【4】①
何か用があったのか、珍しく大学に姿を見せた恵太が、キャンパスで潤を見つけて声を掛けて来た。
「お、にーな。元気にしてたか?」
「……うん。元気だよ」
──なんでそんなに『普通』なんだよ。
潤は、恵太と再会したらどうしたらいいのかと不安だった自分はいったい何だったのか、と拍子抜けした気分になった。
まるで二人の間には何もなかったかのように、平然として見える恵太に呆れさえ感じる。
別れたことも、それきり会っていなかったことも、恵太はまったく気にしていないかのようだ。
あまりにも『いつも通り』で変わりがなさ過ぎて、その人の好さそうな笑顔さえ潤は何故か癇に障ってならなかった。
別に恵太が気まずそうにしていたら満足かといえば、もちろんそんなことはないのに。
普通にしてくれていた方が、潤の方も気楽に思える、筈ではないのか? それなのに、何故。
飄々とした自分にどこか苛立っている潤に気づいていないはずはないのに、目の前の恵太はどこ吹く風で穏やかな笑みを浮かべたままだ。
こんなところを陽一郎に見られたりしたら、誤解されるかも──。
そう考えて、潤は慌てて打ち消す。
彼は潤が恵太と付き合っていたのも別れたのも知っているし、それもすべて承知の上での付き合いなのだから何の問題もない。
そもそも彼とは恋人同士というわけでもないのだから、誤解も何もあったものではなかった。もし見られたとしても、陽一郎にそのことで責められる筋合いなどない筈だ。
第一、陽一郎は潤を責めたりはしない。
──そうだよ。あり得ないけど、もし俺が恵太さんとより戻したいって言っても風見さんならきっと笑って「そうか」って送り出してくれる。
そうして必死で自分に言い訳をしていることの意味にも、潤は気づいていなかった。
それが誰に向けてのものなのか。
いま潤の頭を占めているのは誰なのか。
潤は陽一郎のそういうところが、凄く。凄く……?
いったいなんだというのだろう。
自分でもわからない。
「……風見さんは、ほんとにすごくいい人だから」
混乱を隠しきれていない潤は、続く恵太の言葉にさらに驚かされた。
「俺も安心だよ」
……恵太は知っていたのか? 潤が陽一郎と、形だけでも付き合っていることを。
別れたあとで誰と何をしようと潤の勝手だし、後ろめたいことなど何もない。
実際には彼は潤の恋人ではないけれど、もし次の相手が互いに知っている人間だったとしても恵太に言い訳する必要などはないのだ。
もう二人は特別な関係ではなくなったのだから。
なのに、潤は無性に気になってしまった。
「恵太さん、風見さんに何か言った?」
「言ったって何を?」
探るように、そう尋ねた潤に、恵太は問いで返して来る。
「……俺のこと、とか」
「ああ、にーなはいい子だから俺からもどうぞよろしく頼みますって?」
恐る恐る口にした潤に、彼は軽い調子で答えた。
「言ったの⁉」
驚きのあまり、思わず恵太に食って掛かってしまう。
「にーなだったら言うのか? もし俺が他の誰かと付き合うようになったら、その相手に『恵太さんはいい男だって俺が保証しますから、どうぞよろしくお願いしますね』とか?」
まるで噛みつかんばかりの勢いの潤に対して、特に声を荒げることもなく恵太が静かにそう問い返して来た。
「言うわけないじゃん! そんなの、そんなの親切でも何でもないし! つか、ただマウント取って喧嘩売ってるようなもんじゃないか」
「そうだな、だから俺も言ってないよ。そこまで無神経じゃない」
「……ごめんなさい。でも俺も、恵太さんがそんなこと言うと思ってたわけじゃなくて──」
いつになくきっぱりと言い切った恵太に、潤は己の失敗を悟って素直に謝る。
「大丈夫、わかってるよ。言い出したの俺だしな」
恵太はあっさりとそう口にして続けた。
「俺はにーなが好きだし、ホントに可愛いんだよ。だからにーなには幸せになって欲しいんだ。……いや、こんなこと言うのも何様なんだって感じで、もう俺が心配する筋合いじゃないことくらいちゃんとわかってるんだけどな」
微妙に視線を潤の顔からずらして、彼が淡々と話す。
「筋合いって、……そんなこと、俺思ってない、から」
「それでも俺たちは、……俺は、俺とではダメだったんだ。残念だけどそれが事実なんだよな」
苦笑しながらの恵太に、潤はなんと返していいか迷った。
「恵太さ、ん」
「にーなが俺のために別れようって言い出したことくらい、もちろんわかってた。なのに、俺は黙ってそれに甘えてしまった」
ふと目を合わせた彼が真剣な表情で告げて来る。
「恵太さん、俺。俺は──」
「にーなの言った通り、俺には余裕なんか全然なかったんだよ。自分のことで手一杯で、にーなのことなんか何ひとつ考えてもやれなかった。もしにーなが言い出さなかったとしても、俺たちは近いうちに必ず壊れてた筈だ」
泣き出しそうにも見える潤の表情に、恵太は一瞬顔を顰めて、それでも話を止めることはない。
「ただその場合、たぶんもっと、もっとお互いに傷つけ合ってボロボロになってしまったんじゃないかな。にーなはそれも薄々気づいてて、自分勝手な振りして俺を自由にしてくれたんだろ?」
「そ──」
口を開き掛けた潤を黙らせるように、彼は言葉を被せて来る。
「そんな真似させてしまったのはホントに申し訳なかったと思ってる。嫌なこと全部にーなにやらせたみたいで、ていうかやらせたんだよな、間違いなく」
恵太には全部わかっていた。
そうだ、……そういう人間だと潤もよく知っていた、筈だ。
「だからさ、今にーなが誰と何してようと、俺に遠慮する必要なんかこれっぽっちもないんだよ。余計なこと言って悪かったな」
恵太はそこで少し躊躇う素振りを見せたものの、潤の目を見たまま口を開いた。
「……俺、今の事務所辞めて実家に戻ることになったから。今日は世話になった教授に挨拶に来たんだ」
「恵太さん……」
やはりそうなるのか。
わかり切っていた未来なのに、頭の芯が冷たくなる思いがする。
「ゴメンな、俺ほんとに、……親とか常識とか、そういうのに縛られてるくだらない男でゴメンな」
「やめてよ、そういうの。もし恵太さんが『親なんかどうでもいい、好き勝手に生きるから』って人だったら、俺あんまり嬉しくなかった、かもしれない、し」
まるで懺悔のような恵太の台詞に、潤は掠れる声でようやく言葉を絞り出す。
悲しい時にすぐ泣ける、「可愛い」タイプならよかった、と考えたことは数限りなくあった。
しかしいま、涙の出ない己を心の底からありがたく思う。ここで泣いたら、潤の存在は恵太の一生の傷として深く刻まれてしまう。
「にーな。俺、すごくにーなが好きだよ。それだけは嘘じゃないから」
「俺も恵太さん好きだったよ。ホントに。ホントに一番大好きだった」
どうにか気持ちを伝えたい。初めて心も身体も愛し合った相手。
……共に生きる未来を描けなかった、元恋人。
「なぁ、にーな。最後にひとつだけ」
必死に言葉を紡ぐ潤に、目の前の大柄な彼が微笑む。
「にーな、今自分が俺に何喋ったか、あとでゆっくり最初から全部思い返してみろよ。そしたらにーな自身にもわかってないことが、見えるかもしれないから」
まるで謎掛けのような言葉を残して、恵太はやはり何でもない風にふらっと去って行った。