったりするようになりますよね!?」


 医師は痛いものを堪えるような顔をして目を伏せた。


「ご主人と同じ状態になった患者さんの中には回復し、意思の疎通が可能になった方もいますが、ほんの一握りです。必ず回復するわけではありませんし、何年かかるかも分かりません。こんなことを申し上げるのは酷ですが、回復せずに亡くなる方も珍しくありません」


 「そんな……。娘はまだ、4歳なんですよ? ……こんなことって」


 目の前が真っ暗になった。あんなに元気だった夫がずっとこのままだなんて、悪い冗談としか思えなかった。


 しばらくの間、アマンダは希望を捨てなかった。暇を見つけては見舞いに訪れ、娘と共に積極的に話しかけた。しかしミカエルから反応が返ってくることはなかった。次第に希望は薄れていき、絶望へと塗り替わっていく。


 入院期間が長引くにつれ、ミカエルにかかる医療費が膨れ上がってアマンダたちに圧し掛かってきたのだ。

 仕事を掛け持ちして夜遅くまで働いているのにも関わらず、その日のパンにも困窮するようなギリギリの生活を送るようになった。まだ4歳と幼い娘のリナに優先的に食べさせているせいで、アマンダは何日もまともに食事を摂れないこともあった。


 見かねた友人たちが作り置きの総菜を分けてくれたり、保育所に預けるだけのお金もないアマンダのためにリナを預かってくれた。しかしアマンダは毎晩遅くまで働いているため、迷惑をかけていることが心苦しくてたまらない。彼女たちは「気にしないで」と言ってくれるが、永遠にその好意に縋り続けるわけにもいかない。彼女らには彼女らの生活があるのだ。


 遠方に住むアマンダの両親は金銭的に支援をしてくれたが、既に仕事を引退している身だ。彼らが今後生活していくための蓄えまで融通してもらう訳にい行かない。ミカエルの両親は既に他界しているし、これだけよくしてくれる友人たちに借金をするのだけは、どうしても嫌だった。


 家賃も既に3か月滞納しており、あと数日以内に支払わなければ強制退去してもらうと大家から通告があったのが、昨日の朝のこと。


 パパがいいと泣くリナを何とか宥め、泣き疲れて眠った娘の隣に横たわる。


 このままでいけば、水道も止められてしまう。

 これから冬がやってくるというのに、家中の魔道具の魔石を交換する金銭的余裕もない。


 ――もう、どうしたらいいのか分からない。


 ミカエルはいつになったら意識を回復してくれるのだろう。

 そもそも、回復することはあるのだろうか。


 運よく意識が回復したとしてもそれは何十年後かもしれないし、元のように自分で動けるようになるのかも分からない。リハビリにはどれだけの期間と費用が掛かるのだろう。


 重度の後遺症が残るのなら、退院した後は介護の問題が出てくる。家事育児に介護まで加わってしまったら、当然アマンダが仕事に費やせる時間も限られてくる。


 このフゼンメール共和国のほとんどの中流階級がそうであるように、アマンダも高等学校を卒業してからすぐに働きに出たため、より専門的かつ高度な教育を受ける大学には行っていない。そんなアマンダが短時間だけ働くことができ、おまけに家族3人養っていけるだけの高給をもらえるような職につけるはずもない。


 道の先にはどんよりと暗雲が立ち込めて、もはや一筋の光も差し込む隙間がないように思えた。

 不安と恐怖が雪崩のように襲い掛かってきて、涙が止まらなくなった。


***


「すでに治療開始から一年以上が経過しています。我々としては今後も回復の可能性は低く、奇跡的に意識を回復したとしても、重度の後遺症が残ると見込んでいます」


 その日、身も心もボロボロの状態で見舞いに訪れたアマンダを待っていたのは、あまりにも残酷な現実だった。


 病室に入るなり、緊張した様子の看護師に呼ばれ、ミカエルを担当している医師の診察室へと通された。頭髪に白いものが混じった彼は、真剣な面持ちでそう宣告した。

 彼は愕然と目を見開いたまま硬直しているアマンダの様子を慎重に観察しつつ、中指で黒縁眼鏡を押し上げた。


「それを踏まえた上で、教えていただきたいのですが、奥様はこれから先、どのような処置をお望みでしょうか?」


「どの、ような……?」

「ええ、」


 彼は言いにくそうに咳払いをしたが、無慈悲にも続ける。


「生命を維持する医療の継続を望まれますか? 中止を望む場合、いつ頃から中止したいと思われますか?」


 世界から音が消えた。

 目の前が大きく波打っている。

 いや違う。これはアマンダの鼓動だ。あまりにも心臓が大きく跳ねているせいで、全身が揺れているように感じるのだ。


 何かを言わなくては、と思ったのに、唇が鉛のように重くて動かせない。


「あ――……」


 貼りつく喉から絞り出たのは、意味をなさない音だけだった。


 それから、どうしたのかは覚えていない。

 気付けばアマンダは、ひとりでミカエルの傍らに座っていた。


 記憶の片隅で、医師が「今すぐに決断しろとは言いません。ご家族ともよく相談なさってください」と言っていたような気がする。


 ――決断。


 ミカエルを花壇にひっそりと咲く花のような状態で生かし続けるのか、それとも生きる手伝いを止めて、自然に逝く日を待つのか決断しろと、医師は言った。彼の妻である、アマンダに。


 スースーと、夫が命を刻む音がやけに耳についた。緩慢に首を巡らせれば、半眼で宙を眺めたままのミカエルの胸が、微かに上下している様が網膜に焼き付いた。


 彼の体は生きている。しかし、ミカエルという人物を形成する人格は、意識は、そこにない。


 この白に包まれた世界に残されているのは、かつてミカエルという男だった肉の殻だけ。こんな状態を、生きていると表現するのは、果たして正しいのだろうか。


 冥府へと旅立たせてあげた方が、彼のためなのではないか。

 彼を手放しさえすれば、アマンダはリナを飢えさせることも、真冬に寒い思いをさせることもなくなる。


 ――そう、『生きている』自分たちのため、ミカエルを犠牲にすればいいだけだ。


 アマンダはふらりと立ち上がった。一歩一歩、ミカエルに近づき、身を乗り出す。寝台の両脇に取り付けられている転落防止用の柵が太ももに押し付けられる感触がした。


 ハアハアと、自分の呼吸する音がやけに耳につく。


 午後になって髭の伸びたミカエルの顎と、以前より細くなった首に目が釘付けになる。まるで吸い寄せられるように、ふわりとアマンダの両手が持ち上がった。


 自分の荒れた手先がミカエルの首に近づいていくのが、スローモーションのように見えた。


 ――いっそ、魔物に襲われた日に、死んでくれていたら。

 そうしたら、夫か自分たちの未来か、天秤にかけずに済んだのに。

 最愛の(ひと)を裏切らずに済んだのに。


 指先にざらついた感触がした時、ミカエルの喉ぼとけが微かに動き、アマンダはハッと我に返った。

 自分の両手がミカエルの首に添えられていることに気付き、ヒュッと息を呑む。


 ――自分は今、何をしようとしていた?


 全身の血が音を立てて引いていき、両手が震えだした。


 弾かれたように身を引き、その拍子に後ろにあった椅子につまずいて床に倒れ込む。

 あまりの恐怖に呼吸が乱れ、息苦しい。


「違う、違う、違うっ……!!」


 アマンダは眩暈がするほど激しく首を横に振った。


 自分が最愛の夫を縊り殺そうとしていたなんて、信じたくなかった。しかし何度否定しても、胸中にべっとりと貼りついた罪悪感を拭うことはできない。


 両目の奥がジリジリと痛み、幾筋もの涙が頬を伝って冷たい床に降り注ぐ。


「わたし、わたしは、何てことを……!!」


 激情に任せて、アマンダは床に拳を叩きつけた。痛みに手が悲鳴を上げても、夫を犠牲にしようとした冷酷な自分を罰したくて、何度も何度も拳を振り下ろす。


 カターン!

 何かが床に落ちて、アマンダは音のした方を振り向いた。


 そこにあったのは、木枠の写真立だった。ミカエルの寝台の脇にあるナイトテーブルの上に飾っていたものだった。結婚式を挙げた日に取った写真を入れてある。


 アマンダは床に座り込んだまま写真立を手に取った。


 ミカエルは彼の出身地である東北地方伝統の白い花婿装束に身を包み、アマンダは首都メロリで流行していた当時最先端の白いドレスを着ている。

 写真の中の二人は幸せそのものといった風にこちらを見つめている。今となっては、何十年も前のことのように遠く感じる、人生で最も幸せだった日のひとつ。


 あの日、二人はお互いに誓い合ったのだ。


『どんなことがあっても、君の身も心も、僕が必ず守るよ。愛している』

『わたしもあなたを守るわ。どんな時もあなたを支えるって誓う。愛しているわ』


「愛しているのに……どんなことがあっても、支えるって、誓ったのにっ……!! わたしは、何て酷い人間なのかしら……っ」


 ――それなのに。今の自分はどうだ。


 医療費という名の借金に追われ、生活に疲れて絶望し、最愛の人の死を願うまでに堕ちた。


「助けて」


 熱い息に紛れて漏れ出たのは、紛れもない本心だった。


「誰か、助けて……」

 

 ここでアマンダがミカエルを見放せば、彼は永遠にこの世界から消えてしまう。

 反応はないとはいえ、今の状態なら、リナも父親の存在を目で見て、肌で触れて感じることができている。まだ幼い娘から完全に父親を奪うなんて惨いことを決意することができない。


 ――いや、こんなもの、全て時間稼ぎのための言い訳だ。


 アマンダはただ、愛する人を『殺す』という選択をするのが、自分であって欲しくないだけ。

 例え娘にひもじい思いをさせる期間が延びたとしても、その残酷な判断をする日をできるだけ遠ざけておきたいだけ。


 それくらいそうしていただろうか。

 窓から差し込む光が茜色に変わろうとしている時、病室の扉が開いて、看護師が顔をだした。


「ソルジェトクさん、申し訳ないけれど、もう面会時間が過ぎているの」


「……ごめんなさい、すぐ出ます」

 

 アマンダはよろめきながらも起き上がり、この世の一切から切り離されたような夫の手を握った。

 

「ごめんね、ミカエル。逃げることしかできない弱いわたしを許して。愛しているわ」


 消え入りそうな呟きに応える声はなかった。



***



 その日の夜、アマンダは夢を見た。


 薄桃色と淡い黄色を混ぜたような光であふれる空間に独りでぼんやりと佇んでいると、背後から懐かしい声がした。


「アマンダ」

 

 一年ぶりに聞く夫の声に、アマンダは衝動的に振り返る。

 そこに立っていたのは、白いシャツに白いズボンを身につけたミカエルだった。彼は蕩けそうな笑みを浮かべて両手を広げていた。よく日に焼けた肌に適度に鍛えられた身体。幸せな記憶の中のミカエルそのものだった。


「ミカエル!!」


 アマンダは夫に駆け寄り、迷うことなく彼の逞しい胸にしがみついた。すぐさま彼の力強い両腕が彼女を抱きしめてくれる。森のような匂いが鼻孔を掠めた。彼の愛用している香水の匂いに胸が締め付けられる。


「ミカエル! ミカエル! ああ、会いたかった、ずっと、会いたかったの!!」


 堪らず泣き出したアマンダを、ミカエルは更にきつく抱き寄せた。


「ごめんな。迷惑をかけて。俺のせいで、アマンダとリナを辛い目に遭わせた」


「違うの、ミカエル。迷惑なんかじゃない。あなたのためなら、どんなことだってするわ。戻って来てくれて、本当に良かった」


 洟を啜りながら自分の胸に顔を押し付けるアマンダに、ミカエルが困ったように小さく嘆息したのがわかった。訝しんで顔を上げると、彼は今にも泣きだしそうな顔をしていた。


「ごめん、戻ってこれた訳じゃないんだ。何とかすれば、ここでならアマンダに会えるかなっ思って」

「えっ……?」


 どういう意味なのか問おうとしたが、ミカエルに優しく口づけられて、うっとりと目を瞑る。


 何度か唇を啄んだ後、彼は名残惜しそうに身を離した。潤んだとび色の瞳がキラキラと輝きながらアマンダを見つめる。


「僕はあの日の誓いを全うするよ、アマンダ。僕は君の身も心も守りたい。もう、僕にはこんなことしかできないけれど……」


「ミカエル……?」

「……どうか、悲しまないで。いつかまた会えるから」


 形容しがたい不安が胸に去来して、アマンダは眉根を寄せた。


「もう行かないと。リナのことを、よろしく頼むね」


 ミカエルはごつごつした手の甲でアマンダの頬をひと撫ですると、踵を返した。


「待って!」


 追いかけようとするのに、アマンダの足は地面に縫い留められたように動かない。

 必死に身動ぎしている間にも、ミカエルはどんどん遠ざかって行ってしまう。どこからともなく淡く金色に光る霧が立ち込めてきて彼の姿を覆っていった。


「待って! 行かないでミカエル! 愛しているのよ!」


 完全に霧の中に姿を消す直前、ミカエルは穏やかな笑みを湛えながら振り返った。


「僕も愛している。僕と生きてくれて、ありがとう」




「ミカエル!!」


 ピリリリッ、ピリリリッ。


 けたたましく鳴り響く音で、アマンダは覚醒した。

 瞼を開けると部屋の中は暗く、まだ日が昇っていない時間帯のようだ。

 両目から滂沱の涙が溢れ、耳とこめかみの髪をぐっしょりと濡らしている。


「――今のは、夢?」

 それにしては、抱きしめられた感触が、触れた唇の柔らかさと熱がやけにリアルだったような。


 独り言ちて、先ほどから鳴っている音が通信用魔道具の着信音であることに気付く。

 慌てて上体を起こし、ナイトテーブルに置いてあった通信用魔道具をひっつかむ。


「――はい」

「もしもし、夜分遅くに失礼します。アマンダ・ソルジェトクさんですか?」

「はい、そうですが」

「私はメロリ総合病院のロシェットと申します」

「は……い……」


 嫌な予感がして、背中に冷たい汗が流れた。



***



 眠ったままのリナを抱えて病院に駆け付けたアマンダは、病室の入り口で愕然と立ち尽くした。

 いつもと同じ、白で統一された室内。大きな窓の近くに置かれた寝台、その上で横たわっている夫。

 見慣れたはずの光景の中にひとつだけ違う箇所がある。


 ミカエルに繋がれていた数々の管の一切が取り外されているのだ。


「ミカエル……」

 

 震える膝を叱咤し、何とか寝台に歩み寄る。

 ミカエルは目を閉じたまま微笑を浮かべていた。

 やせ衰えた頬は紙のように白く、いつもかさついている唇に血の気がない。

 じっと目を凝らしても、薄くなった彼の胸は微動だにしていなかった。


「容体が急変して、日付が変わる頃に旅立たれました」


 静寂を切り裂いたのは、硬い医師の声だった。

 呆然と目をやると、彼は真摯な視線を返してきた。


「ご愁傷様です。……我々も、とても残念でなりません」

「……たしの」

「え?」

「わたしの、せいで」

「奥さん?」


 アマンダは恐る恐るミカエルの手を握った。氷のように冷たく変じた、大好きだった彼の大きな手。

 この手が優しく頬を撫でてくれる度、愛しさに胸が震えた。


 喉がギュッと絞られるように痛み、鼻の奥がツンとする。


「わたしが、助けてなんて、言ったから」


 もしかしたら、ミカエルの精神は肉体から切り離され、昨日のアマンダの悲痛な声を聴いていたのかもしれない。


「わたしが、弱かったから!」


 ――ああ、彼は正しく、あの日の誓いを守ってくれたのだ。


 アマンダがつらい決断をして傷つかないように。

 これ以上、アマンダとリナが苦しまないように。

 そっと、自らこの世を去ることで、二人を守ってくれたのだ。


「ごめんなさい、ミカエル!」


 優しい人だった。

 どんな時もアマンダとリナのことを一番に考えてくれる人だった。


 ふと、先ほど見た夢が脳裏に甦る。


 ――『僕は君の身も心も守りたい。もう、僕にはこんなことしかできないけれど、君に贈る最後の愛の証だ』


 都合よく解釈しているだけなのかもしれない。

 それでも、あれは彼からの最期のメッセージだったのだと思いたい。


「ごめんなさい。そして、ありがとう。愛しているわ、ミカエル」


 身を屈め、冷たくかさついた唇に口づける。

 

「んん、ママァ?」


 看護師に抱かれてうとうとしていたリナが目を擦りながらこちらを見ている。

 手招きすると、看護師はリナを下ろした。とことこ歩み寄ってきた娘を抱き上げ、寝台に載せてやる。


「パパ、今日はねんねしてるね」

「……そうね」

「なんで今日は、おはなとおててに長いのついてないの?」

「っ……、もう、必要ないからよ」


 洟を啜りながらも何とか答えたアマンダを、リナはキョトンと見上げた。何かを察したのだろうか、小さな唇を噛んで、ミカエルに視線を戻す。


「パパは、もうおっきしないのね」

「っ、そうよ。……もう、おっきしないの」


 リナはミカエルがいつも彼女を寝かしつける時にそうしていたように、「パパ、ねんね、ねんね」と言いながらミカエルの髪を優しく撫でつける。


 優しくも哀しい情景に胸が締め付けられる。堪え切れずにしゃくりあげるアマンダを振り返り、リナはにっこりと笑った。


「さっきね、パパ、リナに会いに来てくれたの」

「えっ……?」


「大好きだよって、いっぱい抱っこして、チュッチュしてくれたの。そばにいれなくてごめんねって。でも、パパはお星さまになってずっとリナのこと見守ってるから、寂しくないよって言ってた」


 ああ、きっとそうだ。彼はリナの夢の中にも会いにいったに違いない。

 ありったけの愛情を込めて、最期に思い出を遺して逝ってくれたのだ。



***



 メロリ近郊の墓地で、アマンダはリナを連れて墓碑の前で佇んでいた。


『ミカエル・ソルジェトク 共通歴2013ー2047 最愛の夫であり父、安らかにここに眠る』


 文字数の制限があったとはいえ、素晴らしい夫だった彼の一生を、こんなありきたりな文言にまとめてしまったことが悲しい。

 

 墓碑に刻まれた文字に視線を定めたまま物思いに沈んでいると、白いブラウスに黒いスカートを穿いたリナが手を引いてきた。


「ねえ、ママ。パパはお星さまになったんだよね?」


 こてりと首を傾げる娘の無邪気な様子が切ない。


「ええ、そうよ」


 リナはミカエルの墓に白い花を供えた。花屋でリナ自ら選んだ花だ。


「パパはお星さまになってお空にいるのに、なんでここにお花をあげるの?」


 幼い子供ながら鋭い質問に、アマンダは苦笑する。


「お空にお花を届けたくても、遠くてできないでしょう? だから代わりに、ここに飾ってあげるのよ。そうすると、パパもお空から見えるし、リナがお花をくれたって嬉しくなるのよ」


 娘はアマンダが即席で考え付いたもっともらしい説明に納得してくれたようだ。こくんと頷くと、耳の両脇で三つ編みにしていた、ミカエル譲りの濃い金髪が揺れた。


「そっかあ。じゃあ、またお花を持ってこようね。今度はねえ、ピンクのやつ!」


「ええ、そうしましょう」


 こうして、定期的に彼の墓を訪れることで、父親を身近に感じ続けてくれればいい。



 それから、二人はリナが寝る前に必ず夜空を見上げる日課ができた。

 ミカエルの星を探すのだ。

 

「ママ、見て! あれがパパの星だよね?」

「そうね。きっと、一番きれいに光ってるお星さまがパパだわ」


 その星は、紺碧の空で力強く瞬いている。いつでも二人を見守っているよ、と言うように。

 

誤字脱字は見つけ次第修正していきます。また、投稿された内容は後日改訂されることがあります。

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