【6】①
陽一郎の感情の揺らぎが、共に過ごすことの多い潤にも何となく伝わって来た。
彼は決して口にはしなかったが、その原因は先日の潤と恵太とのやり取りについてだろうということも。
それでもいつものように優しく、決して潤を追い詰めるようなことはせずに気遣ってくれる暫定恋人。
それに対して、潤もなんとか普段通りを貫こうとしていたのだが。
「潤、僕と居ていいのか?」
いつも通り部屋で過ごしているときの唐突な陽一郎の問い掛けに、潤は良い感情は感じ取れなかった。
「……どういう意味? 俺、ここに来ちゃいけない?」
「そうじゃない! そうじゃなくて、……ゴメン、言い方が悪かったな」
肩を抱いて宥めるような彼の声に、潤はどうしていいのかわからない。
陽一郎は、先日潤が恵太と話してるのを見たのだろうか。
もしかしたら、二人の間に何かあったと誤解しているのか……?
「風見さんも俺のこといい加減なヤツだと思ってるの?」
思考が悪い方にしか行かず、俯いたまま思わず零してしまった潤に彼は慌てている。
「! なんでそんな。いきなり何言い出すんだよ。さっきのはホントに僕が悪かったから──」
「だって俺は、俺は恵太さんが好きだったんだよ! 凄く、もう俺にはこの人しかいないってくらい本気だったのに」
元々不安定だった潤の心は、一度にいろんなことがあり過ぎてもうギリギリだったのかもしれない。
限界を超えてしまったらしく、自分でもわけがわからないままに陽一郎に対して感情を爆発させた。
「でも、今はあなたを、俺は。俺は、特別に、想って」
「おい、ちょっと落ち着いて──」
途切れながら話す内容よりも興奮した様子に焦ったらしい陽一郎が、振り払われた手の行き先を探すように彷徨わせている。
「俺は、ホントに恵太さんのことだけ、ずっとあのひとだけ、好きだったのに。なのにこんなあっさり乗り換えたりしてる。俺はそういう適当な人間なんだよ。だからきっといつか、風見さんのことも裏切るんだ」
強く吐き捨てた潤に、彼が口を開いた。
「それは僕のせいだよ」
勢いに任せて喚く潤に引き摺られることなく、陽一郎は穏やかな声で潤に言い聞かせるように話し出す。
「僕が、藤沢と潤の間に強引に割り込んだから。でなきゃそもそもこんなことにはならなかった」
少し強張った表情で、彼は続けた。
「だから、潤が自分を責める必要なんかないんだよ。全部僕が悪いってそう思っておけばいい」
「……違う!」
潤は悲鳴のような声を上げて、陽一郎の言い分に反論した。
「違うよ、そんなわけない。だって俺は恵太さんと別れてからあなたと付き合ったんだから。風見さんは割り込んだりなんかしてない!」
声が震える。
泣いてはいけない。潤が泣いたら、優しいこの人はより一層自分を責めるだろう。
それでも、必死に押し止めた涙が一粒零れた。
「潤! ちょっと冷静になろう」
涙のインパクトで逆に我に返ったのか、彼が思わずといった様子で正面から潤の両肩に置いた手にぐっと力を込めた。
この程度で涙を見せた自分が居た堪れなくて、とりあえず口を噤む。そっと深呼吸して、潤は少しでも落ち着こうと努めた。
「なぁ、潤」
「……何、風見さん」
興奮状態も少しは醒めて来たのを見て取ったらしく手を外した陽一郎に名を呼ばれて、敢えて抑えた声で返す。
「とりあえず藤沢のことは置いておいて。そんな簡単には出来ないかもしれないけど、無理矢理にでもいったん置いてくれ」
彼は少し切り口を変えて来た。
怖いくらい真剣な表情の陽一郎に、潤は気圧されて沈黙を守る。
「君は僕をどう思ってる? 僕のことはどうでもいい、潤の本心が聞きたいんだ」
「俺は、あなたが、好きです」
なんとかそれだけ口にした潤に、陽一郎は一瞬目を見張ったかと思うとすぐに顔を曇らせた。
「……訊き方が悪かった。これじゃ他に答えようがないよな」
「いや、そうじゃなくて。俺は別に、風見さんに気を遣ったわけじゃ──」
潤が慌てて弁解するのにも、彼は目を伏せて軽く首を左右に振る。
「君が僕といるのがつらい、苦しいって言うんならこんなのは終わりにしよう。それならもう、僕とは離れた方がいい」
苦しそうな声。いったいなぜ……。
「そ、なんでそんな話に、──」
「僕は潤には笑っていて欲しいんだ。無理に笑顔見せろって意味じゃないぞ、当たり前だけど」
いきなり話の方向性が変わったことに、潤は混乱してしまった。
「君が苦しんでるのは、僕もつらい。本当に潤が好きで……、大事なんだ。楽しそうに笑ってる潤が可愛くて、好きなんだよ。その笑顔の先にいるのが、僕じゃなくても」
──知ってる。俺は知ってたよ、それくらい。そうだよ、そういうあなたが、俺は。
「だから僕のことなんか気にせずに、君が少しでも楽に過ごせるようにして欲しい」
なかなか言葉を差し挟めないまま、潤は陽一郎が話すのを聞いていた。
「それでも僕は、少しの間だけでも潤と一緒に居られて楽しかった。幸せだったよ、本当に」
けれど彼が続けた台詞に黙っていられなくなる。
「……ちょっと待ってくださいよ。何をそんな、自分ひとりで勝手に決めてるんですか」
どうやら自分の中で一方的に答えを出して幕引きを図ろうとしているらしい陽一郎に、潤は逆に落ち着いて考えを整理することができた。
「風見さん、俺の話ちゃんと聞いてましたか?」
「聞いてたよ、当然だろ」
潤の問いに真顔で答える彼。
「だったら。風見さん、俺さっきちゃんと言いましたよね。聞いてたならわかるでしょ? 俺はいつの間にか風見さんが好きになってたから、そういう自分が信じられなくて悩んでたんです。俺は今でも恵太さんが好きで、なのにあなたとこうしてるからその板挟みで苦しんでるんじゃないんですよ」
これはもうきちんとすべて言葉にした方がいいか、と潤は心を決めて説明を始めた。
「ねぇ、まだわかってくれないの? もう一回繰り返さないといけないんですか? 俺は風見さんが好きなんですよ。もし俺が苦しそうに見えたなら、それはあなたを好きになっちゃったことが、なかなか受け入れられなかったからなんですけど」
「……錯覚じゃないのか?」
潤の言葉に、陽一郎は相変わらず静かに返す。
「だいたい、それは恋愛感情なのか疑問なんだよ。潤は僕のこと、人間としては好きでいてくれてたよな? でも一緒に居るうちに、……いろいろするうちにごっちゃになって来たんじゃないのか? だから、藤沢と僕への想いの間で君が苦しんでるんじゃないのかって、僕は」
「あの、風見さんてそこまで悲観的な性格じゃない筈でしょう。俺はそう思ってましたけど」
ここまで来ると、潤はもう自分の悩みなどは大したことがないのかもしれないという気にさえなってしまった。
ひとりで勝手に悲劇のヒーロー気分になられても、と潤はかえって醒めた気になる。なにやら自分に酔っているかのような相手にどう対応すればいいのか。
──まったく、この人は……。ちょっと困ったもんだな。