【3】①
こうして、潤は陽一郎と付き合い始めた。
付き合いとはいってもまるで高校生のような、いやもしかしたらそれ以上に健全過ぎる関係だ。
最初のうちは、平日の仕事と大学が終わった後待ち合わせて外で食事をしたり、たまに飲んだりするくらいでしかなかった。
男同士、二人の真意はともかくデートには見えない筈だ。
しかも服装からもすぐわかる社会人と学生の組み合わせは、傍目には単なる先輩と後輩でしかないだろう。
たとえばリクルート活動だと取られても不思議はない。
普段友人とは行かない、とはいえ潤の「如何にも大学生」風の格好でも居心地の悪くない店を選んで連れて行ってくれる彼。
言動の端々に潤への気配りを感じさせる、優しい、優しい人。
陽一郎が話してくれる仕事関係の話も興味深く聞いた。もちろん彼は、口外できないことを部外者である潤に漏らすことはない。
ただ、当たり障りのない部分だとしても「別世界の話」は十分に楽しかった。
「新名、今度うち来ないか?」
「風見さんて一人暮らしだよね? 行きたい!」
「一人だから狭いし、ホントに大した部屋じゃないけどな」
そんなやり取りの末、彼の暮らす1LDKのマンションにも呼ばれて行くようになったものの、そこでも特に何があるということもない。
ほとんど友人同士と変わらないように、ただ共に過ごすだけだ。
「そうだ、新名って映画好き? 僕、この間テレビで『地上波初』だったの観られなかったからレンタルして来たんだよ。もしよかったら一緒に観る?」
「この間、ってあの探偵ものの? 観たい! 俺、あとでSNSで知ってさぁ。『えー、やってたのかよ! 観たかった!』って残念だったんだ」
陽一郎が淹れてくれたコーヒーを飲みながら切り出されて即食いついた潤に、彼は優しく微笑んでいる。
そして気づいた。
そういえば、「昨日のテレビの映画、後で知って悔しかった」と何気なく零してしまった気がする。
「別に映画って殆ど見ないし、サブスク入るほどじゃないからさ。でも主演の近衛さんが好きなんだよね。知ってる? ホラ、『レギュラーシーン』ってドラマに出てた人」
「ああ、わかるよ。あの俳優さん、結構いいよな。僕も好きだ」
微笑んで相槌を打っていた彼と、映画やドラマについて話もした。
「ホントはさ、近衛さんなら『真実のカケラ』が一番好きなんだ」
「えっと確か、親友が冤罪で捕まって、ってやつだっけ? 映画だよな?」
「そうそう! でもああいう『感動作』って俺観ても泣けないから。『すごい泣けた! どこが感動した!?』とかって話になると、すげービミョーな空気になるんだよね……」
実はその映画自体は、高校時代友人と観に行ったのだ。
エンドロール後に照明がついた時、目を赤くした彼の「……新名。お前これ観て平気なの?」という呆れた声が強く印象に残っている。
せっかくの映画の記憶が上書きされてしまったようで、それ以来映画館へ足を運んだことはない。
恵太とも、もちろん陽一郎とも。
「感動的なのに泣かないって何が変なの? 僕はコメディのしんみりしたシーンで泣くことあるけど、バカみたいだよね?」
「え!? それは違うんじゃない? 『コメディ』だってずっと笑いっ放しとは限らないじゃん。ストーリーあるんだし」
本音で反射的に答えた潤に、彼はゆったりと頷いた。
「うん、その通り。何を見て、感じて泣くか、泣かないか。そんなの一面的に決められることじゃないだろ」
その時はそれで終わって、陽一郎は特に何も言ってはいなかったのに。
覚えていて、わざわざ借りてきてくれたのだろうか。
陽一郎のことだからきっとそうだ。
まず「自分が観たかったから」と切り出して、恩に着せるようなことをしないのも。
二人掛けのソファに座って映画を観ながら潤がさり気なく手に触れたら、彼は視線はテレビ画面から外さずにそっと手を握り返してはくれる。
だがそれだけで、そこから何も発展することはなかった。それ以外には一切何も、キスさえもしていない。
──これって付き合ってるって言えるのか? ただの仲のいい友達とどこが違うんだよ。
潤は、陽一郎の内心を想像して、あれこれ考えを巡らせた。
彼が想定していた『付き合い』とはこういうものだったのだろうか。
それとも、潤に気を遣って……?
「ねぇ、風見さん」
焦れた潤は正面から切り出した。
「どうして、俺に何もしないんですか?」
直球過ぎる問いに陽一郎はさすがに面喰ったようで、薄いレンズの奥の瞳が微かに揺れた気がする。
「……それは、できないだろ」
一瞬の間を置いて、彼は真剣な口調で答えた。
「なんで?」
「なんでって、新名」
陽一郎は少し戸惑った様子は見せたが、それでも怯むことなく持論を述べる。
「僕は別に、新名とそういうことしたいから付き合おうって提案したわけじゃない。確かに君のことは好きだよ」
「だったら──」
好きなら、誘われて何を迷うことがあるのか。
潤には本当に彼の心が読めなかった。
「でも好きだからこそ、一緒に居て気を紛らわせるまではともかくそれはまだ。まだ、無理だろう」
「無理、ですか?」
何故そこまで難しく考えているのか理解できないでいる潤に、陽一郎は続ける。
「だって僕たち、ようやく二人でいることに慣れて来たくらいだろ? とてもそんな、次に進むようなそういう段階じゃないと思うんだよ」
潤に口を挟む隙を与えることなく、彼はいつになく饒舌だった。
「それ以前にさ、そもそも恋愛関係じゃないんだし進むとかって話自体おかしくないか? まだ、今のところは」
潤と陽一郎では、この関係や交際そのものに関する感覚が違っているということなのだろうか。
「僕はさ、いい年して潔癖過ぎるとか笑われるかもしれないけど。お互いに気持ちがない、身体だけの関係は嫌なんだよ」
「いや、身体だけって──」
陽一郎のあまりにも真っ直ぐな考え方に、潤は言葉に詰まってしまった。
それは、確かに潤と陽一郎は『愛し合っている』とは到底言えないけれど。
「俺は風見さんを信頼して頼ってるし、あなたは。あなたは俺が好きなんですよね?」
それでも自分なりの考えを伝えようと言い募る潤を、彼は複雑な顔で見つめている。
「それなら俺たちの間には気持ちはあるんじゃないですか? 愛じゃないかもしれないけど。だから今セックスしたからって、『身体だけの関係』とはまた違うと思いますよ」
簡単には頷かない、考えを変えられないのだろう陽一郎の心を、少しでも動かせるように。
「俺も風見さんももう子どもじゃないんですから。俺たちは一応気心も知れてるんだし、お互いが納得さえしてればどういう関係持ったって別に何も問題ないんじゃないですか? 知らない相手と成り行きでとか、そういうのとはまったく違うんだし」
「問題、ないって、それは。それはちょっと……」
彼の狼狽が、潤には手に取るようにわかる。
普段の落ち着いた風情とはまるで違う姿に表れているから。
「風見さんはもしかしたら、俺と二人で過ごすだけで満足なのかもしれません。でも俺はそうじゃないってこともできたらわかってもらいたいんです」
──心の交流だけじゃ足りないから、俺は。
「俺は身体も愛して欲しいんですよ。……そういう付き合いもあると思うんです」
潤にも、陽一郎の葛藤はわからないわけではない。もともと彼は、そういう価値観を持つ生真面目な人間なのだろう。
それでも、潤にも己の求めるものはあるのだ。
「だから風見さんがどうしても嫌なんじゃなかったら、俺はしたい。……あなたに、抱いて欲しい」
……寂しい。とても、寂しい。
それ以上は口にしなかったが、潤がなんとかして恵太の影を振り切ってしまいたがっているのは陽一郎にも伝わったらしい。
今までにもそれとなく誘いを掛けられていたということを、彼が気づいていなかったわけはない。
わざと見て見ぬふりをして受け流されていたのも察していたが、まったく手応えのないことにそろそろ限界が来たのだ。
「本当に、それでいいのか?」
陽一郎が念を押すのに、潤は煩わし気に首を横に振った。
「後悔してからじゃ遅いんだぞ」
「俺だってもう二十歳過ぎてるんだから、自分で決めたことに後悔なんてしませんよ」
「でも」
陽一郎は往生際悪く言葉を重ねようとしたが、真正面から見つめて来る彼から視線を逸らしてしまった時点で負けた気がする。
「それを風見さんに責任転嫁することも、絶対にしないから。だから──」
こちらに向けて来る潤んだ瞳も、軽く開いた唇も。普段のあどけなさはいったいどこへというくらいに妖艶だ。
心の中の葛藤に無理矢理終止符を打って、陽一郎は覚悟を決めて潤に手を伸ばした。
「新名」
「風見さん、ひとつだけ。名前で呼んで」
「わかった。……潤」
彼の申し出にその裏にある真意を悟って、陽一郎はすんなり承諾する。
恵太と、──厳密には『にーな』と甘く聞こえる彼とは少し違うが、呼ばれ方にもはっきり差異をつけたかったのだろう潤の気持ちは陽一郎にも理解できた。